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2010年05月08日 最小規模の遊廓、最果ての遊廓 [性社会史研究(遊廓)]

2010年05月08日 最小規模の遊廓、最果ての遊廓

5月8日(日)

上村行彰著『日本遊里史』(春陽堂、1929年)の巻末附録「日本全国遊廓一覧」の表をながめていると、「う~ん・・・」と唸ってしまうような「遊廓」がいくつかある。

たとえば・・・、
島根県八束郡美保関村中浦小路「美保関遊廓」 貸座敷1軒 娼妓2人

美保関は、長~く伸びる島根半島の最突端の小さな港町。
今でこそ、松江市に属し、対岸の鳥取県境港市から橋が架かっているが、以前は陸の孤島で、交通は事実上、船だけだった。

大学院生の時に陸路(バス)で「美保神社」に行ったことがあるので知っているのだが、昭和の初め、あんな辺鄙なところに1軒だけ貸座敷があり、たった2人の娼妓がいたのだ・・・。

と書いて、待てよ、と思う。
江戸時代、日本海航路(北前船)が盛んだった時代、美保関は中継港として大いに栄えたはず。
で、調べてみたら、やはり江戸時代には西日本有数の遊廓で、最盛期には村の人口の4分の1が遊女だったとのこと。

「貸座敷1軒 娼妓2人」は、かって繁栄を極めた美保関遊廓の最後の姿だったのだ。

次に、
佐賀県東松浦郡佐志村「佐志遊廓」 貸座敷2軒 娼妓1人

現在の佐賀県唐津市佐志で、唐津港から大島を挟んで北側の入江にある小さな港。

客は、漁師だろうか・・・。
それにしても、こんな所で、娼妓1人で2軒掛け持ちする意味はないと思うから、たまたま1軒の娼妓が欠員だったのだろうか。

でも、もっとすごいところが・・・。

北海道美国郡美国町大字澗 貸座敷1軒 娼妓1人
北海道紗那郡紗那村 貸座敷1軒 娼妓1人

これぞ、最小規模の遊廓、さすがは北海道と言うべきか・・・。

前者は、現在の積丹郡積丹町美国町。
積丹半島の突端に近い小さな港町。
やはり、船乗りの需要があったのだろう。

後者の紗那(しゃな)村は、現在の「北方領土」択捉島中部のオホーツク海に突き出した散布半島のあたりにあった村。
一応、択捉島第2の集落だが、村の人口は1426人(昭和15年=1940年の国勢調査)にすぎない。
もうほんとうの最果ての遊廓。

でも、港に漁船が入れば、けっこう稼げたのかも。
なにしろ「独占企業」だから。

いったい、どんな女性がそこにいたのだろう?
たぶん地元の人ではないだろう。
となると、根室の遊廓「梅ケ枝町」あたりから出張してきたのだろうか?
それとも、もっと遠くから流れ流れて、とうとう最果ての島へ・・・だったのか?

2011年05月14日 昭和初年の北海道の遊廓 [性社会史研究(遊廓)]

2011年05月14日 昭和初年の北海道の遊廓

5月14日(土)

成りゆきで、昭和初年の北海道の遊廓についても調べてみた。

なお、北海道に拠点都市の遊廓の開設年代については、以前、少し調べたことがある。
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-16-17

資料は例によって、上村行彰著『日本遊里史』(春陽堂、1929年)の巻末附録「日本全国遊廓一覧」。

この時代の北海道は、日本の他地域と比べて人口密度が圧倒的に希薄なので、遊廓の規模は、都市部のいくつかを除けば、おしなべて小さい。

娼妓100人以上の遊廓は、九州では17か所あるのに対し北海道には6か所しかない。
50人以上で切っても、東北地方ですら15か所あるのに北海道は10か所にとどまる。

なので、娼妓30人以上の指定地を掲げる

【指定地別ランキング(娼妓数30人以上)】

1 函館「大森」    67軒 366人( 5.46人)
2 札幌「白石」   32  314 ( 9.81人)
3 根室「梅ケ枝町」 21  196  ( 9.33人)
4 旭川「中島」   24  181 ( 7.54人)
5 室蘭「幕西町」  19  117 ( 6.16人)
6 釧路「米町」   14  100 ( 7.14人)
7 小樽「入船」   16   96 ( 6.00人)
8 小樽「手宮」   15   79 ( 5.26人)
9 帯広「木賊原」   7   71 (10.14人)
10 網走「北見町」   8   56 ( 7.00人)
11 厚岸         6   45 ( 7.50人)
12 旭川「曙」     7   43 ( 6.17人)
13 滝川         6   37 ( 6.17人)
14 苫小牧        6   32 ( 5.33人)
15 留萌         8   31 ( 3.87人)

函館「大森遊廓」と札幌「白石遊廓」(大正9年に「薄野遊廓」が移転)が抜けて大きい。
ただし、現在では人口規模も経済力も大きく差が開いている札幌と函館の地位が、この時代はまだ函館が上。

ただ、娼家の規模(貸座敷1軒当たりの娼妓の人数)は、函館「大森」より札幌「白石」の方がかなり(約1.8倍)大きい。

3位は道東の根室「梅ケ枝町」だが、道央の旭川が新旧の遊廓(「曙」が旧廓で、「中島」が新廓)を合わせると31軒224人で3位相当になる。
また小樽も「入船」「手宮」が色街として拮抗していたが、合わせると31軒、175人で5位相当になる。

以下、室蘭「幕西町」、釧路「米町」が100人以上、少し規模が小さくなり、帯広「木賊原」、網走「北見」など、それぞれに地域の開発拠点として早くに都市化(正確には町場化)した場所が続く。

さて、この時代の北海道の主要産業といえば炭鉱と漁業、とりわけ、日本海岸では鰊(にしん)漁が盛んだった。

炭鉱町には多くの鉱夫が、鰊漁の港には漁夫(ヤン衆)がたくさん集まるので、娼妓の需要があり、遊廓が栄えたかと思われる。

しかし、データで見る限り、どうもそうした傾向はあまり見えない。
上位ラインキングでは、6位の釧路は炭鉱町でもあったが道東の拠点としての性格が強い。15位の留萌も炭鉱町であり鰊の水揚げ港でもあったが、それだけくらいだ。

そこで、15位以下から炭鉱町を拾うと・・・、あまりない。

18 岩見沢   6軒  24人
26 歌志内  3   12
29 羽幌村   3   10

とても、大勢の鉱夫に応じられる規模ではない。
炭鉱主や幹部はともかく、一般の鉱夫の給料は、指定地の娼妓と遊ぶには不十分だったということだろうか。

では、鰊で賑わった日本海側の街はどうだろう。

20 岩内町        4   21
21 寿都村        3   21
22 瀬棚村        4   17
23 江差町「新地」    3   15
24 神恵内(かもえない)2   14
28 余市町        4   10
33 松前 「福山町」  2    7
35 増毛町        2    6
37 汐路村        2    4
39 磯谷村        1    4
47 古平町新地町     1    3

岩内、寿都、瀬棚などは町の人口規模に比べて遊廓が大きく、鰊景気の影響が認められる。
しかし、他はどうもあまりぱっとしない。

蝦夷地唯一の城下町の遊廓だった松前「福山遊廓」、北海道で有数の歴史を誇る江差「新地遊廓」の零落ぶりは哀れを誘う。
松前「福山遊廓」にいたっては、礼文島船泊と同規模にまで没落している。

調べてみたら、鰊漁の最盛期は明治30年代(1900年代)で、昭和初年(1930年頃)にはすでに漁獲量は半減し、鰊景気は去っていたようだ。

また、ニシン漁では、ほんの数日で親方たちは一年中遊んで暮らせるほどの大金を儲けたにしても、多くのヤン衆にまで、遊郭で遊ぶほどの金が回ったのだろうか?

そもそも、ヤン衆は、短期の季節労働者なので、遊廓を支える恒常的な客とはなり得なかった。

ということで、結論として昭和初期の北海道の遊廓は、やはり拠点都市集中型だったと思われる。
これは、開拓拠点に遊廓が形成されていった明治前半期の形態が、そのまま昭和初期にまで踏襲されているということだろう。

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【昭和初年の北海道の遊廓(娼妓30人以下)】

16 枝幸         5軒  29人
17 幌泉(えりも町)  5   26
18 岩見沢        6   24
19 森村         4   24
20 岩内町        4   21
21 寿都村        3   21
22 瀬棚村        4   17
23 江差町「新地」    3   15
24 神恵内(かもえない)2   14
26 歌志内       3   12
27 石狩町        2   12
29 羽幌村        3   10
30 利尻島鷲泊村     3   10
31 霧多布村       3    9
32 広尾茂寄村      3    8
33 松前「福山町」   2    7
33 礼文島船泊村     2    7
35 増毛町        2    6
36 紋別村        1    6
37 浜益村        2    4
37 汐路村        2    4  
39 深川村        1    4
39 静内下々片村     1    4  
39 磯谷村        1    4
39 浦河町        1    4
39 稚内町常盤通     1    4
39 標津郡標津村     1    4
45 利尻島鬼脇村     2    3
46 礼文島香深村     2    3
47 古平町新地町     1    3
48 虻田郡虻田村     1    2
49 美国町大字澗     1    1
50 択捉島紗那村     1    1
51 国後島泊村      1    0

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【参考:北海道の遊廓の開設時期】

安政5年(1858)函館「山ノ上遊廓」→ 明治4年(1871)「蓬莱町遊廓」→明治40年「大森遊廓」
明治4年(1871)札幌「薄野遊廓」→大正9年「白石遊廓」
明治6年(1873)小樽「金曇町(こんどんちょう)遊廓」明治14年「住之江遊廓」→明治29年「松ヶ枝遊廓」「手宮遊廓」
明治初年?   江差「新地遊廓」
明治9年(1876)根室「弥生町遊廓」→ 明治12年(1879)平内町→明治24年(1891)花園町
明治27年(1894)網走「北見町遊廓」
明治28年(1895)室蘭「幕西遊廓」
明治30年(1897)旭川「曙町遊廓」
明治31年(1898)帯広「木賊原(とくさはら)遊廓」
明治33年(1900)釧路「米町遊廓」
明治40年(1907)旭川「中島遊廓」

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【文献】

(学術論文)
星 玲子「北海道における娼妓解放令--函館地方を中心にして」
『歴史評論』 491号(1991.3月)
星 玲子「北海道における娼妓自由廃業--1900年前後を中心に」
『歴史評論』 553号(1996年5月)
星 玲子「近代公娼制度における賦金の実態について--1870年代の北海道を中心にして」
『総合女性史研究』 18号 (2001年3月)

(単行本)
小寺平吉『北海道遊里史考』(北書房 1974年)
木野 工『旭川中島遊廓』(光風社書店 1975年) → 短編小説集
平林正一・久末進一『聞き書 室蘭風俗物語』(袖珍書林 1986年10月)
谷川美津枝『ものいわぬ娼妓たち-札幌遊廓秘話-』(みやま書房 1984年11月)
山谷一郎『オホーツク凄春(セイシュン)記-雑草の女・中川イセ物語-』(講談社 1986年6月)

2010年03月19日 北海道の遊廓の開設年代 [性社会史研究(遊廓)]

2010年03月19日 北海道の遊廓の開設年代

3月19日(金) 曇り 札幌 5.5度 湿度 43%(15時)

北海道開拓記念館へ。
(中略)

ちなみに、近代の展示、「遊廓」関係の資料は皆無だった。
「子女の身売りはやめませう」のポスターはあったが・・・。

世界どこのフロンティア(開拓地)でもそうであるように、北海道開拓事業に従事した人は圧倒的に男性が多かった。
その男女の人口落差を埋めるために、大勢の娼婦たちが開拓の前線を追って進出していった。

その様子は、北海道に拠点都市の遊廓の開設年代をちょっと調べただけでも、道南・沿岸部から道央へという流れが明らかに見て取れる。

安政5年(1858)函館「山ノ上遊廓」→ 明治4年(1871)「蓬莱町遊廓」
明治4年(1871)札幌「薄野遊廓」
明治6年(1873)小樽「金曇町(こんどんちょう)遊廓」
明治初年?   江差「新地遊廓」
明治9年(1876)根室「弥生町遊廓」→ 明治12年(1879)平内町→同24年(1891)花園町
明治27年(1894)網走「北見町遊廓」
明治28年(1895)室蘭「幕西遊廓」
明治30年(1897)旭川「曙町遊廓」
明治31年(1898)帯広「木賊原遊廓」
明治33年(1900)釧路「米町遊廓」
明治40年(1907)旭川「中島遊廓」

例によって、そうした事実は、歴史の闇に封じ込められている。

(後略)

2011年05月08日 昭和初年の九州の遊廓 [性社会史研究(遊廓)]

2011年05月08日 昭和初年の九州の遊廓

5月8日(日)

ちょっと必要があって、昭和初年の九州の遊廓について調べた。
資料は、上村行彰著『日本遊里史』(春陽堂、1929年)の巻末附録「日本全国遊廓一覧」による。

【県別】 
長崎県 23か所 273軒 2247人( 8.23)
福岡県 10か所 169軒 1687人( 9.98)
沖縄県  1か所 516軒 1032人( 2.00)
熊本県  4か所  92軒  994人(10.80)
鹿児島県 1か所  23軒  402人(17.47)
佐賀県  6か所  78軒  317人( 4.06)
大分県  5か所  75軒  211人( 2.81)
宮崎県  6か所  22軒  152人( 6.91)

【指定地別ランキング(娼妓数100人以上)】
1 沖縄県那覇市「辻(チージ)」  516軒 1032人( 2.0人)
2 熊本県古町村「二本木」      64軒  763人(11.9人)
3 福岡県住吉町「新柳町」      47軒  636人(13.5人)
4 長崎県早岐村「田子の浦」     60軒  590人( 9.8人)
5 鹿児島県鹿児島市「沖之村」    23軒  402人(17.5人)
6 長崎県長崎市「出雲町」      22軒  370人(16.8人)
7 長崎県長崎市「稲佐」       22軒  291人(13.2人)
8 福岡県門司市「馬場」       17軒  250人(14.7人)
9 福岡県久留米市「原古賀」     21軒  244人(11.6人)
10 長崎県長崎市「戸町」       14軒  213人(15.2人)
11 熊本県八代町「紺屋町」      19軒  156人( 8.2人)
12 佐賀県北川副村「今宿」      17軒  140人( 8.2人)
13 福岡県大川町「向島」       19軒  130人( 6.8人)
14 大分県別府町「浜脇」       41軒  114人( 2.8人)
15 福岡県小倉市「旭町」       28軒  107人( 3.8人)
16 福岡県大牟田市「新地」      12軒  103人( 8.6人)
17 長崎県大村「田の平」        8軒  101人(12.6人)

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【比較参考】
東京府浅草区千束町(新吉原)   228軒  2362人(10.36)
東京府深川区洲崎弁天町(洲崎)  183軒  1937人(10.58)
東京府豊多摩郡内藤新宿町(新宿) 56軒   570人(10.18)
大阪府大阪市西区(松島)      275軒 3725人(13.55)
神奈川県横浜市永楽町        36軒  747人(20.75)
神奈川県横浜市真金町        42軒  754人(17.95)  

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(1)県別
長崎県がすべての項目で他を圧している。
アジア大陸への門戸としての海上交通の拠点という江戸時代以来の地理的特性を、昭和初期までは保っていた。
逆に言えば、長崎県の没落は、海外交通の手段が船から航空機に変わてからのこと。
2位の福岡県は予想通り。
3位に沖縄県が来るのは意外だったが、これは性の文化、遊廓の形態が九州本土とは異なる、特異性を保っていたからだろう。
4位の熊本県はともかく、5位以下の鹿児島・佐賀・大分・宮崎の4県は、やはり経済規模が小さいことがわかる。

(2)遊廓の規模(貸座敷軒数・娼妓人数)

那覇の辻遊廓(現:那覇市辻町)が516軒 1032人で、断然トップ。
この数字、ぴったり貸座敷1軒あたり娼妓2人。
おそらく、そういう制度だったのだろう。

貸座敷1軒あたり10人程度の娼妓を抱えるのが平均的な近代遊廓のあり方としては、きわめて小規模経営。
琉球王朝以来の伝統的な沖縄の遊廓の姿が、昭和初期までそのまま残っていたのだと思う。

続いて熊本の二本木遊廓(現:熊本市二本木)、福岡の新柳町遊廓(現:福岡市中央区清川)、長崎佐世保の田子の浦遊廓(現:佐世保市早岐)、鹿児島の沖之村遊廓(現:鹿児島市甲突町)と続く。

おもしろいのは長崎で、江戸時代からの老舗である丸山遊郭が衰退し、出雲町遊廓(現:長崎市出雲)、稲佐遊廓(現:長崎市稲佐町)、戸町遊廓(長崎市)が分立する。3か所を合わせると58軒874人となり、熊本の二本木遊廓を上回り第2位に相当する。

後は、門司の馬場遊廓(現:北九州市門司区東本町)、久留米の原古賀遊廓(現:久留米市原古賀町)、八代町の紺屋町遊廓(現:八代市本町)、佐賀の今宿遊廓(現:佐賀市今宿町)、大川の向島遊廓(現:大川市向島)、別府の浜脇遊廓(現:別府市浜脇)、小倉の旭町遊廓(現:北九州市小倉北区船頭町)、大牟田の新地遊廓(現:大牟田市新地町)、大村の田の平遊廓(現:大村市大里町田ノ平)など。

(3)娼家の経営規模

括弧内の数値は、貸座敷1軒あたりの娼妓数。

特有の形態だった沖縄の辻遊廓は別として、娼家の経営規模は九州各地でかなりばらつきがある。

トップは鹿児島市の沖之村遊廓で17.5人、続いて長崎市の出雲町遊廓の16.8人、同戸町遊廓の15.2人、門司市の馬場遊廓の14.7人が続く。

【比較参考】の東京の新吉原、洲崎、新宿遊廓は、だいたい10人強なので、それに比べて、九州で上位にランクされる遊廓の娼家の経営規模は、かなり大きいことになる。

なお、娼妓の人数を貸座敷の軒数で割って1軒あたりの娼妓数を算出し、それを娼家の経営規模と考える方式は、娼妓と芸妓が混在している色街で、しかも芸妓が中心になっている場所では、成り立たない。
1軒あたり2.8人という小さな数字が出ている別府浜脇遊郭がその典型。
3.8人の小倉旭町遊廓も、同様の事情だった可能性がある。

2009年03月09日 昭和初年の東北地方の遊廓 [性社会史研究(遊廓)]

2009年03月09日 昭和初年の東北地方の遊廓

他の記事のコメントで、山形市の遊廓のことが話題になったのがきっかっけで、東北地方の遊廓について簡単な調査をしてみた。

資料は、上村行彰著『日本遊里史』(1929年)所収の「日本全国遊廓一覧」で、指定地、貸座敷軒数、娼妓人数を抜き書きしてみる。
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【県別】 
山形県 25ヵ所 172軒 834人
福島県 27ヵ所 115軒 651人
宮城県 14ヵ所  60軒 632人
青森県 15ヵ所 147軒 460人
岩手県 18ヵ所  92軒 330人
秋田県 10ヵ所  74軒 263人

【指定地別ランキング(娼妓数50人以上)】

1 宮城県仙台市小田原             32軒 271人
2 山形県山形市(小姓町)           22軒 169人
3 山形県西田川郡鶴岡町            29軒 134人
4 山形県飽海郡酒田町             32軒 105人
5 青森県弘前市北横町             25軒 104人
6 青森県青森市大字長島(吉原)        22軒 95人
7 青森家三戸郡小中野村大字小中野(新地) 36軒 81人
8 秋田県山本郡能代港町新柳町        18軒 71人
9 福島県北会津郡町北村            10軒 68人
10 福島県西白河郡白河町            14軒 63人
11 福島県福島市(一本杉)           10軒 61人  
12 岩手県盛岡市八幡町             12軒 59人
13 秋田県秋田市保戸堂裏・鉄砲町(新地)  10軒 58人
14 山形県米沢市                 10軒 56人
15 福島県信夫郡瀬上町              7軒 52人

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まったく意外だったのは、県別集計で、山形県が貸座敷軒数、娼妓人数ともに、圧倒的にトップだったこと。

さらに、個別集計では、1位こそ(予想通り)宮城県仙台市の小田原遊郭だったが、2位(山形市)・3位(現:鶴岡市)・4位(現:酒田市)に山形県の遊廓が入っているのも、驚きだった。

貸座敷軒数や娼妓人数、つまり、遊廓の規模、盛況については、いろいろな要素が絡み、単純ではないが、やはり基本的にその地域の総体的な経済力を反映してとうに思う。

正直言って、現在の山形県、あるいは山形市のイメージから、この結果は予想できなかった。
(山形関係者の皆さん、ごめんなさい)。

2007年03月05日 さくらん極彩色絢爛展 ― めくるめく花魁の世界 ― [性社会史研究(遊廓)]

2007年03月05日 さくらん極彩色絢爛展 ― めくるめく花魁の世界 ―

3月5日(月) 曇りのち風雨 東京 20.6度 湿度 62%(15時)

9時半、起床。

朝食は、トースト1枚、生ハム3枚、それにコーヒー。

シャワーを浴びて、髪をお団子にまとめる。

「日記(4日分)を書く。

12時半、仕事場に移動。

すぐに身支度。
夕方から風雨の予報なので、雨仕様。
薄紅色の滝縞の会津木綿。
黒地に銀の鱗の帯を角出しに結ぶ。
深草色にカタバミ柄の半襟をつけた黒地に更紗模様の長襦袢(紫織庵)。
帯揚は、若草色。
帯締は、濃い草色(福福堂)。
黒のカシミアのショール。
赤地に麻の葉模様の鼻緒の下駄。

14時、渋谷へ。
風が強く、雨がぱらつき出す。
センター街を抜け、スペイン坂を上り、「パルコ3」へ。

映画「さくらん」(蜷川実花監督)公開記念 「さくらん極彩色絢爛展 ― めくるめく花魁の世界 ―」を見る。

実際の撮影に使用されたセットを持ち込み、色とりどりの衣裳・小道具とともに映画の世界を再現した展示。
全体的になかなか良くできている。
ライバル花魁同士の部屋が近すぎるのは、セットならではのご愛嬌。
しかし、史実的にはこれほど極彩色だったのだろうか?
人工(化学)塗料が使える現代と、天然の顔料・染料しか使えなかった江戸時代とでは、発色がかなり違ったはず。
まあ、蜷川実花の世界、こういう指摘は野暮だろう。

会場、若い女性がほとんど。
原作『さくらん』(安野モモコ著 講談社)の読者や、主演の土屋アンナのファンなのだろう。
遊廓映画と若い女性という組み合わせ、一昔前ならほとんど考えられない。

過去の遊廓映画は、ほとんど例外なく、遊廓に「身を沈めた」女たちの悲しさ、哀れさ、そしてエロスを描いてきた。
女性は常に、男の欲望の対象として、男に翻弄される客体だった。
今回の「さくらん」は「てめえの人生、てめえで咲かす」というキャッチコピーのせりふのとおり、遊廓を舞台にのし上がっていく女の物語で、女性が主体。

そこらへんが、現代の若い女性には「かっこいい」と映るのだろう。

実際の遊廓には、両面があったはず。
ところが、今までは、性的客体としての遊女の悲惨な境遇ばかりが強調され、貧しく低い身分に生まれた美貌と才智に恵まれた女性が、身分上昇(出世)をはたす唯一の手段(回路)としての側面(成功率は高くはなかったが)が、見逃されがちだったように思う。

会場を出たところで、花魁の衣装を着たモデルさんとのツーショットサービスをやっていた。
係員に「どうぞ」と言われて、断る理由もないので撮影。
でも、私、花魁とツーショット撮って喜ぶ趣味はないな、と思う。
花魁の格好して写真を撮られる趣味はあるけど。

それに、つい最近、抜群に美形の私好みの花魁を間近に見てるし・・・・(←どこで?)

2009年06月27日 鈴木ナミ『哀愁の田町遊廓 浜田楼』 [性社会史研究(遊廓)]

2009年06月27日 鈴木ナミ『哀愁の田町遊廓 浜田楼』

6月27日(土) 晴れのち曇り 東京 31.8度  湿度 48%(15時)

書い置きしておいた鈴木ナミ『哀愁の田町遊廓 浜田楼』(2005年5月 文芸社)を読む。

娘時代、東京八王子市役所に勤務していた筆者が、納税業務を通じて出会った浜田楼の楼主夫妻をはじめ田町遊廓の人々の思い出を記したもの。
調査記録ではなく、年次に明らかな記憶違いがあったりするが、戦中・戦後の八王子・田町遊廓の状況を伝えている。

浜田楼の楼主の家で女中をしている「じゃがいものような顔をしている」おばさんが、元は浜田楼でナンバーワンの売れっ妓の遊女「玉虫」だったことを知って驚く筆者に、おばさんが「そんなにびっくりしないでよ。『明眸皓歯、色あせて、春や昔の夢ならん』て言うでしょう。(中略)私の色香に迷って犬でさえ、尾を振ってついてきたんだから」と言うシーンが印象的。

ちなみに、この「玉虫」さん、越後の産。
戦前の遊廓では、越後の女性の評価が高かったが、これもその一例。

また、クロブタ先生とあだ名されていたブ男の歯科医が、患者の美しい遊女と恋仲になり、身請けして、歯科医院を閉めて信州の田舎に帰った話もジーンとくる。


2006年03月12日 前田豊『玉の井という街があった』 [性社会史研究(遊廓)]

2006年03月12日 前田豊『玉の井という街があった』

3月12日(日) 曇り 強風

前田豊『玉の井という街があった』(立風書房 1986年12月)を読む。

永井荷風の『墨東綺譚』(「墨」はさんずい)で名高い戦前の私娼窟玉の井を再現しようとした労作。

「ラビラント」と呼ばれた曲がりくねった細い迷路のような路地で知られる私娼窟玉の井は、大正12年(1923)の関東大震災で壊滅した浅草十二階下の「銘酒屋」街が集団移転したことから実質的に始まる。

その歴史は、昭和20年(1945)3月10日の大空襲で灰燼に帰すまでのわずか20数年間にすぎない。
戦後焼け残った隣接地区に再建された「赤線」玉の井の時代(1946~1958)を加えても35年ほどである。

しかも、公娼街である新吉原、洲崎、新宿、千住などと異なり、公には存在しないことになっていた私娼窟であるだけに、記録に乏しく、『墨東綺譚』のイメージばかり先行して実態は案外わからない。
本の帯に「幻の私娼窟」とあるのも、うなづける。

著者は、文献に加えて1985年という時点で可能な限りの聞き取り調査をしており、娼婦の自身の聞き取りはないものの、経営者から聞き取りがなされているのはとても貴重。
聞き取りがもう10年早ければと惜しまれる。

ところで、荷風の『墨東綺譚』は昭和11年9月20日に起稿、10月25日に脱稿しているが、構想を得るための玉の井通いは、昭和11年3月31日に始まり、脱稿までの約半年間に32~33回ほどだそうで、平均すると月に5~6回ということになる。
もっと入り浸っていたのかと思っていたがそうでもない。
ただ荷風がこの年58歳であったことを考えれば、ご精励と言うべきかもしれない。

ちなみに、荷風が足繁く通った相手、つまり『墨東綺譚』のヒロインの「お雪」のモデルは、著者の調査でも不明だそうだ。

2005年12月08日 一瀬幸三『新宿遊郭史』 [性社会史研究(遊廓)]

2005年12月08日 一瀬幸三『新宿遊郭史』

12月8日(木) 晴れ 

一瀬幸三『新宿遊郭史』(新宿郷土会 1983年10月 部分コピー)を読む。

自費出版のようだが、新宿遊廓の通史としては唯一のもの。

遊廓時代の実際を知る人が、まだかろうじて残っている時代の編纂で、今となっては貴重な文献だ。新宿遊廓の「モダン化」(客室の洋風化、娼妓のモダンガール化、ダンスホールや食堂の併設)が1930年(昭和5年)に始まったことが詳細に記されていて、興味深い。

ただし、戦後の赤線時代のことは、ほとんど記されていないのは残念。

ちなみに赤線廃止後の旧指定地域について、1962年頃にヌードスタジオが12軒もあって、都内一の集中度だったことが記されているが、ゲイバーの進出についての記載はまったくない。
この点も「ゲイタウン」の成立時期を考える上で重要。

2005年12月14日 新宿遊廓の場所 [性社会史研究(遊廓)]

2005年12月14日  新宿遊廓の場所

12月14日(水) 晴れ

以前から気になっていた新宿遊廓の正確な場所を検討。

新宿遊廓の場所については、現地に痕跡がまったくない。

少なくとも私があの界隈をよく歩いていた頃(8~10年ほど前)は、旧跡であることを示す表示もなかったと思う(今でもたぶんない)。

江戸時代の内藤新宿の飯盛女に起源をもつ新宿遊廓は、場所の変遷があるが、昭和戦前期の遊廓の所在地については「新宿2丁目」にあったことは間違いない。
ただし、その正確な場所については、かなり曖昧である。

私は、新宿で遊んでいた頃、ある年配の方から「現在の『ビッグス新宿ビル』(2丁目19番地)が遊廓の跡地である」と聞いたことがあった。

その後、「東京の性感帯-現代岡場所図譜-」(『人間探究』25号 1952年5月)に掲載されていた地図と照合して「ビッグス新宿ビル」とその周囲(12・16・17・18・19番地)」が、戦後(1946~1958年)の「赤線」(特殊飲食店街)指定地域であることもわかった。

このエリアは、現在では(ビッグス新宿ビルを除き)、男性同性愛者向けの酒場の密集地域になっているので、「赤線」から「ゲイタウン」という変遷は、間違いない。

問題は、昭和戦前期の新宿遊廓と戦後の「赤線」との地理的重なりである。
重なっていることは間違いないが、同じエリアだったとは限らない。

そのことに遅まきながら気づいたのは、今年の1月に入手した「新宿盛り場地図」(新宿歴史博物館編)だった。

昭和10年(1935)ころの新宿の町並みを正確に記したこの地図の片隅に、新宿遊廓(の西半分?)が描かれているのだが、その位置が、私が思い込んでいた場所とはかなり異なっていた。
ずっと西に(新宿駅寄りに)寄っていたのである。
(1月30日の「日記」参照)。
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-16-10

以来、ずっと気になっていたが、目先の仕事に追われてちゃんと検討する時間がなかった。
やっと今日、同じ縮尺になるようにコピーした昭和10年(1935)頃と現代の地図を重ね合わせてみる作業をすることができた。

まず道路について。
新宿通りと明治通りはほとんど拡幅されていない。
靖国通りは明治通りより東でかなり拡幅されている。
何よりも大きな変化として、現在の2丁目と3丁目の境界になっているグリーンベルトのある広い道路(御苑大通り=新田裏の交差点の南で明治通りから分岐して新宿御苑に突き当たる道路)が、昭和10年には未開通であること。

細かく見ると、昭和10年の地図で「東海通り」と注記されている末広亭の前の南北道、さらに西側の南北道は、現在と同じである。
そして、これが肝心なことだが、昭和10年の地図で「大門通り」と注記されている新宿遊廓のメインストリートは、現在の要通りに一致する。

つまり、現在の要通りの両側、新宿3丁目の7・8・9・10番地には、遊廓の建物がぎっしり立ち並んでいたことになる(ただし、7・10・11番地は要通り寄りの3分の2ほどが遊廓)。

新宿遊廓は、さらに東に広がっていて「ビッグス新宿ビル」のあたり(新宿2丁目19番地)にも遊廓の建物が立ち並んでいたが、少なくとも新宿遊廓のメインストリートは、現在の2丁目ではなく3丁目であることが確定できた。

こうした認識の混乱に、遊廓という土地の記憶を抹殺したいという意識が作用していることは間違いないと思う。
さらに事情をややこしくしているのは、先述の御苑通りの開通による道路と街区の大きな変化、そしてそれに伴う2丁目と3丁目の境界の変化である。

御苑通りは、新宿遊廓のエリアを真っ二つにしているので、その開通が遊廓の立地状況に大きく影響を与えたことは間違いない。

2丁目と3丁目の境界については、やはり年配の方から「要通りが境界だったんだよ」と教わったことがあり、そう認識していたが、それは必ずしも正確ではないようだ。
地図を重ね合わせると、昭和10年頃の2丁目と3丁目の境界線は、新宿遊廓の西側のライン(裏通りと塀があった)に重なっている。
境界線は、現在の地番では3丁目7・10・11番地を通過しているが、現在の道路区画には該当するものがなく、おおよそのところ、要通りと末広亭前前の南北道の間、半分よりやや末広亭前道路寄りを通っている。
(後に調べたら、2丁目と3丁目の境界線変更の時期は1968年1月1日のようだ)

ということで、昭和戦前期の新宿遊廓の所在地について、だいぶ認識を改めることができた。
後は、御苑通りの開通の時期を確定できれば、かなりはっきりすると思う。

ちなみに、今から13年前、私が初めて行った新宿のお店「梨沙」は、新宿3丁目7番地にあった。
戦前の地図と合わせてみると、新宿遊廓の西南端に当たり「第一不二川」という妓楼の跡地に相当する。
なんだかとても感慨深い。

2005年01月30日 新宿遊廓の場所比定 [性社会史研究(遊廓)]

2005年01月30日  新宿遊廓の場所比定

1月30日(日) 曇り 寒い

土曜日に新宿歴史資料館で購入してきた「新宿盛り場地図」を眺め、手持ちの昭和30年代、及び現代の地図と対比してみる。

昭和10年段階の新宿遊廓の場所は、私が今まで考えていた場所より、西寄りであることが判明。

このあたりは、単に戦災(空襲)で丸焼けになっただけでなく、道路改正、特に現在、新田裏で明治通りから分岐して新宿御苑に突き当たっている中央分離帯のある大きな通り(御苑大通り)の開通で、街割りが大きく変わり、新宿2丁目と3丁目の境界も移動しているので、比定が難しい。

どうも現在の要通り(御苑通りの1本西の道路)が、新宿遊廓の中央を南北に通っていた「大門通り」に相当するようだ。

もう少し調べてみようと思う。

2005年09月26日 遊廓・赤線踏査のメモ作り [性社会史研究(遊廓)]

2005年09月26日 遊廓・赤線踏査のメモ作り

遊廓・赤線踏査のメモを作る。
2000年11月の東京洲崎から、2005年9月の京都中書島・橋本まで12カ所になっていた。

自分としてはメインテーマではなく、サブテーマのひとつという位置付けなので、計画的に歩いているわけではない。
出張先で時間があるときに立ち寄ったり、気が向いて出掛けたりなのに、いつも間にか、ずいぶん写真が溜まっていた。

中にはすでに失われてしまった建物の写真もある。
今まであまり整理もしていなかったので、この機会に少しちゃんと整理しておこうと思う。

私が遊廓や赤線があった場所を歩いて当時の建物などの写真を撮るのは、主に三つの理由がある。
第一は、原色のタイルに彩られた怪しいデザインの建物に不思議な魅力を感じるから。
第二は、かってその場所で、さまざまな理由から売春という行為をしなければならなかった「女たちがいた」こと、あるいは、一時の快楽のために女たちを買った男たちがいたことを、忘れたくないから。
第三は、なぜか研究が手薄な戦後の買売春の歴史の今に残る生の資料を収集したいから。

こう書くと、性社会史研究者らしいすごく真っ当な理由に見える。
だけど、ほんとうの理由はもっと深いところにあるのかもしれない。

なぜか、私は遊廓や赤線のあった場所に惹かれるのだ。
そして、その場所に立つと、妙に懐かしい思いが浮かんでくる。
その場所にいたであろう女たちにシンパシィというか、親和感を感じている自分に気が付く。

最初は、私が旧青線地区(1946~58年の非合法売春地区)である新宿花園街とその近辺で「女」としての青春時代を過ごしたからかなと思った。
でも、それだけではない気がする。

これから先の話は読み流していただきたい。
2001年1月に初めて新吉原を歩いた。
今はソープランド街になっている街を、赤線時代の建物を探して歩き回った。
小さな公園になっている場所で足が止まった。
なぜかすごく懐かしい気持ちになった。
ずっと以前にいた場所に帰ってきたような・・・・。

そこは、明治~大正期に有名な大店があった場所だった。
私は何回か前の前世で、ここにいたのではないだろうか?
そんな思いが心に浮かんできた不思議な体験だった。

妄想かもしれない、妄想だろう。
でも、今でも心の奥に、その思いはある。

就寝4時。

2010年08月04日 『朝日新聞』夕刊「ニッポン人・脈・記」の撮影 [朝日新聞「男と女の間には」]

2010年08月04日 『朝日新聞』夕刊「ニッポン人・脈・記」の撮影

8月4日(水) 曇りのち晴れ  東京 33.8度 湿度 58%(15時)

7時半、起床。

シャワーを浴びて、髪にあんこを入れて頭頂部で結んでシュシュを巻く。

朝食は、アップルパイとコーヒー。

化粧と身支度。
赤と白の大市松に黒の鋸歯文を乗せた銘仙写しの綿紅梅(メテュンデ)。
横縞の博多帯の黄色を上に出し、その上に赤黒の半幅帯を巻いて、順子オリジナルの二階文庫に結ぶ。
黄色の吸い上げ暈しの半襟(ゑり正)を付けた半襦袢。
帯締は草色の吸い上げ暈し(ゑり正)。
赤地に手毬柄の手提げ袋。
赤色の麻の葉模様の鼻緒をつけた白木の下駄。
左前髪に、赤珊瑚の飾り櫛。

9時50分、家を出る。午前中、自由ガ丘で「『続日本紀』と古代史」の講義。

カルチャーセンターのスタッフさん、受講生の皆さんに驚かれる。
「今日はこの後、撮影なので・・・」と言い訳。

(この間、着物姿で古代史の講義)
12時、終了。

昼食は、例によって「平禄寿司」へ(4皿)。
顔見知りの女性スタッフに驚かれる。

学芸大学駅に戻り、東口商店街の「ドトール」でコーヒー・ブレイク。

13時半、「仕事部屋」に戻る。

眠いので、横になりたいのだが、この格好では帯が邪魔で、うつ伏せ寝以外は無理。
でもうつ伏せで眠ると、顔がむくむから駄目。

椅子に座ったまま居眠りして、転げ落ちそうになる。

15時、早めに行きつけの美容院「ヘアー アン ローズ」(目黒区鷹番)へ。
女将さんに、髪を「夜会巻き」(の変形)にセットしてもらう。

お会計をした後、涼しい所で、撮影モードに化粧を直す。
アイシャドーとチークを濃くして、アイラインもほぼ全周に引く。
でも、この暑さだと、撮影までに流れちゃうだろうなぁ。

再び「ドトール」で時間調整。

17時20分、電車で新宿に移動。

18時、新宿駅東口「みずほ銀行」前で、朝日新聞社のW記者とカメラマンのKさんと待ち合わせ。

今夜は、『朝日新聞』夕刊の連載企画「ニッポン人・脈・記」の撮影。

当初、6月18日に予定されていたものが雨で流れてしまい、その後は、参議院選挙の取材でW記者が多忙で、今日まで延びてしまった。
掲載が8月下旬の予定なので、もう待ったなし。

まず「カフェラミル」に入って、クールダウンしながら補充インタビュー。

19時過ぎ、ほぼ完全に暗くなった頃を見計らって、歌舞伎町へ。

旧「ジュネ」(区役所通り)、「風林会館」前、「コマ劇」前の三カ所で撮影。

プロのカメラマンにちゃんと撮ってもらうのは、13年ぶり?

13年前は、まだ40歳代の初めで、それなりに容姿に自信はあったが、今はもう容姿がどうこう言える年齢じゃない。

できあがりが楽しみであると同時に、13年間の劣化が怖い。

それにしても、今まで4回あったこの手の撮影、なぜかその内の3回が夏。
汗かきの私には、条件が悪い季節。

今夜も、暑さと風で条件的には良くなかったが、なんとか撮り終える。
100804-1.jpg
20時過ぎ、撮影終了。

W記者と東口「高野」裏手のパブ・レストラン「KEN’S DINING」へ。
飲み食いしながら、2時間半ほど、おしゃべり。

W記者、しきりに「楽しい取材だったなぁ」と言う。
楽しく仕事ができたのなら、何より。
きっと、良い連載記事になるだろう。

新聞掲載は8月下旬。
13回シリーズで、W記者のつもりでは(デスクの意向によって変更されるかも)、私は最終回(トリ)に登場の予定とか。

22時半、辞去。

記念にツーショット撮影して、握手して別れる。
100804-2.jpg
↑ 記者の左手に注目。肩を抱く勇気(根性)はないらしい(笑)

23時半過ぎ、帰宅。

もったいないけど髪を崩して、お風呂に入って、髪を洗う。

この暑さの中、朝から夜までずっと着物を着ていたので、疲労困憊。

就寝、3時。


2010年04月07日 担当記者に会う [朝日新聞「男と女の間には」]

2010年04月07日  記者に会う
(前略)

昼食は、いつものように「平禄寿司」(6皿)。
春休みが終わったようで、今日は空いていた。

学芸大学駅に移動して、東口商店街の「ドトール」でコーヒー・ブレイク。
上京中の妹に電話したら、姪っ子と渋谷にいることが判明。
急遽、会いに行くことにする。

13時、「仕事部屋」に戻る。
30分だけベッドで横になり休憩。
化粧を直して再外出。

14時20分、渋谷の東急本店通りで、妹と姪(妹の長女で大学生)と合流。
日暮里の飛不動に付き合って(2009年7月4日)以来だから9ヵ月振り。

西武デパートの喫茶室でお茶。
1時間ほどの短い時間だったが、会えて良かった。

15時20分、妹たちと別れて、山手線で高田馬場駅へ。
16時、早稲田大学の大隈重信像前で、朝日新聞のW記者と待ち合わせる。

なんでここで?と思ったら、単にW記者が早稲田大出身だったかららしい。

「リーガロイヤルホテル東京」のカフェで、2時間弱、お話する。

W記者は、30歳代の男性で名古屋支局の所属。
『朝日新聞』夕刊の連載記事「ニッポン 人・脈・記」の社内企画コンペに通り、4月から半年間、その取材に専念することになったらしい。

3月の末に、電話で下取材(というか相談)を依頼された。

W記者、体格から元体育会系っぽいが、考え方はまともというか、しっかりしている。
信頼できそうな方なので、具体的にどんなお手伝いをすることになるかわからないが、できるだけの協力はするつもり。

18時、辞去。

『朝日新聞』夕刊連載「ニッポン 人脈記 男と女の間には」(全13回)索引 [朝日新聞「男と女の間には」]

2010年10月01日

『朝日新聞』夕刊連載
「ニッポン 人脈記 男と女の間には」(全13回) 索引

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記:男と女の間には」のインデックスを作りました。
URLで掘り起こしていただくと、紙面の画像と記事(文字入力)が読めますので、ご利用ください。

なお、『朝日新聞』のサイトで読めるのは、第1回だけです。

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(第1回)9月6日(月)「見えない壁 突き破った」 上川あやさん・野宮亜紀さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-14-2

(第2回)9月7日(火)「女ごころ 裕次郎が抱いた」 カルーセル麻紀さん・圭子さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-14-3

(第3回)9月8日(水)「本当のしあわせって?」 原科孝雄さん・なだいなださん・塚田攻さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-14-4

(第4回)9月9日(木)「急げ 法の後ろだて」 大島俊之さん・南野知恵子さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-14-5

(第5回)9月13日(月)「パパもおっぱいあげたい」 森村さやかさん・水野淳子さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-15

(第6回)9月15日(水)「『性てんかん』黒板に書いた」 虎井まさ衛さん・小山内美江子さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-15-1

(第7回)9月16日(木)「ニューハーフ 薩摩に帰る」 ベティ春山さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-15-2

(第8回)9月21日(火)「厳しくても心のままに」 瞳条美帆さん・椿姫彩菜さんhttp://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-15-3

(第9回)9月22日(水)「至って普通の結婚です」 若松慎・麗奈ご夫妻
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-16

(第10回)9月27日(月)「ゆらり揺られて 私は私」 石島浩太さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-16-1

(第11回)9月28日(火)「人生 面白がらなきゃ」 能町みね子さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-16-2

(第12回)9月29日(水)「もっと大切なものがある」 中村中さん・戸田恵子さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-16-3

(第13回)9月30日(木)「違いがあっていいんだよ」 三橋順子・藤原和博さん
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-16-4

「ニッポン人脈記:男と女のあいだには」(13・最終) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記:男と女のあいだには」(13・最終)

2010年9月30日(木)

大地震が来ることもなく、火山が噴火することもなく、お陰さまで、朝日新聞(夕刊)「ニッポン人脈記:男と女のあいだには」「第13回(最終)違いがあっていいんだよ」が無事に紙面に載りました。

前・杉並区立和田中学校校長の藤原和博さんと私のコラボです。

写真は、新宿歌舞伎町旧コマ劇前での撮影。
蒸し暑いうえに風が強く、屋外撮影には最悪の条件でしたが、「髪を押さえるしぐさが色っぽいので」(渡辺記者)ということで、この写真になったようです。

同時に、この「男と女のあいだには」シリーズも完結となりました。

お世話になった皆様に、心から感謝いたします。

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ニッポン 人脈記 男と女の間には(13)
13回.jpg

違いがあって いいんだよ
きりりとした着物姿とは裏腹に、三橋順子(55)は不安でいっぱいだった。いざ、教室の扉を前にすると、ためらわずにはいられない。

「子どもって容赦ないからな。『おかま』って指をさされて笑われたらどうしよう」

2001年9月、三橋は東京都足立区立第十一中学校に講師として招かれていた。誘ったのはリクルート社員だった藤原和博(54)である。後に都内の公立中学校では初の民間人校長になる藤原は、この第十一中学校で、教師らと協力して「よのなか科」という授業を始めていた。

恐る恐る教室の扉を開けた三橋を、3年の生徒たちは割れんばかりの拍手で迎えてくれた。三橋を講師に「差異と差別」を考える授業は、男子生徒のこんな質問で始まった。

「女として生きたいって目覚めたのは、いつごろですか」

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子どもの頃から女性的なところはあったが、三橋がはっきり自覚したのは22歳の時だった。渋谷駅で茶色のブーツをはいた美女を見かけ、「自分もああなりたい」と切に願った。

結婚直前の29歳で女装を始める。これから夫になるのだからと「最初で最後」のつもりだった。通販で仕入れたカツラ、洋服を身につけ、鏡の前に立つ。女の自分は思っていた以上にきれいで、やめられなくなった。

自分は夫であり、勤務先の大学では男性研究員だ。なのに女でいたい。罪悪感がぬぐえず、これが最後だと女装しては道具一式を捨てる繰り返しだった。35歳で秋葉原の女装クラブに通い始め、40歳のときに歌舞伎町でホステスになった。

「女の自分」が大きくなり、大学を辞めた。論文は書き続けたが、研究対象は日本古代史から、女装の文化史など「多様な性」に移る。そんな頃に知り合い、渋谷の居酒屋で語り合ったのが藤原だった。

藤原が開いていた「よのなか科」は、社会のあり方を実践的に学ぼうとする授業だった。ハンバーガー店の店長の立場から「輸入と輸出」を考えたり、理想の住まいを白紙に描いたうえで建築家に技術や予算について学んだりしていた。

三橋を招いたのは、人と違うことと、それを攻撃し排除しようとすることの二つをみんなで考えるためだった。男にして女、大学教員にしてホステスという三橋の経験談は、生徒の思考能力を鍛えるに違いないという思いもあった。

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授業では、藤原による「男女度チェック」もあった。「かよわい」「さっぱりしている」など10項目について、自分の性格に当てはまる度合いを5段階で選び、総合して判例する。

男子なのに「女」と出た生徒が続出した。逆もしかり、参観に来た5人の母親は全員「男」と出て、どっと笑いが起きる。藤原は「誰にでも自分の性とは違う傾向が自分の中にある」とみんなに言った。

自分が少数派になった経験はありませんか、とも藤原は尋ねた。生徒が口々に語る。
「天然パーマとからかわれた」「無視されている子と仲良くしたらアザだらけになるまで殴られた」。三橋が言った。「自分は多数派だと思っていても、いつ突然、少数派になるか分からない。それを覚えておいて」

三橋を招いての授業は、藤原が杉並区立和田中学校の校長になってからも、退任する08年まで毎年開かれた。2人が授業で伝え続けたことがある。

違いをあげつらい、少数派を生むことで多数派がまとまり、差別が始まる。最初はささいなことかもしれないが、その積み重ねを放っておけば、やがてナチスドイツによるユダヤ人虐殺「ホロコースト」のような悲劇につながっていく―。

三橋は今、多摩大学の講師として教壇に立っている。人は誰でも少しずつ違う。違いはあっても、ともに社会を形作る仲間だと考える。そういう教え子が一人でも増えて、そこから共感が広がっていけばいい。「種まき、ですよね」と三橋は言う。

少数派を囲む見えない壁は、なお高く、厚いかもしれない。変幻自在でしぶとくもある。
それでも、人は種をまく。

(このシリーズは文を渡辺周、写真は近藤悦朗が担当しました。本文敬称略)

「ニッポン人脈記」男と女の間には(12) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」男と女の間には(12)

2010年09月29日 (水)

第12回は、シンガーソングライターの中村中さんと女優の戸田恵子さんの登場。

夕刊早刷り(遠隔地配布)は、いつものように1面掲載。
そこに、北朝鮮のキムジョンウン軍事副委員長就任のニュースが飛び込み、止む無く、遅刷り(首都圏配布)は、2面掲載になりました。
その分、スペースが大きくなり、字詰めがゆったりし、写真も大きいです。

記事の末尾の中村さんの思いに感動。
「性別がかたどる自分はせいぜい半分かな。私には歌がある。みんな何かを背負いながら、でももっと大切なものを持っている。いつか見つけられる」

ほんとうに、その通りだと思います。

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ニッポン 人脈記 男と女の間には(12)
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もっと大切なものがある
2007年の大みそか、歌手の中村中(あたる 25)は紅白歌合戦に紅組から出場した。

歌に入る前、中村の過去の写真が映し出され、ナレーションがかぶさった。

「中さんは男性として生まれ、性同一性障害でずっと悩んできました」

笑福亭鶴瓶(58)が母親からの手紙を読んだ。「重い荷物を背負わせてしまいました」。ここで中村は涙ぐむことを期待されていたのかもしれない。しかし、笑顔で受け答えを済ませると「友達の詩」を静かに歌い始める。

?手を繋ぐくらいでいい 並んで歩くくらいでいい それすら危ういから 大切な人は友達くらいでいい

番組の演出に、中村は心中思っていたのだ。お涙ちょうだいはごめんだよ――。

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中学に上がる頃、中村はテレビで研なおこ(57)の「泣かせて」を聴いた。歌にひかれるようになったのはその時からだ。

?泣かせて なかせて 自分が悔しいだけよ。

思うように人と話ができず、ふさぎ込むことの多い子どもだった。「怒り、悲しみ、みんな歌で表現すればいいんだ」。15歳で初めて作った曲が「友達の詩」だった。

20歳を過ぎてデビューが決まる。レコード会社は、性同一性障害のことを公表して注目を集めようとした。中村は悩んだ末、言わないのもウソをついているようだからと同意した。

果たして中村の歌は性同一性障害と結びつけられて語られることになる。「友達の詩」を聴いた人の多くは、だから好きな人に相手にされず、悲しい恋をしたのだと受け取った。

そうではないと中村は言う。好きという気持ちは本当にピュアでなければいけないのに、私はそこまでピュアだろうか。相手がどう思うかではない、と。

小学生の時は男子だけがする組体操が嫌でサボったことがあったし、中学で変声期に入ると自分の声に我慢できず楽器に走った。心と体が違う。自分は何者か、人一倍突き詰めて考える日々だった。

それが歌に影響しないはずはないし、「そういう人が歌っているにおいがする」のは自分でもわかる。でも性同一性障害を表現したわけではない。若い頃に誰しも抱える、もろく切ない感情を、歌に注ぎ込んだ。

紅白に出た年の夏、中村は女優の戸田恵子(53)と出会う。

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声優でもある戸田は1974年、あゆ朱美の名で歌手デビューした。歌手では売れなかったが、50歳を機に新曲を出すことになる。「等身大の自分を若く才能のある人に書いてもらいたい」。中村に白羽の矢が立った。

東京・六本木の料理店で2人きりで会った。きりたんぽをさかなに、夜9時ごろから飲み始める。戸田が自分の50年を語り、中村は「ピンと来るフレーズ」があるとメモを取った。気づけば午前3時を回っている。

会う前、戸田は中村の歌を聴いて「踏み込んではいけない、ガラス細工のような心を持った人」だと思っていた。会ってみると、屈託のない明るさと、音楽の世界で頭角を現すだけの芯の強さを持っていた。

後日、中村がピアノの弾き語りで歌った曲が、ノートに手書きの詩とともに送られてきた。タイトルは「強がり」とある。

?あたしにだって 泣いている夜くらいあるわって そんな風に言ったら、今度はみんなわらうのかしら

戸田は泣いた。泣く暇なんてない芸能界で33年走ってきた自分の気持ちそのものだった。

みんなそうでしょ 強がり――歌はそう終わる。私だけじゃない。誰だって自分の人生をそうやって生きている。戸田はライブで、この最後のくだりはとりわけ心を込めて歌う。

最近、中村は子どもの頃に初恋をした男性に再会した。当時いじわるをした男性は言った。「それしかやってないっていうほど音楽に打ち込んでて、うらやましかったんだ」

女の子みたいだからいじわるしたんじゃないんだ、中村はそれを知ってうれしかった。

性別がかたどる自分はせいぜい半分かな。私には歌がある。みんな何かを背負いながら、でももっと大切なものを持っている。いつか見つけられる。

中村は、そう思っている。
    (渡辺周)


「ニッポン人脈記」男と女の間には(11) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」男と女の間には(11)

2010年9月28日(火)

第11回は、「オカマだけどOLやってます。」で有名なエッセイスト&イラストレーターの能町みね子さん。

正直言うと、今まで能町さんの作品については「オカマ」という言葉を標題にしていることに、かなり抵抗感があった。

でも、今回の記事で、
「オカマという言葉がいいとは思わないが、『性同一性障害』は使いたくなかった。『障害を乗り越えて』と励まされるのは性に合わないし、病名で自分を語りたくない。『だって、「こんにちは。私、肺がんです」って変でしょ』」
と述べられています。

病名をアイデンティティにするのは、どう考えてもおかしい、
「障害」「病気」で他人の同情は買いたくない、
というのは、私の長年の主張。

その点、同じ感覚ということがわかって、うれしいかったです。

さて、このシリーズもいよいよ残すところあと2回。

実は、歌手の中村中さんが、美しいステージ写真入りで登場することは、すでに「新sあらたにす」で予告されています。
http://allatanys.jp/D004/index.html
たぶん、第12回が中村中さん+戸田恵子さん(女優)でしょう。

となると、タレントのはるな愛さんが登場するのか、微妙になってきます。
愛ちゃん、このシリーズの取材時期が「24時間テレビ」(NTV)の24時間マラソンの準備で忙しい時期だったので、取材を受けられなかったのかもしれません。

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ニッポン 人脈記 男と女の間には(11)
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人生 面白がらなきゃ
くしゃみは怖い。低い地声が出て、一発で男だと感付かれてしまう。

能町みね子(31)は、鼻がむずむずするたびに懸命に抑え込んだ。半年の特訓で女性らしい声が出せるようになったのに、くしゃみごときで無にしてなるか。

ようやく手にした華のOL生活なのだ。

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能町は、小さな頃から自分が男であることに違和感があった。大学を出て東京で就職、ネクタイを締めるようになると、もう耐えられない。1年たたずに退社した。精神科で診てもらったら「性同一性障害ですね」。

親に打ち明けたのは、実家で一緒に韓国ドラマを見ている時だった。ペ・ヨンジュンがプロポーズする場面で、その勢いを借りて切り出した。母親は泣きながらも「幸せになってくれるのが一番」と言ってくれた。

まずは職探し、これからは女として働くのだ。正社員だと戸籍上の性別がわかってしまう。非正規雇用の事務職を探した。履歴書にある性別欄はドキドキしながら「女」に丸をつける。数社で面接を受け、不動産会社で働くことになった。

OLになってみると、働く女の世界は新鮮だった。偏見と思い込みが次々に崩れていく。

いつも群れているのかと思ったら、昼休みは各自ばらばらに食べに出て行く。トイレットペーパーを使う時はガラガラと豪快で、「髪がまとまらなくて」とぼやけば「そんなことないよお」と言ってくれる。重い荷物を運ぼうとしたら、男の社員が持ってくれた。女子万歳――。能町はすっかりはまった。

同僚にわからないよう別名でブログを始めた。題して、「オカマだけどOLやってます。」。

オカマという言葉がいいとは思わないが、「性同一性障害」は使いたくなかった。「障害を乗り越えて」と励まされるのは性に合わないし、病名で自分を語りたくない。「だって、『こんにちは。私、肺がんです』って変でしょ」

ブログは、2007年の手術で体も女になるまで続けた。同じ題で単行本になり、さらに文春文庫に入るほど人気を呼ぶ。能町は文筆業も始めた。

同僚には今も明かしていない。

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手術をした年、能町は上野に映画を見に行った。「のんきに暮らして82年…たぐちさんの一日」というドキュメンタリーで、大学で長く司書を務めた老人の引退後を淡々と撮っていた。

上映後、10人ほどいた観客のなかに内澤旬子(43)がいるのに気づき、能町は思い切って声をかけた。内澤は国内外の屠場をルポした「世界屠畜紀行」(解放出版社)を著し、能町はその姿を追ったテレビ番組を見てファンになっていた。

内澤が屠畜に興味を持ったのはモンゴルを旅した時、さっきまで草原を走っていた羊が夕食前にはバラされて女性に洗われているのを見てからだ。

日本では屠場で働く人が差別されてきたことは知っていた。内澤は思った。「差別の問題を前面に出すんじゃなくて、『どうやって食肉になるのだろう』というあっけらかんとした読者の疑問に、職人技に光を当てることで答えたい」。皮をはぎ、内臓を取り出す様子をスケッチとともに子細に伝えた。

能町が男だったことは、初対面のあとブログを読んで知る。美人の「文科系女子」にしか見えなかったので驚いた。

能町が自分に声をかけてきた理由も、ブログを読んでみるとわかった。そこには、性同一性障害のつらさより、内澤によれば「そうは言っても面白いことがあったりする日常」があった。2人で飲みに行っては恋愛や仕事の話をし、一緒にヨガ教室にも通うようになる。

内澤は数年前に乳がんと診断された。昨年からエッセー「身体のいいなり」を雑誌に連載している。闘病記とは違う。たとえば医者の説明が長すぎて頭に来た日のことをつづる。時間で料金が決まるからだ、と。

内澤は、がんで切除した乳房を再建した。その内澤が能町と愚痴を言い合う。

「形が気にくわない。何か違うんだよね」「そんなこと言ったら私だって、しょせん本物にはかなわないんですよ」

実は深刻な話を笑顔で交わす。人生、渋面だけではいられない。どうせなら面白がらなきゃ。

                             (渡辺周)

ニッポン 人脈記 男と女の間には(10) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」男と女の間には(10)

2010年9月27日(月)

5日ぶりに掲載の第10回は、ギタリスト・女優の石島浩太さん。

プロ野球の裏方(通訳・渉外担当など)から、女性になって、ギタリスト・女優に転じられた方。

うかつにも、存じ上げませんでした。
ブログはこちら↓
http://profile.ameba.jp/bloomykota/

中年になっての性別移行にもかかわらず、スレンダーでお美しく、うらやましい限り。
それにしても、なぜ男名前のままなのでしょうか?

同時に、いろいろな世界で、性別移行をした人が頑張って活躍しているのだな、ということを改めて思います。

ちなみに、石島さんが出演し主人公高峰譲吉(加藤雅也)の義母メアリーを好演した映画 「さくら、さくら ~ サムライ化学者高峰譲吉の生涯」(市川徹監督、2010年)は、東京では来春2011年公開予定。
譲吉の妻、メアリーの娘を演じたのが、私も面識がある歌手・モデルのナオミ・グレースさんです。

さて、残すところは3回。

第11回が歌手の中村中さん、第12回がタレントのはるな愛さん・・・と予想。

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ニッポン 人脈記 男と女の間には(10)
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ゆらり揺られて 私は
2006年、米国で開かれた初のワールド・ベースボール・クラック(WBC)で、日本は王者になった。

その夜、選手たちがシャンパンをかけ合う祝賀会場に、大会の裏方として奔走してきた石島浩太(48)の姿があった、喧騒が遠く聞こえていたのは、歓喜の渦にあって場違いなことを考えていたからである。
「やっぱり女になろう」

翌日、石島は女性ホルモンを打った。

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石島は幼い頃からスカートをはきたがった。ミニカーをもらっても興味がない。男の子であることがしっくり来なかった。

通信社の記者だった父の転勤で欧米、アジアを転々とする。転校すること17回、日本語を忘れた時期もあった。男か女か自分でも分からなくなるのに、母国の姿までぼやけてくる。

私は何者なのか。親類からは「おかま」、ロサンゼルスでは「ジャップ」と言われた。石島は揺らぎ続けて育つ。

どっちつかずでいる苦しさを忘れさせてくれたのが、白黒つける勝負の世界――球界での仕事だった。

1988年、26歳でダイエーホークスの通訳と渉外担当になる。97年には大リーグに舞台を移した。ヤンキースとメッツというニューヨークの球団で伊良部秀雄(41)や野茂英雄(42)の通訳を務め、日本人選手の大リーグ入りの交渉でも活躍する。

「野球がベースボールを追い抜く日」が夢だった。少年時代に米国で読んだ新聞記事では、大リーグの監督が「日本は2A程度」と語っていた。大リーグより2段も格下ということだ。

その日本野球が、WBCを制すまでになった。敬愛する監督王貞治(70)は、優勝の日、石島に「君も球界長いよな」と声をかけてくれた。張りつめていた気持ちが一気に緩んでいく。

代わりに頭をもたげたのが、忘れたはずの「私は女」という気持ちだった。

WBCから1年後、体つきが変わり、球界の仕事もほとんどしなくなった石島に、別居していた米国人の妻から離婚届が届く。大切な人との最後の糸も切れて呆然自失、石島はニューヨークでハドソン川に飛び込もうとして警官に保護される。地元のレノックス・ヒル病院の精神科に入院させられた。

石島はギターが得意で、大リーグの頃はマイク・ピアザ選手らとバンドを組んで演奏したものだった。その石島が、病院の娯楽室で弦が一部切れたアコーステックギターを見つける。

母国を思い、日本の子守歌を奏でたつもりが、石島の来し方を映して旋律はどこか無国籍の哀歓をたたえた。入院患者が集まって聴き入るようになる。

大小はあれ、人は誰しも揺らぎの中にいる。ましてそこは異邦人の街ニューヨークだった。

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退院後、石島は日本に戻った。ギターを手に細々とライブ活動をしていた昨年、また転機が訪れる。映画監督の市川徹(62)に女優にならないかと声をかけられたのだった。

市川は37歳でテレビ神奈川を辞めて独立し、タレント間寛平(61)主演の映画を手がけてヒットさせる。その後は不発で2億円の借金を抱えたが、ビデオ映画のシリーズで巻き返した。

今回撮ろうとしていた「さくら さくら」は、アドレナリンを発見した高峰譲吉を描く映画である。主役の加藤雅也(47)ら配役は順調に決まった。問題は、義母のメアリー役をどうするか。愛すべき女性だが、我が強く、高峰と大げんかする。

市川が知り合いから石島の話を聞いたのは、そんな時だった。男も女も経験している石島は、感情の起伏が激しいメアリーを演じるのにうってつけと思えた。英語力も申し分ない。
撮影に入ると、石島は皿を床にたたきつけ、高峰役の加藤を鬼の形相でののしった。本編には入らなかったが、市川は「あれには驚いた」。石島は「大リーグとの交渉では、あれくらい当たり前だったよ」と笑う。

裏方から表舞台へ。石島は今、大リーグについて講演し、ギタリストで、女優でもある。すべてが緩やかにつながって、どれも自分なのだと思う。

メアリーを演じた石島が驚いた巡り合わせがある。

高峰が67歳で亡くなった時の入院先は、石島がギターを弾いた、あのレノックス・ヒル病院だった。
                             (渡辺周)

「ニッポン人脈記」男と女の間には(9) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」男と女の間には(9)

2010年09月22日(水)

第9回は、鹿児島県在住の若松慎(36)・麗奈(38)ご夫妻です。

FtMの慎さんと、MtFの麗奈さんが、ご家族の理解を得て、結婚式を挙げるまでのお話。

このシリーは、先ほど担当記者からメールが来て、全13回で確定だそうです。
ということで、残りは4回です。
あと、誰と誰が登場するのでしょう?

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ニッポン 人脈記 男と女の間には(9)
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至って普通の結婚です
娘の恋人を前にした父親ほど落ち着かないものはない。

若松麗奈(38)の父親も例外ではなかった。急ピッチで酒を飲み、早々に泥酔してしまう。恋人の慎(36)は話を切り出すこともできなかった。

慎が「今日こそお父さんに話をする」と腹を決め、那覇市にある麗奈の実家を訪れたのは、2008年夏のことだ。

今夜も父親はさっそくビールを飲み始めた。3本目に伸びた手を遮って、慎が言う。「娘さんと結婚させてください。」

こちらも腹を決めたのだろう。父親は腰を上げ、台所で魚を揚げている母親を呼んでくると言った。
「はい、慎君もう一回」

こうして慎と麗奈は難関を突破した。よくある光景かもしれない。違うのは、慎は女として生まれ、麗奈は男として生まれたということである。

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横浜生まれの慎は、子どもの頃から「子分」を従えて釣りに行き、殴り合いのけんかも絶えない「男の子」ぶりだった。初潮を迎えると、生理がなくならないものかと冬に水風呂に入り、腹を自分で打ちすえた。30歳で性転換手術を受けた。

沖縄生まれの麗奈は、幼児の頃から姉のスカートをはいた。小学校では教師に「内股をなおす」と歩き方の練習をさせられる。中学校の前にある自宅の玄関には「おかま死ね」と落書きされた。27歳で性転換手術を受けた。

2人が会ったのは03年、冬の東京だった。鹿児島でニューハーフクラブのママをしていた麗奈と、横浜でダンプの運転手をしていた慎が、共通の友人と3人で会うことになったのだ。

慎と友人が羽田空港に麗奈を迎えに行った。ロビーの人ごみのなか、サングラスをかけて女優然とした人を見つけた慎は、麗奈に違いないと直感する。食事をする頃には「ずっとこの人とかかわっていくな」と思っていた。麗奈は麗奈で、「私にほれたな」と確信する。

この時、2人とも互いの出生時の性別を知らなかった。

麗奈を見送った後、慎は友人から麗奈が性転換したと聞いて驚く。どう見ても女以外の何者でもない。でも思った。
「自分と逆なだけなんだ。楽な人に出会ったな」

慎は自身の事情について麗奈にメールで知らせた。麗奈もまた、「自分が一番自然体でいられそうな」相手だと思った。

鹿児島と横浜を結んで遠距離恋愛が始まる。

麗奈の店は月曜が定休日だった。日曜の夜に飛行機に乗り、月曜の最終便で戻っていく。そうでない日は、仕事で朝が早い慎を起こすためにも、麗奈は毎日電話した。それでも足りない。2人の月の携帯電話代は合わせて15万を超えた。

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性同一性障害特例法ができ、戸籍上も性別が変えられるようになっていた。2人は08年2月にそれぞれの変更を済ませると、その年の10月17日、婚姻届を鹿児島市役所に出した。慎の誕生日である。

鹿児島市のホテルで開いた披露宴に、慎の母親と麗奈の両親は出席した。慎の父親は「気持ち悪い、おれにかかわるな」と言って欠席している。

新婦入場の際。麗奈の父親はタキシード姿で麗奈を慎のもとへ導いた。麗奈の着物の足もとを気遣いながら、ゆっくりと歩みを進める父親に、袴姿で待ち受ける慎は鳥肌が立った。
「おれもこんな男になりたい」

最後は慎が両家を代表してあいさつに立った。
「心と体を一分一秒でも早く一緒にしたいと悩み続け、母親は『男の子に産んであげられなくてごめんね』と泣き崩れました。でも、今日という至って普通な結婚式を迎えました。お互いの性を変え、結婚もできるようになった今の世の中、何より両家の両親に感謝です」

2人は鹿児島市で5匹の犬と暮らしている。慎が顔をしかめていた麗奈のカレーライスも、今では上々の出来だ。

慎が麗奈の父親に結婚を切り出したあの日、普段なら酔ってソファで寝てしまう父親が自分の部屋に引き揚げていった。

理由については2人の意見が分かれる。慎は、娘を手放す寂しさだと言う。麗奈は、自分がちゃんと伴侶を得られたことの安心感だと思っている。

(渡辺周)

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