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日本女装昔話 番外編 【第1回】女装芸者「市ちゃん」 [性社会史研究(女装芸者)]

日本女装昔話 番外編 【第1回】女装芸者「市ちゃん」

三河高原に抱かれた愛知県東加茂郡足助(あすけ)町。1959年の晩秋、町外れの農家小沢家で、半年前に家出した一人息子の市左衛門(よりによって超古風な名前ですね)の帰郷祝いが開かれていました。本人に先立ってトラック数台分の荷物、テレビ、電気洗濯機など最新式の家庭電化製品や立派な桐たんすにぎっしり詰まった豪華な女物の衣装などが運び込まれていました。その様子を見た招待客たちは「市坊は東京のお大尽の娘を嫁にもらった」と噂し合いました。
 
宴もたけなわ、電蓄から流れる三味線の音に合わせて、一人のあでやかな芸者が現れ、扇片手に舞い始めました。驚く人たちがよくよく見れば、当夜の主賓のはずの市坊。「市坊が女になった!」。衝撃はたちまち麓の町にまで広がりました。
 
子供の頃から女の子とばかり遊んでいた市ちゃんは、中学卒業後は土産物店に勤めながら三味線や日本舞踊を習う女っぽい青年でした。青年団の集団作業でも力の弱い市ちゃんは能率が上がらず「女以下じゃ」と馬鹿にされていたのです。春のある日、山村での生活が嫌気がさした市ちゃんはなけなしの5000円を持って村から姿を消しました。
 
数日後、お金を使い果たし東京駅の待合室で途方にくれていた市ちゃんに中年男性が声をかけました。男はは思いがけないことを言いました。「芸者に化けてみないか」。市ちゃんの女性的傾向を見抜いていたのです(すごい慧眼!)。

着いた先は栃木県鬼怒川温泉。身なりを女姿に変えた市ちゃんは、検番(芸者の管理組合)の試験にすん なり合格し、「きぬ栄」の名でおひろめとなりました。さすがに置屋の女将は市ちゃんが男であることを見破っていましたが、市ちゃんの女っぷりに「これは行ける」と思った女将は、市ちゃんに女になりきる秘訣を事細かに授けました。秘密は女将と朋輩の芸者以外に漏れることはなく、若くて美人、三味線と日舞が上手なきぬ栄は、たちまち売れっ奴にのし上っていきました。
 
8月、東京の某銀行の慰安旅行で鬼怒川温泉にやって来た50がらみの部長が、きぬ栄にホレこみましだ。週末には必ず通ってくるほどの熱の入れようで、やがてお定まりの身請け話となりました。きぬ栄を囲った男は彼女が欲しがる家電製品や着物を次々に買い与えましたが、きぬ栄は「結婚するまでは」と決して肌を許そうとしません。とは言え、男の執着を避けるにも限度があり、そもそも戸籍が男なのだから結婚はできません。思い詰めたきぬ栄は、男と別れ貢がせた道具や衣装を持って故郷に帰ることを決心します。
 
こうした事情で先程の衝撃の帰郷場面となったのです。「女になるというなら仕方がないわさ。こうなれば息子の思うように生きさせなければなあ。今はそういう世の中なんじゃで」市ちゃんの母はこう語っています。40年前とは思えない、なんと進んだコメントでしょう。
 
当時、推定20歳の市ちゃんも今では60歳。元気で女として暮らしていることを祈りたいです。
 
参考資料 : 『週刊文春』1960年5月16日号

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↑ 芸者時代の市ちゃん(『風俗奇譚』1962年1月号)

【追記】 後日の調査で、残念ながら、若くして命を絶たれたことが判りました(合掌)。

※ 初出『ニューハーフ倶楽部』30号(2000年11月 三和出版)
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_bangai_01.htm

日本女装昔話 【第16回】女装芸者の活躍(その2) [性社会史研究(女装芸者)]

日本女装昔話 【第16回】女装芸者の活躍(その2)

前号に引き続き、男性でありながら、女性の芸者と同じような姿で、お座敷で芸を披露し接客をする女装芸者の足跡をたどります。
 
伊東温泉の「チャコ」や雄琴温泉の「よし幸」に少し遅れて、静岡県熱海温泉に「お雪」という女装芸者がいました。ゲイボーイ出身で、1969(昭和44)に熱海の芸者置屋の看板を買ったのですが、地元の幇間や芸者衆から「男が芸者になるなんて」という反対の声があがりました。しかし、猿若流の踊りの名手である彼女の芸と熱意が実って、熱海料芸組合の承認が得られ、芸者として検番登録されることになりました。芸者2人を抱える置屋の女将でありながら自らもお座敷に出て稼ぎ、デビィ・スカルノ夫人など芸能人、著名人の贔屓客も多かったようです。
 
このように1970年代までは日本の各地で女装芸者が活躍し、地域社会でそれなりに受け入れられ、遊興客の人気を集めていたことがわかります。
 
ところで、MTFの(男性から女性への)トランスジェンダーの基本は、女性の形態を模倣することにあります。その模倣は外的形態(ファッション)だけではなく職業形態をも模倣します。例えば、娼婦に対する男娼、ホステスに対するゲイボーイ、女性ダンサーに対する女装ダンサーという具合です。つまり、MTFトランスジェンダーの有り様は、一種のコピー文化であるとも言えるのです。ですから、芸者が輝いていた時代に、そのコピーとしての女装芸者が存在したのも、当然なのかもしれません。
 
私が中央大学の2000年度の講義で女装芸者についてちょっと話をしたところ、山口県の湯田温泉出身の学生が、「母に聞いた話ですが、湯田にもそういう人がいたそうです」とレポートに書いてくれました。絶対数こそ少ないものの、けっこうあちこちに女装芸者はいたのではないでしょうか。

現在、女装芸者は東京向島の「真紗緒」(芸者で検番登録)ただ一人になってしまったと思われます。真紗緒姐さんの場合はゲイバーの経営者から芸者好きが昂じての転身でしたが、やはり幇間の強い反対があり、1987年(昭和62)に芸者として認められるまでには紆余曲折があったようですが、今ではなかなかの人気でお座敷を勤めていらっしゃいます。
 
日舞と長唄をよくする真紗緒姐さんを含めて女装芸者たちの特色は、踊りにしろ唄にしろ、客を引き付けるに十分なだけの技量を持っていたということです。伊東温泉の「チャコ」のように、それに加えて本物の女性の芸者では披露をはばかるような芸(ストリップ)を持っている例もありました。
 
女装芸者であるという話題性・希少性、はっきり言えばゲテモノ性が彼女たちの人気の起点になっていることは否定できませんが、それだけでは人気は継続できなかったでしょう。やはり、お座敷というミニ興行的な場を支えるだけの芸能が必要だったのです。
 
女装芸者は、性別越境者の芸能・飲食接客業という伝統的な職能を示すものとして、きわめて興味深い存在です。江戸時代の陰間の伝統を受け継いだものとも考えられますし、現代のニューハーフの有り様の原像とも評価できます。また性別越境者と興行という視点から見てもゲイバーのショーの源流のひとつとして考えられるかもしれません。
 
明治~昭和期にどれほどの女装芸者が存在したのか、その実態を解明することは今となっては難しいのが残念です。女装芸者について、なにかご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示ください。

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↑ 熱海の「お雪」 (『女性自身』1975年10月30日号)
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↑ 向島の「真紗緒」 (『週刊大衆』1987年2月9日号)
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↑ 真紗緒姐さんと私。 (2001年10月26日「向島踊り」で)
「陽気な下町のおばちゃん」という印象でした。  (2001年10月26日「向島踊り」で)
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↑ 別府浜脇温泉の「順香」(笑)

※ 初出『ニューハーフ倶楽部』39号(2003年2月 三和出版)
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_16.htm

日本女装昔話 【第15回】女装芸者の活躍(その1) [性社会史研究(女装芸者)]

日本女装昔話 【第15回】女装芸者の活躍(その1)

女装芸者という存在をご存じでしょうか?。
 
かって日本各地の花街には、お座敷で様々な芸を披露する幇間(たいこもち)という男性芸能者がいました。彼らを「男芸者」と呼ぶことがありましたが、これから紹介しようとするのは、それとは異なり、男性でありながら、女性の芸者と同じような姿で、お座敷で芸を披露し接客をする人たちです。
 
芸者という身分は、戸籍上の女性でなければなれないものだったので(戦前は鑑札制、戦後は検番登録制)、女装芸者の多くは非公認の存在でしたが、言わば芸者もどきのこの手の人たちは、数こそ少ないものの日本各地の温泉地などにいたらしいのです。今回と次回は、今は忘れ去られつつある女装芸者の足跡をたどってみたいと思います。
 
昭和の初め頃、栃木県の塩原温泉に「おいらん清ちゃん」という有名人がいました。腕の良い髪結い職人である清ちゃんは、戸籍上は立派な男でありながら、日常の身なりも性格も女そのもので、女装には厳しい社会環境だった時期にもかかわらず、地域の人にも「女」として受け入れられていました。清ちゃんのことが新聞で報道されると、塩原温泉に遊ぶ客の中には「清ちゃんを呼んで」と頼む人も多くなりました。すると清ちゃんは、濃化粧に髪を結い上げた芸者姿で座敷に上がり、三味線と踊りを披露し、チップをもらっていました。写真を見ても並の女よりはるかに美貌だったようで、その人気のほどは、昭和4年(1929)1月1日(日付に注目)の読売新聞に清ちゃんの写真入りインタビュー記事が掲載されていることからもしのばれます。
 
清ちゃんが人気になる少し前、大正14年(1925)7月29日の読売新聞は、茨城県の平磯(現:那珂湊市)の大漁節の名手、女装芸者「兼ちゃん」を紹介しています。兼ちゃんは、大酒飲みだったようですが、喉の良さに加えての美貌、「男が大好き」という媚態で人気者でした。

戦後になると女装芸者があちこちの温泉地で活躍し始めます。 栃木県の鬼怒川温泉には、昭和34年(1959)頃、「きぬ栄」という若くて美人、踊りも三味線も巧みな売り出し中の人気芸者がいました。彼女が市左衛門という立派な名前をもつ男性だったことが『週刊文春』の報道を通じて明らかになったのは、身請けされた旦那に結婚を迫られ困った彼女が故郷に逃げ帰ってからのことでした。つまり、彼女は置屋の女将の計らいで、女性の芸者として登録されていたのです。(詳しくは「日本女装昔話 番外編1 女装芸者『市ちゃん』」を参照ください)

静岡県の伊東温泉には、昭和39年(1964)頃、『アサヒ芸能』などで紹介されて有名になった女装芸者チャコがいました。チャコは藤間流の日舞の名取で、修行を積んだ踊りの基礎を生かしたお座敷ストリップ芸が得意業。おまけに歌も歌えて、女の芸者より色っぽいということで、花代(一座敷のギャラ)が一般の芸者の数倍という高値にもかかわらず、引っ張りだこの盛況でした。
 
同じころ伊東温泉には、もう一人の女装芸者がいました。温泉街の「リオ」というキャバレーで女装ホステスしていたサトコです。彼女も呼び出しがあると、酒席に上がり、踊りを披露していました。 
 
やはり同じころ、滋賀県雄琴温泉に「よし幸」という女装芸者がいました。芝居の女形の前歴を生かした踊りで売れっ子でした。しかし、彼女の名が全国に知られるようになったのは、女性への性転換手術を受けことからでした。しかも半陰陽(インターセックス)だった彼女は、1966年5月に戸籍も男性から女性へ変更し、複数の週刊誌が「性転換芸者」として大きく取り上げました。
 
このように1960年代までは日本の各地で女装芸者が活躍し、地域社会の中でそれなりに受け入れられていたのです。

なお、本稿は、鎌田意好「異装心理と女装者列伝」(『風俗奇譚』1965年8月号)などを参照しました。

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↑ 塩原温泉の清ちゃん(右) (『風俗奇譚』1965年8月号)
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↑ 鬼怒川温泉のきぬ栄(市ちゃん) (『風俗奇譚』1967年1月臨時増刊号)
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↑ 伊東温泉のチャコ (『風俗奇譚』1964年1月臨時増刊号)
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↑ 伊東温泉のサト子 (『風俗奇譚』1964年1月臨時増刊号)
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↑ 雄琴温泉のよし幸 (『アサヒ芸能』1968年3月17日号)

※ 初出『ニューハーフ倶楽部』38号(2002年11月 三和出版)
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_15.htm

2006年04月02日 「女装芸者」の事例2つ [性社会史研究(女装芸者)]

2006年04月02日 「女装芸者」の事例2つ

4月2日(日) 曇りのち雨

11時、起床(仕事場)。
10時に目覚ましをかけておいたのに寝坊。
でも、これが限界。

朝食は、コンビニのサンドイッチとコーヒー。
シャワーを浴びて、無理やり身体を起こす。

12時、身支度。
着物は、午後から雨の予報なので、薄紅色の滝縞の会津木綿。
帯は、黒と銀の鱗。
緋色の長襦袢、帯揚は緑)、帯締は山吹

13時半、家を出て、15分ほど歩いて満開の桜が池に映る碑文谷公園へ。
14時少し前、行きつけの居酒屋「一善」のお花見に参加。
私は、大幅に遅刻なので、すでに宴も半ば過ぎの状態。
14時半過ぎ、雨が落ち始めたので撤収のお手伝い。

15時過ぎ、場所をお店に移して二次会。
常連さんとおしゃべりしながら2時間ほど飲み食いしたところで、右の上腹部、ちょうど帯の上辺あたりに刺すような痛みを感じる。
最初、胃痙攣かと思ったがどうも痛みが違う。
落ち着いて確かめると、痛みの場所は胃よりも右で、肝臓より上。
痛みは間歇的なので我慢はできる。
とりあえず、飲み食いを控えて、ウーロン茶を少しずつ飲むだけにする。

常連のお客さんS氏(男性、60歳代前半 国会議員秘書)から、耳寄りな話を聞く。
S氏が、まだ若いころ(20歳代半ば)の1969年12月、中央の「本社」から4人の後輩を連れて福島県に出張した。
地元の「支社」の人が、お宿を飯坂温泉の有名ホテル「J」に取ってくれて、宴席には5人の芸者さんをつけてくれた。
宴も果てて、芸者を「お持ち帰り」することになった。
S氏は5人の芸者の中で一番の美人で「小股の切れ上がった良い女」に目を付けていた。
しかし、くじ引きの結果、残念ながら、彼女は一番若い同僚に当たってしまった。
S氏は悔しいと思ったが、こんなことで先輩権限を振るうのもどうかと思い、あまり好みでない芸者で我慢した。
その夜、S氏があまりきれいでない芸者と同衾していると、部屋の戸を必死に叩く者がいる。
「無粋な奴だ」と思いながら出て見ると、一番の美人芸者をお持ち帰りした若い同僚。
「どうした?」と問うと、「先輩、助けてください。彼女、男です!」

このことから、1960年代末に、福島の飯坂温泉に女装芸者がいたことがわかる。
しかも、若くてとびきり美人の。

「女装芸者」とは、男姿でお座敷で芸を披露する幇間(たいこもち、「男芸者」とも呼ばれる)とは異なり、女性の芸者さんと同じような姿でお座敷に出て、芸を披露し接客をする人(男性)。

数こそ少ないが、明治期から1970年代まで、日本各地の温泉地などにいたらしい。
私が確認している限りでは、明治40年(1907)朝鮮半島の鎮南鋪から平壌に進出したことが『読売新聞』に報じられている「桃太郎」という女装芸者が初見(『読売新聞』1907年2月1日号)。
大正末期には大洗温泉(茨城)の磯節の名手「兼ちゃん」、昭和初期には、塩原温泉(栃木)の「おいらん清ちゃん」が知られる。
戦後になると、伊東温泉(静岡)の「チャコ」、雄琴温泉(滋賀)の「よし幸」(後に女性に転換)、熱海温泉(静岡)の「お雪」などがマスコミで紹介された。

S氏の貴重な話をメモしていたら、今度は「一善」のマスター(70歳代)がこんなことを教えてくれた。
1962~63年頃、洋品店業界の慰安旅行で熱海温泉に行った時、お座敷に女装芸者が来た。
50歳前後(推定)の年配の大柄な芸者さんで、日本髪を結い黒の出の衣装(芸者のお座敷着)を着ていた。
たしか「〇(ナントカ)太郎」という名前だったと思う。
有名な人らしく、周囲の若い(女性の)芸者が立てていた。

熱海温泉の「女装芸者」として知られたお雪姐さんは、1969年のデビューだから、マスターが見た「女装芸者」とは別人で、もう一人、いたことになる。

一晩に2つも「女装芸者」の事例を聞くことができて、私はびっくりするとともに、大歓び。

2000年度に、中央大学の講義で「女装芸者」についてちょっと話をしたところ、山口県の湯田温泉出身の学生が「母に聞いた話ですが、湯田にもそういう人がいたそうです」と教えてくれたことがある。

現在では、東京向島検番の真紗緒姐さんが、たぶん唯一人の現役の「女装芸者」になってしまったが、どうも1970年代くらいまでは、絶対数こそ少ないものの、けっこうあちこちの花街(温泉地)に「女装芸者」がいて、地域社会でそれなりに受け入れられ、遊興客の人気を集めていたらしい。

「女装芸者」について何かご存知の方、断片的でもけっこうですから、ぜひ教えてください。

ところで、「女装芸者」には、お客さんも「女装芸者」であることを知って座敷に呼んで遊んでる場合と、置屋や温泉地の主だった人は「女装芸者」であることを知ってにも、お客さんには知らせずにおく場合の2つのタイプがある。

「女装芸者」のほとんどは、前者のタイプだが、稀に後者のタイプもいる。
1959年頃、鬼怒川温泉(栃木)で若くて美人、踊りも三味線も巧みで人気だった「きぬ栄」が、本名を市左衛門という立派な名前をもつ男性だったことが『週刊文春』に報道されている。
「きぬ栄」の場合は、置屋の女将の計らいで、女性の芸者として検番に登録されていた。

先ほどの飯坂温泉の美人「女装芸者」は、あきらかに後者の珍しい事例になる。
女性の芸者として通すならば、彼女としては たとえ男性と同衾して性行為に及んだとしても、バレないようにしなければならない。
たぶん彼女はその自信があったからこそ、敢えて「お持ち帰り」されたのだと思う。
なのになぜ失敗したのか?
相手が性体験の少ない若い男性だったので、油断したのだろうか?。
「弘法にも筆の誤り」「猿も木から落ちる」という言葉が思い浮かぶ。

20時過ぎ、お開き。
仕事場に戻り、急いで着替え。
この時、先ほどの痛みは、どうやら肋間神経痛であることに気づく。
連日のお花見で冷えたせいかなと思う。
(まだ帯状疱疹ということは頭に浮かんでない)

22時、帰宅。
お風呂に入る。
さすがにクタクタで、胸の痛みのこともあり、何もしないでベッドへ。

就寝、2時。

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