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2010年02月24日 戦後の男娼関係資料の整理 [性社会史研究(女装男娼)]

2010年02月24日 戦後の男娼関係資料の整理

2月24日(水) 晴れ 東京 7.6度 湿度 19%(15時)

12時、起床。

シャワーを浴びて、髪をポニーテールに結ぶ。

朝昼ご飯は、ガーリックフランス、生ハム、オニオンスライス、きゅうり、それにコーヒー。

今日は、原稿が上がったので、のんびり過ごすことにする。

午後、日差しの暖かなベッドに横になって、本を読む。
ああ、こんなのんびりした気分、いつ以来だろう。

ところが、1時間ものんびりしていられない。
なんて、貧乏性なのだろう(嘆)

部屋の片づけ(資料探し)をして、次の仕事に取りかかる。

数年前、国会図書館に複製が所蔵されている「プランゲ文庫」でコピーしたまま放置していた戦後の男娼関係の資料(主にカストリ雑誌の記事)を整理する。

夕方まで、3時間ほど、コピーの山と格闘。

まず、東京(ほとんどが上野)と大阪とを分別する。
大阪の男娼記事は、意外に多く11本もあった。
ほとんど「旭町」(大阪市阿倍野区旭町)だが、これはこれで十分に分析対象になる。

次いで、東京の男娼記事を、昭和22~23年(1947~48)と昭和24年(1949)とに分ける。
これは、昭和23年11月22日夜に起こったいわゆる「上野男娼警視総監殴打事件」の前後で、メディア(カストリ雑誌)の男娼に対する扱い(注目度)がまったく違うため。

注目されて、おもしろおかしく書きたてられる以前の記事の方が、信頼度が高く、より実態を伝えていると思うので。

事件以前の記事は、24本ほど。

なお、この事件について、詳しく知りたい方は『女装と日本人』179~183頁、もしくは下記のサイトをどうぞ。
「日本女装昔話14 警視総監を殴った男娼『おきよ』」
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_14.htm

最後にルポルタージュと小説を分ける。
これが難しい。
「実録小説」とか「記録小説」とか、創作か実録(ルポルタージュ)か、いったいどっちなんだ?

ちなみに、ベストセラーとなった『男娼の森』(日比谷出版 1949年4月)の著者角達也は、すでに1946年末に「飢餓と淪落の生態-上野に拾う職業諸相-(『旬刊ニュース』32号:上野へ行く 1947年1月15日号 東西出版社)という、昭和21年(1946)晩秋の上野の詳細なルポルタージュを書いている。

また、1950年代の男色世界の優れたルポルタージュである『ゲイ』(東京書房 1958年)の著者富田英三が、このテーマに手を染めたのは「女装の男たち-東京の夜の一章節-」(『ホープ』3巻12号 1948年12月)だったようだ。

19時、やっと仕分けとリスト化を終える。

夕食は、豚肉とほうれん草のしゃぶしゃぶ(常夜鍋)。

久しぶりに仲良し姐さんに電話。

電話の後、いつものパターンで、そのまま眠ってしまう。
電波の状態が良いベッドでかけるせいもあるのだが、やはり声を聞くと気持ちが和むのだと思う。

3時間ほど熟睡。

1時、目が覚めて、お風呂に入って、髪を洗う。

夜中、「日記(22・23・24日分)を書く。

就寝、5時。

2008年02月25日 女装男娼の養成所「オカマ学校繁昌記」 [性社会史研究(女装男娼)]

2008年02月25日 女装男娼の養成所「オカマ学校繁昌記」

2月25日(月) 晴れ  東京 8.0度 湿度 19%(15時)

東急東横線、東京メトロ日比谷線、同有楽町線を乗り継いで、永田町駅で下車。
久しぶりに国会図書館へ。

15時過ぎから18時過ぎまで、3時間ほどリサーチ。
まず、新聞記事(現代)3本、論文3本をコピー。
その後、『内外タイムス』1954年5~8月のマイクロフィルムを調査。

『内外タイムス』は、現代にたとえるなら『日刊ゲンダイ』や『夕刊フジ』をもう少し卑俗にしたような新聞。
まともな研究者は相手にしない資料だが、一般紙では把握できない性風俗関係のおもしろい情報がたくさんあり、以前から暇を見ては調査している。
今日、調査したマイクロフィルムも、フィルムの端の状態からして「初(うぶ)」(まだ誰も見ていない状態)だった。

興味が向くまま17本ほどの記事をコピー。
その中で、私の専門分野(女装、男装、男娼、同性愛)に関わるものが8点、買売春(赤線、青線、街娼、売春防止法)関係8点、その他1点(山窩)。

一番、興味深い記事は「オカマ学校繁昌記」(『内外タイムス』1954年7月6日号)。
東京都台東区にあった女装男娼の養成所のルポルタージュ記事。

先生は校長以下4名、生徒は21名。

生徒の年齢は、15歳から45歳(平均年齢28~29歳)、前歴は会社事務員、鉄道員、郵便局員、キャバレー、バーのバーテン、ボーイ、学生、進駐軍キャンプのハウスボーイ、ドサ回りの訳者など。
学歴は、小卒50%、中卒30%、高卒15%、大学中退5%。

授業の課目は以下の通り。
第1課「お化粧」
第2課「和服、洋装の自然な着こなし方」
第3課「声の出し方」
第4課「男娼の心構えと方法(テクニック)」

修学期間は全部通じて1ヵ月半(40~50日)。
修了間近の頃になると「動作が完全に色っぽくなり、付近の風呂屋にへ行っても流し場でペタッと尻をつけたりして女らしさが身についてくる」という。

「化粧」は「普通で一人前になるのに最低1ヵ月の期間を要する」、「着こなし」についても「1ヵ月以上掛からないと“女らしく”なれず、ぎすぎすしたところが目立つ」とされているので、階梯式ではなく、各課目、同時並行だったらしい。

卒業後は、上野、新橋、浅草、吉原、日比谷、丸の内、新宿、高橋(江東区)などの夜の街角に就業していく。

当時の女装男娼の一晩の稼ぎは、外国人相手専門の「洋パン」で3000~10000円。
日本人相手でも、「名士、会社重役芸能家など」上客をつかんでいる者は平均7~8000円という。

以下、簡単な考察。
場所は「上野駅から徒歩10分」とあるから、当時、男娼が多く住んでいた下谷万年町界隈だろう。
授業課目は納得できる。
私がカリキュラムを組んでも(笑)、だいたい同じになるだろう。
ただし、1ヵ月半という修学期間はちょっと短い気がする。
生徒の半数が「学校」に寄宿しているとはいえ、相当のスパルタ教育だっただろう。

授業が一応有料だが、授業料の金額が定ってないなど、実態としては「学校」というより、互助組織的色彩が強いように思う。

女装男娼の稼ぎだが、単純に1晩の稼ぎ×30日=月収にならないことは言うまでもない。
それでも、×15日としても、誇張されている(見栄を張っている)ように思う。

ちなみに当時の物価は、かけ蕎麦25~30円、天丼120円、鰻重300円、銭湯15円、白粉(1缶)500円、郵便封書10円、山手線初乗り10円、映画館100円、日雇い労働者日当407円、公務員初任給8700円、教員(小学校)初任給7800円という感じ。

現在の物価に換算するには、だいたい15~20倍くらいだろう。
7000円×15日=10万5000円(月収)だから、現在の月収に換算すると157~210万円見当になってしまい、ちょっと首を傾げる。
まあ、トップはそのくらい稼いでいたかもしれないが・・・。

18時15分、退館。

コメント
万年町界隈 ルクス’さん
ちょっと調べてみたら…
今の入谷辺りになるんでしょうか?

そうすると、あの近くの千束に親類が…
親類、吉原の隣に住んで、医者やってたそうです。
戦後、両親も住んでたそうで、私の生まれた病院も、あの近くだったと思います。(^^)b
(2008年02月27日 03時40分16秒)

Re:万年町界隈(02/25) 三橋順子さん
ルクス’さん、いらっしゃいま~せ。
>今の入谷辺りになるんでしょうか?
現在の住所表示では、下谷区万年町1丁目が台東区東上野4丁目に、同2丁目が北上野1丁目に相当します。
JR上野駅下谷口を出て北へ歩くか、東京メトロ日比谷線の下谷駅から南に歩くかです。

>そうすると、あの近くの千束に親類が…
千束にも「おきよ」という、上野の女装男娼の大姐さんだった人が経営する、かなり有名な女装バーがありました(1950年代)。

いずれにしても、上野から浅草にかけては、その方面が濃いエリアでした。
(2008年02月27日 04時26分06秒)

女装が犯罪にならなくなったのはいつから? yuri-kさん
確か昔は、単に女装しているだけで、犯罪扱いされていた という記憶がありますが、あたしの記憶間違っているかしら?
売春さえしなければ、女装して外を歩くのがOKになったのは、いつからかしら?
お忙しい中、恐縮ですが、上の二つの疑問、おわかりでしたら、教えて下さるかしら?
(2008年02月27日 10時40分46秒)

Re:女装が犯罪にならなくなったのはいつから?(02/25) 三橋順子さん
yuri-kさん、いらっしゃいま~せ。

>確か昔は、単に女装しているだけで、犯罪扱いされていた という記憶がありますが、
単純に法制的に言いますと、異性装(女装・男装)が犯罪だったのは、明治6~14年(1873~81)の9年間だけです。
ただし、その後も、虞犯行為(犯罪を犯す虞のある行為)として、警官に尋問・拘引されることはしばしばありました。

>売春さえしなければ、女装して外を歩くのがOKになったのは、いつからかしら?
「OK」という意味が難しいのですが・・・。
戦前から平気で歩いていた人もいますし、現代でもあまりに怪しければ職務質問されます。
まあ、ある程度の社会的認知度が得られたのは、1980年代くらいからではないでしょうか?
要は、その人の女装のレベル(社会的適合度)の問題でしょう。
(2008年02月27日 12時45分24秒)

意識的か否かは別にして ぼたんさん
>女装のレベル(社会的適合度)の問題
先日郵便局でどこからどう見てもおじいさんにしか見えなかった方がおばあさんだったりしましたが^^;
似合ってるのに女装と言う服装だけで犯罪扱いになるよりは 女で女装していても犯罪級に見苦しい人
のほうがよっぽど視覚の暴力かもだし(笑)
(2008年02月27日 15時03分19秒)

オカマ養成所? にしやんさん
昔はそんな養成所あったんですね!
今はないのかしらぁ~(笑)
聞いたことないですよねぇ~
(2008年02月27日 15時55分05秒)

Re:意識的か否かは別にして(02/25) 三橋順子さん
ぼたんさん、いらっしゃいま~せ。
>先日郵便局でどこからどう見てもおじいさんにしか見えなかった方がおばあさんだったりしましたが^^;
たしかに、その手のおばあさん、ときどき見かけます。
逆(おばあさんに見えるおじいさん)は、あまり見かけませんが。

>似合ってるのに女装と言う服装だけで犯罪扱いになるよりは 
>女で女装していても犯罪級に見苦しい人のほうがよっぽど視覚の暴力かもだし(笑)
あはは・・・・。
(2008年02月28日 22時12分01秒)

Re:オカマ養成所?(02/25) 三橋順子さん
にしやんさん、いらっしゃいま~せ。
>昔はそんな養成所あったんですね!
>今はないのかしらぁ~(笑)
>聞いたことないですよねぇ~
昔(1970年ころまで)は大阪に有名な養成所があったんです。
東京にもあったのは、新発見?でした。
今は、ないですねぇ。
女装クラブでも、あまり教えてくれませんし。
「Kimono人養成所」でも作りましょうか?
(2008年02月28日 22時14分09秒)


2007年09月14日 論文「女装男娼の業態とそのセクシュアリティ」を書く [性社会史研究(女装男娼)]

2007年09月14日 論文「女装男娼の業態とそのセクシュアリティ」を書く

9月14日(金) 晴れ 29.8度 湿度 65%(15時)

8時半、起床。
少し意識して早起き。
朝食は、巨峰ジャムを塗ったトースト1枚とコーヒー。
シャワーを浴びて、髪をポニーテールにまとめる。

「日記(13日分)とコメントへのお返事を書く。
メールのお返事を書く。
その他、雑用を片付ける。

昼食は、昨夜のおでんとモロヘイヤのお浸しで、ご飯を1膳。

午後、執筆。
まず例の「数の子天井・みみず千匹」の学術エッセーに加筆。

続いて、国際日本文化研究センター(井上章一研究班)の論文集『性欲の文化史』(講談社)に載せてもらう予定の論文に取り掛かる。

題は「女装男娼の業態とそのセクシュアリティ」。
女装男娼の業態とセクシュアリティの有り様を分析。
以前、書きかけの論考を大幅に改造して、4時間ほど集中してほぼ形を作る。

トランスジェンダーのセックスワーカーである、近代の女装男娼については、今まで学術的な論考は皆無だった。
アンダーグラウンドな色彩が濃厚で資料に乏しいこと、研究者の間にセックスワーカーに対する忌避感(ある種の職業差別)があることなど、理由はいろいろだろう。
しかし、昔から今に至るまで、セックスワークがMtFのトランスジェンダーの生業のひとつだったことは、否定できない。
その部分を無視したら、トランスジェンダーの社会史は書けないと思うので、自分でできるだけ資料をまとめて、分析しておこうと思う。

16時半、外出。
日差しが強く、気温も30度近くある感じで、なんだか夏の夕方という感じ。
早足で歩くと汗が出る。

銀行に寄った後、、仕事場に移動。

17時半、身支度。
薄鼠色の地に撫子を染め抜き、黄色の百合を散らした銘仙写しの浴衣(メテユンデ)。
クリーム色の半襟をつけた青鼠色の長襦袢(絽)。
黒と赤の半幅帯を角出しに結ぶ。
吸い上げ暈しの草色の帯締(ゑり正)を掛ける。
紫の地に秋草の柄の横長の手提げ袋。
草色の小紋と朱線の鼻緒をつけた焼き桐の下駄。

まだ夏の格好。
でも、さすがにそろそろ・・・。
昼間はまだ暑くても、夕方からの気温の下がり方が秋を感じるし。

ところが・・・・、訪問予定先と連絡が取れない。
ちょっと不確定な事情があるので、できれば打ち合わせしてから出かけたいのだが・・・。
ということで、取りあえず待機。

画像処理作業をする。

無駄足しても仕方がないので、明日を期すことにして、断念。
もう一人お誘いがあった方とも、うまく連絡が取れない。
掛け違っちゃうときとは、こういうものなのだなと思う。

仕方なく、地元の居酒屋「一善」へ。
野党某有力議員の秘書さんと、今回の政変について、おしゃべり。
ビール1杯、ウーロン茶1杯。
肴は、ひらめの活き絞め、さんまの塩焼き、太ごぼうのきんぴら。

20時半、仕事場に戻り、化粧を落とす。

帰り道、仲良し姐さんに電話。
ちょっとおしゃべりして、気持ちが和む。

22時、帰宅。
お風呂に入って髪を洗う。

夜中、また、論文の執筆。
「女装男娼の経済」の節を加筆。
つまりは「お値段」。
手持ちのデータは4つ。

「時間稼ぎ」(ショート)の女装男娼(街娼形態)の「お値段」を記すと、
戦前(1930年=昭和5)1円、
戦後混乱期(1948年=昭和23)200円、
高度経済成長期(1964年=昭和39)1000~2000円、
10年前(1997年=平成9年)15000~20000円

現代の物価への換算が難しいのだが、戦前と戦後混乱期で10000円前後、高度経済成長期と10年前は15000~20000円見当で、ちょっと値上がりしてるような気がする。

ちなみに、同時代の純女(本物の女性)の街娼と比べると、だいたい2~3割安価。

それでも、いずれの時代も、そこそこの売れっ妓なら、世間の並以上の暮らしができたはず。
もちろん、売れない男娼の生活が悲惨なのは、いつの時代も言うまでもない。

さすがに疲れた。
倒れるようにベッドへ。

就寝、4時。

2005年12月25日 女装男娼のお値段 [性社会史研究(女装男娼)]

2005年12月25日 女装男娼のお値段

12月25日(日) 晴れ 寒い
(前略)

お風呂に入った後、明日の講義の準備。

寝る前に、また資料読み(主に男娼関係)。

1948~49年ころの、東京上野の女装男娼のお値段(ショート)は200円が相場(実態上の公定値段)であることがわかった。

まだ食料品の統制が残っていたり、インフレーションが進行していた時代で、物価の比較が難しいのだが・・・・。
山の手線初乗り3→5円、郵便封書5→8円、入浴料10円、そば15円、映画館40円、化粧石鹸9円50銭、粉おしろい(1缶)500円、日雇い労働者の日当242円、小学校教員の初任給2000→3991円、公務員(国家公務員上級)の初任給4863円といった感じ。
バラツキが大きく換算が難しいが、だいたい40倍といったところか。

となると、当時の200円は、現在の8000円といった感じ。
ちょっと安い気がするが、1回お仕事すれば、そばが13杯食べられ、お風呂に20回入れるというのは、生活実感としてはかなり良い稼ぎなのではないだろうか。

おもしろいのは、同じ肉体労働である日雇い労働者の日当とほぼ同額であること。
しかし、日雇い労働者は1日で2日分働くことは不可能だが、売れっ妓の男娼はうまくいけば1晩で2人、3人と客が取れる。
もし毎晩、コンスタントにお客があれば(なかなかそうはいかないのだが)、若手の国家公務員(上級)の月給を上回ることになる。

ちなみに、泊まりは500~600円(自宅の場合、旅館利用の場合は宿代別)だったらしい。

日平均1人ショートの客を取り、月の3分の1泊まりの客を取れれば、月収は10000円を越える。
東京都知事の月給が30000円の時代だから、馬鹿にできない額だ。

どうも男娼というと、うらぶれた貧しいイメージを持ってしまうが、戦災から日本が立ち直ってない当時の状況においては、売れっ妓の男娼はかなり稼ぎが良かったことになる。
(もちろん、売れない男娼の生活は貧しいのだが)
男娼稼ぎで資金を貯めて、店(飲み屋)を持った人がけっこういたのも十分に理解できる。

2005年09月05日 女装男娼の資料 [性社会史研究(女装男娼)]

2005年09月05日 女装男娼の資料

9月5日(月) 雨

昭和戦前期の女装男娼の資料ファイルを整理する。

『週刊朝日』1937年(昭和12)11月21日号の「帝都不良狩の決算」という長い記事を追加入力する。

この記事は、この年2月15日夜から警視庁管下90警察署を動員して3日間にわたって一斉に行われた「不良狩り」についての記事だが、7373人の逮捕者の罪状別内訳の中に、こんな項目がある。

(Q)密淫売=十七名(内、男二名)
「密淫売」は無許可売春のことで、女性に適用される罪状で、本来なら男性が含まれるはずはない。
つまりこれは、「密淫売」の容疑で17名の女性を逮捕したら、内2名は実は女装の男性だったということ。

この時、銀座で「好男子」の私服刑事にウインクを送って逮捕されたのは、吉田菊江(22歳)と大谷芳子(21歳)の二人組だったが、「彼女」たちの容姿についてはこのように記述されている。
「和服の上に、若い女事務員らがよく着てゐる例の防寒着を羽織ってゐるが、二人とも断髪デパーマネントウェーブ、派手な錦紗お召の裙(すそ)が下から覗いて見える。それに赤線の濃いマフラーを撒いてなかなかの美人揃ひだ」
連行した刑事は、まったく疑っていなかった。ところが、
「S刑事の連行した二人は立派な麗人と思ひきや、これが嫣然女装で春を売る闇の男であった」とあるように、吉田菊江は渡貫一馬、大谷芳子は山下子郎という名の男性だった。
保安係の刑事の目をくらますほど、見事な女っぷりだったらしい。

ちなみに、当時は「密淫売」の女性を「闇の女」と言った。
そのことから、女装の男娼は、「闇の男」と記されるケースが多い。

まあ、そういう「良く出来た『娘』」(=どう見ても女性に見えるレベルの女装の男性)は、昔も今も少数ながらいたということ。
いや、身体改変の技術水準を考えたら、今の「良く出来た『娘』」よりはるかにすごいことだと思う。
何しろ、まだ女性ホルモンすらほとんど知られていなかった時代なのだから。

おもしろいのは、「S刑事はその後、人間を見分けることにすべて疑問符を感じ出した」と記されていること。
これは現代でも、出来の良いトランスジェンダーに接した後で、一般人がしばしば陥る現象だ。

昭和12年(1937)は、日中戦争が始まった年で、「小春日和の昭和」が終わり、日本がいよいよ戦時体制に入っていく年だ。
この年には、3月に福島ゆみ子(山本太四郎)、4月に田中茂子(田中茂)と、「闇の男」が、逮捕されたことが立て続けに報道されている(逮捕された場所は、いずれも銀座)。

これは、昭和12年ころになって「闇の男」が増えたのではなく、それまでもずっと存在していた女装男娼が、戦時体制への移行にともなう風紀取締まりの強化によって、表面化したということなのだろう。

日本女装昔話【第34回】大阪の「男娼道場」主、上田笑子 [性社会史研究(女装男娼)]

日本女装昔話【第34回】大阪の「男娼道場」主、上田笑子

前回は、女装男娼の集合写真の分析から、少なくとも大阪では、戦前(1930年代)から、女装男娼の横のつながりがあったことが推測できました。
 
実はその写真に私の興味を強く引く人物が写っていました。
1930年代(昭和5~15年)と推測した屋内での記念写真の右端の「藤井一男 笑子 二十五才」と記された人物です。
この「笑子」が戦後、1950年代から70年代にかけて、大阪釜ケ崎(山王町界隈)で「男娼道場」の主と言われた、上田笑子と同一人物ではないだろうかと気づいたからです。
 
上田笑子については、1958年(昭和33)の「大阪の美人男娼ベストテン」というルポが「この道の草分け」「蔭間茶屋"エミちゃんの家"のママ」、「彼女のシマを"おかまスクール"と呼ぶ」と紹介しています(『増刊・実話と秘録:風俗読本』1958年1月号)。
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↑ (左)1957年、42歳のころの上田笑子(『増刊・実話と秘録』1958年1月号)。
 (右)1930年代、25歳の「笑子」。

また、それから12年たった1970年(昭和45)には「私の"オカマ道場"の卒業生は四千人よ-大阪・釜ケ崎、上田笑子の陽気なゲイ人生-」という記事が週刊誌に載っています(『週刊ポスト』1970年12月25日号)。
そこには、彼女が女装男娼を育成する「男娼道場」を開いて25年になること、育てた子は「もう四千人くらいになりますやろうなァ」「東京の男娼の八割方がたはウチの出やね」と語られています。

これらの記事から、上田笑子のプロフィールを整理してみると、本名は上田廣造、1910年(明治43)奈良県生まれ。
13歳のとき(1923年=大正12)から男娼の仲間に入り、以後、その道一筋。
1945年(昭和20)、つまり、終戦後すぐに「男娼道場」を開設し、多くの後進を育成した、ということになります。

となると、彼女は1935年(昭和10)に25歳だった計算になり、例の1930年代と推定される集合写真の「笑子 二五歳」とぴったり一致してくるのです。
もっとも、本名が、藤井一男と上田廣造でぜんぜん違うのですが、「藤井一男」が偽名の可能性もあり、写真の面差しは、どこか似たものがあるように思います。
 
さて、笑子は「東京の男娼の八割方がたはウチの出」と豪語していますが、実際にそうだったのでしょうか。
8割かどうかを確かめる術はありませんが、どうも女装男娼は、戦前、戦後を通じて、関西(大阪)が本場だったのは確かなようです。
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↑ 大阪釜ケ崎の女装バー「ゆかり」(1957年ころ)
 
戦前、東京の浅草や銀座で逮捕された女装男娼の中にも、関西からの遠征組がかなりいたこと、戦後の東京上野の女装男娼の間でも、関西系が幅をきかしていたことなど、その兆候はいくつもあります。
さらに歴史を遡れば、江戸の歌舞伎の女形、あるいは陰間茶屋の蔭子は、お酒と同じく「下り者」(京・大阪から江戸に下ってきた者)が第一とされ、東育ち(江戸・東国の生まれ)は武骨で使い物にならないとされていました。
 
昭和期の女装男娼の関西優位には、そんな伝統も反映していたのかもしれません。
ただ、関西の状況を記した資料が乏しく、実態不明な点が多いのが残念です。

※ 初出『ニューハーフ倶楽部』57号(2007年8月 三和出版)
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_34.htm

日本女装昔話【第33回】女装男娼の集合写真 [性社会史研究(女装男娼)]

日本女装昔話【第33回】女装男娼の集合写真

前回、ご紹介した『エロ・グロ男娼日記』に関連して、昭和戦前期の女装男娼について調べているうちに、私が所蔵している資料の中の1枚の写真が気になりはじめました。
同性愛者のグループを紹介した週刊誌の記事に掲載されている「大正時代の大阪の男娼たち」というキャプションがついた写真です(写真1)。
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↑  「日本花卉研究会-世にも不思議な社交クラブ-」(『週刊文春』1959年6月15日号)より。

写真には8人の着物姿の「女性」が椅子に腰掛けて並んでいます。
皆それぞれに着飾った姿、それに背景などから、スナップ写真ではなく、ちゃんとした場所で何かの会合の折りに記念撮影的に撮られたもののようです。
しかし、彼女たちが本物の女性でないのは、下部に男性名と女装名(それに年齢)が記されていることからわかります。
印刷が不鮮明なのが残念ですが、皆さん、なかなかの女っぷりで、女装レベルの高さがうかがえます。
 
なぜ、この写真が気になるかというと、理由が2つあります。
ひとつは、写真の時期の問題、直感的に「大正時代」よりももっと新しい昭和戦前期の写真ではないかと思ったのです。
というのは、昭和の着物史を勉強している私の目からすると、左端の「繁子」が着ている幾何学模様の着物(銘仙?)、左から3人目の「百合子」が着ている大柄の模様銘仙?は大正期では早すぎるのです。
この手のモダンな柄は、1930年代(昭和5~15)の流行です。
 
2つ目は、女装男娼の組織化の問題です。
『エロ・グロ男娼日記』の愛子や、昭和2~12年の東京における逮捕事例をみても、戦前期の女装男娼は単独行動で、グループ化の形跡は見られません。
東京の女装男娼が組織化されるのは戦後混乱期の上野において、というのが私の仮説です。

しかし、この写真によれば、少なくとも大阪ではすでに戦前期に、こうした会合をもつ程度には、女装男娼の横のつながりがあったことになります。
 
さらに調べている内に、もう一枚、女装男娼の集合写真らしいものを見つけました(写真2)。
1951年に刊行された井上泰宏『性の誘惑と犯罪』の口絵に掲載されていたものです。
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↑ 井上泰宏『性の誘惑と犯罪』(1951年10月 あまとりあ社)より。

キャプションには「女化男子」とあり、写っている10人が女装の男性であることがわかります。
しかし、撮影時期・場所、どういう人たちなのかは一切記されていません。
 
この写真も、着物史的に見てみましょう。
屋外での撮影ということもあって、10人中7人が大きなショール(肩掛け)を羽織っているのが注目されます。
この手のショールが大流行するのは、やはり1930年代なのです。
写真1でも室内にもかかわらず右から4人目の「お千代」が羽織っています。

というわけで、この写真もまた1930年代のものと推定できます。
当時、アマチュアの女装者はまったく顕在化していないので、彼女たちもまたプロ、つまり女装男娼と考えて間違いないでしょう。
場所が不明なのは残念ですが、やはり集会を開く程度の横のつながりが、すでにあったことが確認できるのです。

※ 初出『ニューハーフ倶楽部』56号(2007年5月 三和出版)
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_33.htm

日本女装昔話 【第32回】 『エロ・グロ男娼日記』の世界(その2) [性社会史研究(女装男娼)]

日本女装昔話 【第32回】 『エロ・グロ男娼日記』の世界(その2)

前回は、昭和6年(1931)に刊行即日発禁処分になった実録(風)小説『エロ・グロ男娼日記』(流山龍之助著 三興社)の主人公、浅草の美人男娼「愛子」の生活ぶりを紹介しました。
そこで問題となるのは、愛子のような女装男娼が、昭和初期の東京にほんとうに実在したか?とういうことです。
 
そのヒントは作中にありました。
ある日、愛子は浅草公園の木馬館裏手にいた人品のいい男に誘いをかけたところ、これが象潟署の刑事で、彼女は直ちに逮捕連行されてしまいます。
そして「旦那如何です モガ姿の変態が刑事に誘ひ」という見出しで新聞に載ってしまいました。
 
この箇所を読んだ時、「あれ?どこかで見た記事だなぁ」と思いました。
早速、ファイルを調べてみると、小説刊行の3ヵ月前の『読売新聞』昭和6年2月27日号にまったく同じ見出の記事がありました。
小説の愛子逮捕の記事は、実在の女装男娼逮捕の記事を出身県と氏名を伏字にしただけでそのまま流用していたのです。
 
この時、逮捕されたのは 福島県生れの西館儀一(24歳)という女装男娼。
この人物は、富喜子と名乗って浅草を拠点に活動していたことが他の記事からわかります(『東京朝日新聞』昭和2年8月13日号)。
 
もちろん、この記事の一致から、愛子=西館儀一(富喜子)と考えるのはあまりに単純すぎます。
ただ、愛子のモデルになるよう女装男娼が、昭和初期の東京浅草に確実に存在していたことは間違いありません。

小説の中で、愛子が新聞記者のロングインタビューを受ける箇所があります。
記者は愛子から、出身、子供時代の思い出、女装男娼になった経緯、現在の日常などを詳細に聞き出しています。
 
おそらく、小説の作者(流山龍之助)も、この新聞記者のように実在の女装男娼から詳しいインタビューをとり、それをもとに小説化したのではないでしょうか。
それほどこの『エロ・グロ男娼日記』はリアリティに富んでいるのです。
 
浅草を拠点に活動していた女装男娼たちは、やがてモダン東京の新興の盛り場として賑わいはじめた銀座に進出します。
愛子も銀座に出かけて松坂屋デパートで半襟などを買った後、上客(退役陸軍大佐)をつかんでいます。
浅草から銀座へ、東京の盛り場の中心の移動とともに、女装男娼の活動地域も移動するというのはおもしろい現象です。
 
その結果として、1933~37年(昭和8~12)、銀座で逮捕された女装男娼が何度か新聞の紙面を賑わすことになりました。
その中には、1937年3月に逮捕された福島ゆみ子こと山本太四郎(24歳)のように、「どう見ても女」と新聞で絶賛?された美人男娼もいました。
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↑ 女装男娼福島ゆみ子の艶姿(『読売新聞』昭和12年3月28日号)。
「男ナンテ甘いわ」というキャプションが実に効果的です。

困難な社会状況の中で、たとえ男娼という形であっても、「女」として生きようとした彼女たちに、どこか共感を覚えるのは私だけでしょうか。

※ 初出『ニューハーフ倶楽部』55号(2007年2月 三和出版)
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_32.htm

日本女装昔話 【第31回】 『エロ・グロ男娼日記』の世界(その1) [性社会史研究(女装男娼)]

日本女装昔話 【第31回】 『エロ・グロ男娼日記』の世界(その1)

国立国会図書館の特別閲覧室には、旧内務省が発禁処分にした一群の図書が収蔵されています。
その中に、流山龍之助著『エロ・グロ男娼日記』という文庫版108頁の小冊子があります。
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↑ 『エロ・グロ男娼日記』(1931年5月 三興社)の表紙。

昭和6年(1931)5月25日に、下谷区西町(現:台東区東上野1丁目)にあった三興社から刊行された翌日、「風俗」を乱すという理由で即日発禁処分を受けたいわく付きの本です。
 
黄色と黒のモダンなデザインの表紙には、処分を示す内務省の丸印が捺されています。
後に「削除改訂版」が出たようですが、現存する初版はおそらくこの一冊のみと思われる貴重なものです。
 
主人公は、浅草の女装男娼「愛子」(22歳)。
時代は、帝都東京がエロ・グロブームに沸き、モダン文化が花開いた昭和5年(1930)頃。
愛子の日記(手記)の形態をとった実録?小説です。
 
愛子の日常をのぞいてみましょう。
自宅は浅草の興行街(六区)の近く、朝は9~10時に起き、床を畳み、姉さんかぶりで部屋を掃除。
その後、化粧。牛乳で洗顔、コールドクリームでマッサージ、水白粉で生地を整え、パウダーで仕上げ、頬紅をたたき、口紅、眉墨を入れます。髪は櫛目を入れ、アイロンで巻毛とウェーブを付けます。
しゃべり言葉の一人称は「あたし」「あたくし」。
銭湯は、以前は女湯を使っていましたが、男娼として界隈で有名になったので、今は男湯。
ほぼフルタイムの女装生活です。

遅い朝食を食べに食堂に入ると、男性から「よう、別嬪!」と声がかかり、馴染み客からは「お前はいつ見てもキレイだなぁ。まるで女だってそれ程なのはタントいねぇぜ」と言われるほどで、かなりの美貌。
初会の客が女性と誤認するのもしばしばで、警察に捕まった時も、刑事にも「なかなかいいスケナオ(女)ぢゃねえか」と言われ女子房に放りこまれたほど。
今風に言えば、パス度はかなりのハイレベルですね。

若い美人、しかも気立ても穏やかですから仕事はいたって順調。
会社員の若い男を誘い旅館で一戦した翌日は、朝食後にひょうたん池(浅草六区)で出会った不良中学生3人を自宅に連れ込み、まとめて面倒をみてやり、夜になって時間(ショート)の客1人、泊まり客1人で収入6円という一日。
 
電車初乗りが5銭、そばが10銭、天丼が40銭という時代ですから、6円は現在の物価に換算して15000円くらいでしょうか。
 
銀座で五十年配の立派な紳士(退役陸軍大佐)に声をかけられ、大森(現:大田区)の待合で遊んだり、ブルジュア弁護士の自家用車で、なんと京都・大阪までドライブしたり、醜男ですが誠意のある妻子持ちの請負師に妾になってくれと迫られたり、「旦那いかがです」と、うっかり私服警官に声をかけて、留置所で10日間を過ごすことになったり、なかなか波乱に富んだおもしろおかしい生活を送っています。
 
さて、女装の社会史を研究している私の関心からすると、問題は、愛子のような女装男娼が、昭和初期の東京にほんとうに実在したか?とういうこと。その点については、また次回に。

※ 初出『ニューハーフ倶楽部』54号(2006年11月 三和出版)
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_31.htm

日本女装昔話 【第14回】警視総監を殴った男娼「おきよ」 [性社会史研究(女装男娼)]

日本女装昔話 【第14回】  警視総監を殴った男娼「おきよ」

「この『人形のお時』さんって、警視総監を殴った人よね」
 
ここは新宿歌舞伎町区役所通り、老舗の女装スナック『ジュネ』。前号のこのコーナーを読んでいた静香姐さんが言いました。
「それが違うんみたいなんです。殴ったのは『おきよ』さんって人らしいです」と私。
「あら、そうなの。あたしはずっと『ときよ(時代)』って人だって聞いてたわ」
 
実は私もそう聞いてました。どうもいつの間にか伝承と事実が食い違ってしまったようなのです。
上野の男娼世界については、この連載の第1回で取り上げましたけど、事実関係に誤りがあったり不十分な点が多かったので、もう一度詳しく述べてみようと思います。
 
東京の中心部のほとんどがアメリカ軍の空襲で焼け野原となった戦後の混乱期に、東京の北の玄関上野に男娼(女装のセックスワーカー)たちが姿を現します。
 
その数は、全盛期の1947~8年(昭和22~23)には50人を越えるほどになりました。娘風や若奥様風の身ごしらえ(当時はほとんどが和装)で、山下(西郷さんの銅像の下あたり)や池の端(不忍池の畔)に立って、道行く男を誘い、上野の山の暗がりで性的サービスを行っていました。
 
そんな上野(ノガミ)の男娼の存在を全国的に名高くしたのが、1948年(昭和23)11月22日夜に起こった「警視総監殴打事件」でした。
同夜、上野の山の「狩り込み」(街娼・男娼・浮浪児などの「保護」)を視察中の田中栄一警視総監(後に衆議院議員)一行が男娼のグループと遭遇しました。総監に随行していた新聞カメラマンがフラッシュを光らせて男娼たちを撮影し始めると、怒った男娼たちがカメラマンにつかみかかり大混乱になりました。
殴打事件はその最中に起こったのです。
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↑ 「殴打事件」を報道した新聞 (毎日新聞 1947年11月23日号)
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↑ 毎日新聞掲載の写真の拡大。警察の取り調べを受ける男娼たち。

警視総監を殴り、一躍「英雄」視されることになったのは当時32歳の「おきよ」という男娼でした。
彼女は事件の7年後にこう語っています。「なんや知らんけど大勢の男たちがやって来て、いきなりカメラマンがフラッシュを光らせた。それがアタマにきたんでいちばん偉そうなのを殴ったんよ」
(広岡敬一『戦後風俗大系 わが女神たち』2000年4月 朝日出版社)
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↑ 鉄拳の」おきよ姐さん(1955年頃) (広岡敬一『戦後風俗大系 わが女神たち』)

このように事件は偶発的なものでしたが、警察にも面子があります。
当夜、暴行と公務執行妨害で彼女を含めた5人の男娼が逮捕されますが、「警視総監を殴った男娼」として自他共に認める人物はこの「おきよ」さん以外にありません。
 
それでは、なぜ「おきよ」が「ときよ(おとき)」に誤り伝えられたのでしょうか?
「鉄拳のおきよ」として有名になった彼女は、男娼生活から足を洗い1952年(昭和27)に「おきよ」というバーを浅草と吉原(台東区千束4丁目)の中程に開店します。
店には吉行淳之介など軟派系の文化人が出入りし、またハリウッド女優エヴァ・ガードナーが来店して、乱痴気騒ぎの末に脱いだショーツを置き忘れていったり、昭和30年代には大いに繁盛しました。
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↑ 「おきよ」のメンバー。
中央が「おきよ」さん、その右「ときよ」さん (『100万人のよる』1961年4月号 季節風書房)

実は、この店の看板娘が美人男娼として有名だった「人形のお時」こと「ときよ」さんだったのです。
「人形の・・・」のいわれは、「人形のように美しい」のは確かであるにしろ、実は男娼時代「人形のようにただ立ってるだけで口をきかない」ことによるのでした。
彼女はとても人を殴れるような人柄ではなかったようです。
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↑   「人形の」お時さん (『100万人のよる』1961年4月号 季節風書房)

かたや武勇伝で、こなた美貌で世に知られた二人の男娼、それが「おきよ」と「ときよ」という間違えやすい名前を持ち、しかも同じ店の姐さんと妹分の関係にあったことが、語り伝えを混乱させた原因だったのです。

※ 初出『ニューハーフ倶楽部』37号(2002年8月 三和出版)
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_14.htm
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