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2006年03月12日 前田豊『玉の井という街があった』 [性社会史研究(遊廓)]

2006年03月12日 前田豊『玉の井という街があった』

3月12日(日) 曇り 強風

前田豊『玉の井という街があった』(立風書房 1986年12月)を読む。

永井荷風の『墨東綺譚』(「墨」はさんずい)で名高い戦前の私娼窟玉の井を再現しようとした労作。

「ラビラント」と呼ばれた曲がりくねった細い迷路のような路地で知られる私娼窟玉の井は、大正12年(1923)の関東大震災で壊滅した浅草十二階下の「銘酒屋」街が集団移転したことから実質的に始まる。

その歴史は、昭和20年(1945)3月10日の大空襲で灰燼に帰すまでのわずか20数年間にすぎない。
戦後焼け残った隣接地区に再建された「赤線」玉の井の時代(1946~1958)を加えても35年ほどである。

しかも、公娼街である新吉原、洲崎、新宿、千住などと異なり、公には存在しないことになっていた私娼窟であるだけに、記録に乏しく、『墨東綺譚』のイメージばかり先行して実態は案外わからない。
本の帯に「幻の私娼窟」とあるのも、うなづける。

著者は、文献に加えて1985年という時点で可能な限りの聞き取り調査をしており、娼婦の自身の聞き取りはないものの、経営者から聞き取りがなされているのはとても貴重。
聞き取りがもう10年早ければと惜しまれる。

ところで、荷風の『墨東綺譚』は昭和11年9月20日に起稿、10月25日に脱稿しているが、構想を得るための玉の井通いは、昭和11年3月31日に始まり、脱稿までの約半年間に32~33回ほどだそうで、平均すると月に5~6回ということになる。
もっと入り浸っていたのかと思っていたがそうでもない。
ただ荷風がこの年58歳であったことを考えれば、ご精励と言うべきかもしれない。

ちなみに、荷風が足繁く通った相手、つまり『墨東綺譚』のヒロインの「お雪」のモデルは、著者の調査でも不明だそうだ。

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