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2009年07月01日 東京花街遺跡巡り(1) 西小山三業地 [性社会史研究(花街)]

2009年07月01日 東京花街遺跡巡り(1) 西小山三業地

   東京花街遺跡巡り
今、なんとか現役を保っている東京の花街は、新橋・赤坂 ・神楽坂・芳町・向島・浅草の6か所だけになってしまいました。
それらは、「東京六花街」などと呼ばれているようですが、戦前の東京には、現在の葛飾・杉並・練馬区を除く全区に、なんと50カ所ほどの花街があったのです。

ちなみに、ここでいう花街とは、「三業地(もしくは二業地)」のことを指します。
「三業地」とは、警察から、芸者置屋、料理屋、待合の三業種の営業が許可された地域のことです。
三業種の内、二業種だけが許可されている場合は「二業地」と呼びました。

かっての「三業地」の多くは、花街としての命を終えて久しく、粋な黒壁に囲まれた料亭の建物はマンションに建て替えられ、三味線の音色も人々の記憶からも遠くなり、まさに「遺跡」になろうとしています。

近代の東京のことをいろいろ調べているうちに、東京の花街遺跡をたずねてみようと思い立ちました。
まずは、私の仕事部屋(目黒区中央町)から一番近い花街から始めましょう。
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「西小山三業地」遺跡を歩く

この前、西小山駅に降りたのは、いつだったでしょう?
5年以上経っていることは間違いありません。
その頃、まだ、東急目黒線の電車は地上を走っていました。
今は、半地下化していて、線路は地上にはありません。
そのせいで駅周辺の景観がすっかり変わっていて、既視感覚がまったくなく、方向を見失ってしまい、しばらく戸惑ってしまいました。
やっと、景色と地図が合致して、立会道路(旧:立会川、現:西小山桜並木通り)へと入ります。

戦前、この地には、立会川の両側に料亭が立ち並び、「西小山三業地」を形成していました。
目黒~大岡山間の鉄道は、大正12年(1923)に開通しましたが、当初、西小山には停車場がありませんでした。

昭和3年(1928)5月に西小山駅が開設され、周囲が住宅地として開発されると、西小山の地主や有力者が、地域振興のために花柳界の誘致を思い立ちます。

住宅地と花柳界というと、今の感覚ではそぐわないように思いますが、当時はそうでもなかったようです。
また、立会川流域の低湿地は、住宅地としては不適で、他の用途を考える必要もありました。
警察の要路に働きかけて、早くも昭和3年8月には三業地の認可が下りています。

「西小山三業地」の全盛期は、昭和10年前後で、昭和13年には料亭45軒、芸妓置屋40軒、芸妓は120人を数え、立会川の清流に赤いぼんぼりが映えて、おおいに賑わったようです。
しかし、昭和20年月の空襲で、花街を含む一帯は焼け野原になってしまいました。

戦後は、駅前の闇市から始まり、昭和21年10月頃から、三業地内に料亭や置屋が再建され、花街が復興していきました。
昭和40年頃には、まだ料亭15軒、芸者40人ほどが活動していたようです。
しかし、昭和50年(1975)に、組合が解散し、花街の命脈は尽きました。

地元の方のブログなどで、当時の建物はほとんど残っていないことは解っていました。

(参照)「荏原風土記 西小山三業地」
http://www18.ocn.ne.jp/~bell103/sangiyoti.html

しかし、調査の常道として、一応、指定地を歩いてみました。
028.jpg
指定地は、現在の品川区小山6丁目6、7、8、21番地、小山5丁目25番地の一部、荏原5丁目7、15、16番地のそれぞれ一部です。
立会川は、暗渠化され、道路(立会道路)に変わっています。
その両側の町並みも、マンション化、ビル化が進行していて、それらしき建物は、ほとんど見当たりません。
055.jpg
↑ 立会道路。ここがかって花街だった気配はほとんどありません。
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↑ 小山6丁目7番地にある、かって料亭だったと思われるお宅。
054.jpg
↑ 裏木戸の装飾、蔦に覆われているが孟宗竹を組んだ塀は、一般住宅と趣が異なります。

ただ、荏原5丁目7番地のL字形の路地だけは、「かっぱ亭」という料亭が営業していて、かろうじて花街の面影を残していました。
047.jpg
↑ 粋な門構えの料亭「かっぱ亭」。
ここは、かって「すずき」という料亭だったようです。
048.jpg
↑ L字の路地の奥のお宅。ご門のデザインがすてき。
051.jpg
↑ 指定地内の電柱に「柳・支」という記号が付されているのに気づきました。
柳と花街とは縁が深いのですが・・・。

指定地の南西の角に近いあたりに交番(荏原警察署江戸見坂交番)がありました。
色街(「赤線」指定地)の入口には必ず交番が設けられていましたが、花街(三業地・二業地)の場合はどうなのでしょうか?
同じことが言えるのだろうか?

台地上にある小山村の鎮守「小山八幡神社」(↓)に上って、玉垣の寄進者名を調べてみました。
056.jpg
残念ながら、らしき名は見当たりません。
一つだけ「海老菊 海老澤政雄」という、しゃれた屋号を負った方がいましたが(しかも正面のとても良いポジション)、何屋さんかわかりません。
後で気づいたのですが、この玉垣は「昭和二年改修」で、花街の設置以前のものでした。

指定地をぐるっと巡って、指定地の北側(駅寄り)を画す道路(江戸見坂通り)に出ました。
ここは、まだわずかに戦後復興期の建物が残っています。
050.jpg
↑ 「八百宗」さんのモダンなファサード(建物の正面に掲げられる看板)。
文字が、一部、崩落しているのが残念です。
049.jpg
↑ 2階の雨戸の戸袋を使った海苔屋さんの看板。
看板としてちゃんと機能しているのは珍しいです。
052.jpg
↑ 花街には銭湯は必需。建物はビル化していましたが現役です。
それにしても「東京浴場」とは気宇壮大な名です。

戦後の駅前闇市起源と思われる、狭い「すずらん通り」のアーケード街に入ります。
ここも、5年前に比べると、活気&怪しさが減っているような気がします。

なんだか、どこにでもある在り来たりな住宅街になりつつある感じです。
まあ、地元の人にとっては、それが良いことなのでしょうが・・・。
(1回目踏査)2009年6月8日
(2回目踏査)2009年7月1日

2009年06月04日 東京の花街を調べる [性社会史研究(花街)]

2009年06月04日 東京の花街を調べる

6月4日(木) 曇り  東京 20.2度 湿度58%(15時)

11時半、起床。
シャワーを浴びて、髪をポニーテールに結んで、シュシュを巻く。
朝ご飯は、アップルパンとコーヒー。

午後、今日のお天気と同じで、どうも気分がすっきりしない。
だらだら過ごす。
「日記(3日分)」を書く。

思い立って、「東京の花街(三業地・二業地)」について、ちょっと調べる。

今は「東京六花街」(新橋・赤坂 ・神楽坂・芳町・向島・浅草)なんて言ってるが、戦前には、現在の葛飾・杉並・練馬区を除く全区に50カ所くらいあったらしい。
そのうち、簡単なリストを作ってみようと思う。

今では、そこに花街があったことが忘れ去られている所も多い。
たとえば、ウチから遠くない目黒(目黒区下目黒3丁目)。

江戸近郊の行楽地である目黒不動尊の門前の茶屋・料理屋から発展した花街(二業地)で、そこの芸者は、目黒の名産にちなんで「竹の子芸者」などと呼ばれた。
下町の花街が関東大震災で大打撃を被った後、大正末~昭和初期に賑わい、昭和初年には、芸妓置屋35軒、料亭40軒があった。
しかし、その後は、都心から離れた足の便の悪さから次第に衰退した。
まあ、山の手の新興の花街の典型的パターン。

最寄り駅は。東急目黒線不動前駅。
あの辺りは、何度も行っているけども、ほとんど名残はないように思う。
もう一度、探検してみよう。

同じ東急目黒線の西小山にも花街があった
指定地は、品川区小山6丁目6,7,8,21番地、小山5丁目25番地の一部、荏原5丁目7,15,16番地のそれぞれ一部。

立会川(現在は暗渠化されて緑道)の両側に料亭が並んでいた。
昭和40年頃には、まだ料亭15軒、芸者40人ほどが残っていたが、今は絶滅。
10年ほど前までは、駅の近くに芸妓教練場だった建物がそのまま残っていたが、今はどうなっただろう?

夕食の支度。
豚たんを焼く。
後は、残りものの片付け。

夜中も、書かなければいけない原稿があるのだけど、気力が出ない。
ネットを巡回したり、バーチャル・リアリティ世界に逃避したり、だらだら。
まあ、こんな日もあるのかな。
就寝、4時。

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