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【論文】日本最初の「性転換手術」について [論文アーカイブ]

日本最初の「性転換手術」について

三橋 順子
(国際日本文化研究センター共同研究員)

はじめに
1951年、永井明(女性名:明子)に対して行われた日本で最初と思われる「性転換手術」については、その事実は知られているものの、細かい経緯は報告されていない。筆者は、戦後日本のトランスジェンダー(性別越境)に関する社会史的な調査・研究を行ってきたが、その過程で当時の報道記事(新聞・雑誌)の集成と分析から、日本最初の「性転換手術」について、かなり詳しい事情を明らかにすることができた。
なお、外性器の異性化形成手術は、現在では「性別適合手術」と呼ばれているが、本稿では歴史的呼称である「性転換手術」を用いる。

【注記】
本稿は、第8回GID研究会(2006年3月19日:福岡)で研究発表した内容をもとに訂正・加筆したものを、オンラインマガジン『Sexual Science』2006年6月号(メディカル・トリビューン)に掲載したものである。
しかし、同誌の廃刊後、ファイルも削除されてしまったので、ここに再掲載する。

1 永井明(明子)に関する報道
1952年(昭和27)12月1日、元アメリカ軍兵士ジョージ・ジョルゲンセン2世(女性名:クリスチーヌ)がデンマークで性転換手術を受けて女性に転換したことが、アメリカのマスコミに大きく報道された。そのニュースは、日本の新聞、雑誌でも外電を転載する形で盛んに報じられた。
ジョルゲンセンの「性転換」に衝撃を受けたマスコミ各社は、日本にも同様の事例がないかを探しはじめる。そして1953年(昭和28)9月、ついに「発見」されたのが永井明(女性名:明子)だった。

永井に関する初期の報道としては以下のの6つが確認されている。

(1)『日本観光新聞』1953年9月4日号(149号)「男が完全な女になる」
(2)『読売新聞』1953年9月13日朝刊「“人工女性”の日本版があらわれた」
(3)『日本観光新聞』1953年9月18日号(151号)「呪わしき男性よ さらば!」
(4)『日本観光新聞』1953年9月25日号(152号)「永井明子 舞台からお目見得」
(5)『週刊読売』1953年10月4日号「日本版クリスチーヌ 男から女へ キャバレーの女歌手で再出発」
(6)『週刊タイムス』1954年2月21日号「僕は完全な男になった!-男から女になった人たち-」

第1報は(1)の『日本観光新聞』9月4日号と思われるが、「松井信」という仮名報道で、実名報道としては、(2)の『読売新聞』9月13日朝刊が最初のようだ。(3)は永井による長文の手記で生い立ちや、転性に至る事情が詳細に記されている(以下、「手記」とはこれを指す)。
なお、(2)(5)には転性前(男性)と転性後(女性)の顔写真が、(3)には全裸の入浴写真とサイン入りの水着写真、(4)(6)にはキャバレーで唄う舞台姿の写真が掲載されている。

2 手術前の履歴
男性から女性への「性転換手術」を受けた永井明(女性名:明子)は、1924年(大正13)、貸舟業を営む永井家の三男として東京市深川区古石場(現:江東区古石場)に生まれた。報道では、次男とされているが、戸籍上は三男で、兄2人姉1人の末っ子だった(兄の1人は早世か)。
「手記」には、5歳のころ、歌舞伎好きの姉(5歳年長)に女形の真似をさせられたこと、7歳のお祝い(七五三)に母に女の着物をとせがんだが、「駄目」と言われて「子供心に悲しかった」こと、小学校では「女の子のセーラー服や赤いリボン」がうらやましかったこと、高等科の時、担任の教師(男性)に片思い(初恋)したことなどのエピソードが語られている。
卒業後は、保険会社の給仕、藤倉電線の職工など職を転々としたが、その間、19歳の頃(1943年?)に図書館で「ホルモン学」の本を読み「睾丸を去勢すれば中性化する」という記述に触発されて、外科病院に相談に行ったが、徴兵忌避を疑われ厳しく叱責され断られた。
戦後は、日立製機や朝日生命の事務員として勤務し、女性とも交際しようとしたが、映画館で相手の女性に手を握られて「ゾーッとするほどのイヤ気がさして」逃げ出してしまう。
そして、1950年(昭和25)2月に、進駐軍の東京陸軍病院(現:聖路加病院)に皿洗いの雑役夫として就職する。この頃から女性的な言動が表面化し、「手記」には、外人が女性に対して親切なのを目の当たりにして「本当の女性がどんなに羨ましく思われたか分りません」と心情が語られている。
さらに同僚の男性(2歳年下)に強い愛情をいだき、「病院でも誰知らぬことのない仲にな」り、彼に対する愛情と独占欲に悩む中で、「精神と肉体を一致させる事」を思いつき、性器の手術をすることを決意する。
なお、新聞報道の時点での居住地は、葛飾区亀有町2丁目だった。

3 手術の経緯
永井は、まずT大病院(東京大学病院?)の精神科を訪れて「精神病者」という診断書(精神科では治療不能という証明か?)を書いてもらい、それを持って上野の竹内外科病院(竹内篁一郎院長:東京都台東区仲御徒町)に行き、1950年(昭和25)8月15日、精巣と陰茎の除去手術を受ける。手術の名目は陰茎癌だった。
永井は「心から嫌悪していた男性のシンボルが今日を限りで私の肉体から切り離されるのだと思うと、親に対して何か済まないような気がしたが、私の生命をかけた女性悲願の前にはそれも一時的な感傷でしかありませんでした」と手術台に上った時の感慨を語っている。
退院後は、女性ホルモンを投与しながら、髪形や服装を女性のそれに改め、職も進駐軍関係者のハウスメイド(家政婦)に転じる。
さらに、1951年(昭和26)2月頃から、造膣手術をしてくれる病院を探しまわり、K大病院(慶応大学病院?)で断られた後、1951年4月に日本医科大学付属病院で念願の造膣手術を受けることができた。
造膣方法については、大手術になる直腸移植法ではなく、またすでに陰茎除去済みなので反転法でもなく、(1)の記事によれば「産婦の卵幕を利用」したらしいが、術後、人工膣の狭窄(「小指も入らない状態」)に悩まされる。
執刀した石川正臣博士(1891-1987)は、当時、日本医科大学教授であるだけでなく、学校法人日本医科大学理事の要職にあり、1958年(昭和33)には日本産婦人科学会会長に就任する産婦人科の権威だった。
永井は、その後、別の病院で豊胸手術を受けたらしい。
ちなみに、「性転換手術」に際して、永井は陰茎癌の手術費用と称して実家から2万円の援助を受け、自分の貯金1万円を加えて計3万円を用意している。1950年当時と現在との物価換算は、約20倍ほどと推定されるので、60万円ほどを準備したことになる。
永井にインターセックスの徴候はなく、身体的には完全な男性からの転性手術と思われる。手術完了の時点で27歳だった。

ところで、(6)の『週刊タイムス』には、永井の手術に関わった2人の医師のインタビューが掲載されている。
精巣と陰茎の除去手術を行ったとされる竹内篁一郎医師は、「個人の秘密に関しては一切しゃべれない」とした上で、「私としてはただ(あの手術に)関係はしていると言うことしか出来ない」、一般的概念として「体の器官を切除することは大して難しい手術ではない」と述べている。
また造膣手術を行ったとされる石川正臣博士は、次のように述べている。「私は医者ですから、患者の悪い処があれば手術します、しかし、局所切断という手術には全く関係ありません。たとえ男性の局所を切ったとしても、それだけで完全な女性になるなんていうことはありません。私は彼女のことについては単にそういった相談をうけた、という以上のことは、ここでは言えません」。
いずれも明言を避けているが、医師の患者に対する守秘義務からして当然だろう。
(1)の『日本観光新聞』には、「近く経過を学会に発表」の見出しがあり、「卵幕」を使った「人工膣」手術を正式に学界に報告する予定だったらしい。実際に学会発表(症例報告)が行われたかどうかは、現在のところ確認できていない。あるいは、術後の「人工膣」の状態が好ましくなく(狭窄の進行)、手術の有効性に疑問が出たため、報告が見送られた可能性も考えられる。

4 戸籍の性別訂正
永井が「性転換手術」後程なく女性への改名と続柄(性別)の訂正をしたことは、(2)の記事に「家庭裁判所で次女明子と戸籍変更の手続きもすまし」とあり、「手記」にも「戸籍までも女性として通用しているのです」とあることから、1953年9月13日以前に家庭裁判所の許可を得て、戸籍法113条によって訂正を行ったと思われる。
この点に関しては、『日本週報』1954年11月5日号の「恐ろしい人工女性現わる!」という記事の中に、永井の戸籍の写真が掲載されていて、「明」から「明子」への改名と、「参男」から「二女」へ続柄(性別)を訂正したことが確認できる。

5 キャバレー歌手として
永井明子は、1953年9月12日に銀座7丁目のキャバレー「銀巴里」で内外の記者30名を集めて記者会見を行っているが、その際に「ベサメムーチョ」など数曲を披露している。こうした経緯から、永井の性転換公表が、キャバレー女性歌手としてのお披露目(再出発)と連動していたことは間違いない。
その後、少なくとも1957年頃までは全国各地を巡業したらしいが、歌手としては成功せず、「性転換女性」の物珍しさが薄れるとともに、舞台から消えていったようで、以後の消息は明らかでない。
ご存命なら、今年82歳のはずである。

おわりに
以上、日本最初の「性転換手術」について、判明したことをまとめてみた。これらの調査結果から、次の3点を指摘しておこう。
第一は、アメリカのジョージ・ジョルゲンセン(女性名:クリスチーナ)の「性転換」(1952年2月手術完了、同年12月報道)より報道は後だが、手術完了は永井の方が先で、1951年に手術を含む性転換治療プログラムを完了したイギリスのロバート・コーウェル(女性名:ロベルタ)とほぼ同時期になり、戦後では世界最初だった可能性があること。当時における日本の性転換医療の先進性がうかがえる。
第二に、日本最初の「性転換」事例では、手術と戸籍の性別訂正が連動して行われていたことが確実になったこと。従来、性転換手術にともなう性別訂正は、1980年の事例が孤立的に知られていたが、それを大幅に遡及し、特別の法律がなくても、戸籍法113条によって性別訂正が可能だったことが改めて確認できた。
第三に、造膣手術は、当時の医学界の権威によって行われており、1998年10月の埼玉医科大学による「性転換手術」以前の「性転換手術」をすべて「闇手術」と見なすような見解は成り立たないこと。
この点に関しては、1950年代(1951~60)の「性転換」の報道事例は10例(MTF5例、FTM5例)で、この内、7例(MTF2例、FTM5例)がインターセックス、1例が造膣手術未了で、現代の基準で「性別適合手術」と言えるのは、永井明子と椎名敏江(1955年6月手術)の2例のみであること。1960年代(1961~70)になると「性転換」報道事例は23例(MTF21例、FTM2例)を数えることができ、内4例(MTF2例、FTM2例)がインターセックスで、現代的基準で性別適合手術と言えるのは19例(すべてMTF)と急増することを付け加えておく。
なお、日本における「性転換」の詳しい歴史については、下記の2つの拙稿を参照していただければ、幸いに思う。

【文献】
三橋順子「『性転換』の社会史(1) -日本における『性転換』概念の形成とその実態、1950~60年代を中心に-」
三橋順子「『性転換』の社会史(2) -『性転換』のアンダーグラウンド化と報道、1970~90年代前半を中心に-」
(いずれも、矢島正見編著『戦後日本女装・同性愛研究』中央大学出版部 2006年3月に収録)

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【写真1】「性転換」から3年後の永井明子
原キャプションには「身も心も女になった永井明子さん」とあり、当時流行の柄の着物姿で花を生けるポーズで「女性らしさ」が強調されている。
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【写真2】 永井明子の戸籍
名前の「明」が×で抹消され「明子」に改められている。父・母欄の下の続柄は「参男」の右に「二女」と記され、名前の上の欄は、「参」の左に「二」、「男」の左に「女」が記されている。(生年月日の一部と両親の名前のマスキングは筆者による)
(写真の出典:南部良太「恐ろしい人工女性現わる!-宿命の肉体“半陰陽”-」『日本週報』1954年11月5日号)

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