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7月8日(金)「第1回 アジア クィア・スタディーズ国際学会」2日目 [バンコク日記2005]

7月8日(金) 曇り 時々晴れ

6時50分、起床。
6時間ほど眠ってだいぶ疲れがとれた。目の下の隈も薄くなる。
シャワーを浴びて身支度。
赤黒白の銘仙写し(メテユンデ)。
下は萌黄色の吸い上げ暈しの麻の半襟を付けた半襦袢。
帯は紫と黄色の縞を角出しに結ぶ。
若草色の吸い上げ暈しの帯締を掛ける。

9時、朝食。
バイキング形式で、料理の数が多いのでつい食べ過ぎる。
お米を減らすことを決意。

午前中1つ目の講演、Peter Jackson(オーストラリア国立大学)“Queer Asia:Local? Western Import? Hybrid?”は、間に合わずサボってしまう。
論題から内容の予測はつくが・・・・。
会場前のフロアーのポット出版の書籍を展示してあるコーナーで、井上メイミーさん、伏見さんとだらだらおしゃべり。

時間潰しに、ちょっとだけ外に出てみる。
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↑(写真11)ホテルの入口。
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↑(写真12)ホテルの前の道路。

ホテルの前庭に祭壇があり、小さな仏像がまつられていた。
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↑(写真13)ホテルの前庭の祭壇。
今回の旅行、とてもじゃないけど、観光をしているスケジュール的余裕がない。
1日なり半日なり、学会(会議)をサボって観光に出掛けるということも頭に浮かんだが、招待されていることを考えると、私の性格上、できない。
私は仏教徒ではないが、仏教国タイに来て、お寺をひとつも見ないというのは、なんとなく寂しいので、この仏さんにお参りする。
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↑(写真14) 小さいけど金色に輝く仏様だった。

10時半からのセッション(個別発表)は、C4のトランスジェンダー部会に出席。
テーマは「イスラム、ヒンドゥー文化圏のトランスジェンダー」で、研究報告は4本の予定だったが、どうやら(1)のインドに関する発表は取り下げで、パキスタン、インドネシア、イランのイスラム圏の報告のみとなる。

(1) GayatriReddy “Geographies of Contagion:Hijras,Kothis and the Politics of Sexual Marginality in Hyderabad,India”
(2) Humaira Jami“Condition and Status of Hijra(Transgender,Transvestite)in Pakistan”
(3) Sharyn Graham“Bisexual and Transgender Intersections in South Sulawesi,Indonesia"
(4) Fatemeh Javaheri“An Empirical Study on Transsexuality in Iran”

(2)は、パキスタンのヒジュラについての報告。
南部のカラチなどに多いらしい。
インドとパキスタン(それにバングラディシュ)はもともとイギリス領インドが独立する時に人為的に線引きして分割した国家だから、パキスタンにインド的なヒジュラがいても当然なのかもしれない。
この報告では、ちょっとおもしろい図式が示されたので、メモ&撮影をしておく。
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↑(写真15)こんな模式図。
Hijraを、Biological, Psychological, Sexual-Orientation の3つの観点に分け、Biologicalには、HermaphroditeとIntersexedがぶら下がり、Psychologicalには、TransgenderとCross-dresserがぶら下がり、Transgenderの下にEunuch(去勢者)が位置付けられる。
またCross-dresser Sexual-Orientationには、HomosexualとBisexualがぶら下がる。
そして、現地の概念であるKhusrayからIntersexedとEunuchに、ZannanayからはCross-dresserとBisexualに矢印が向いている。
ちょっと理解できない部分もあるが、KhusrayはIntersexed(半陰陽者)やEunuch(去勢者)を意味し、ZannanayはCross-dresser(女装者)でBisexual(両性愛)的であるということだろうか?
いずれにしても、西欧的な概念を現地の言葉と対応させることは、単純にはいかず、かなり難しい部分があるということだろう。

それは日本俗語の「おかま」を西欧のどの概念に対応させて翻訳するか難しいことを考えればわかることだ。
「おかま」= Gayで、「おかま」= Cross-dresserでもうまくない。
西欧の概念を直輸入して他の地域に当てはめるという発想そのものが、きわめて植民地的発想であることを改めて感じた。

(4)は、イランのトランスセクシュアルについての報告。
2004年、テヘラン政府の under the protection(庇護下、保護下)にある約35人のトランスセクシュアルを対象としたインタビュー調査。
イスラム教が強い影響力をもつ国でトランスセクシュアルな人々がどのような境遇にあるのか興味深い。
under the protection とは具体的にどういう状況なのだろうか? 
もしかすると、精神病院に強制入院ということかも?

研究報告をしたパキスタンとイランの女性研究者は、民族衣装に身を包んでいた。
特にパキスタンの女性の衣装は美しく、そこには、いたずらにグローバル化という名の欧米化に身を任せない、自国の民族衣装への誇りが感じられて、すがすがしかった。

昼食、ご飯の量を控える。
でもカレーが辛くて、口を冷やすのにマンゴー・アイスクリームを食べてしまう。
これではカロリー的に同じことだ。

午後の1つ目、13時半からのセッション(個別発表)は、D5の Mark McLelland氏が座長の「Local Japanese Responses to Queer Activism(クィア・アクティビズムに対する日本の反応)」に出席。
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↑(写真16)D5部会で。(左)Mark McLelland氏、(右)菅沼勝彦氏。

研究報告は4本。
(1) Mark McLelland“Networking Among Postwar Japanese Queer Communities"
(2) Katsuhiko Suganuma“Naming Themselves or Being Named?:Articulation of Indigenous Queer Politics of Modern Japan"
(3) James Welker“Reaching Out from the Margin:Queer Community Formation in 'Aesthete' Magazine for Teenage Girls"
(4) Makoto Hibino“What is Necessary For Us,For Our Queer Movement in Japan?”

(1)のMcLelland報告は、1990年代にQueerという概念が日本に導入される以前の、1950~60年代の日本で、類似性をもつ「Hentai(変態)」概念が成立していたことを実証しようとする発表。
細部はともかく全体的には同意できる。

「変態」概念に対する私の認識は以下のとおり。
(a) 戦前の「変態」は「ノーマルではない」という意味のかなり広い概念で、変態性慾、変態芸術、変態心理、変態犯罪など「通常と異なる」という意味で広く使われ、性慾に限定される概念ではなかった。
同時代の言葉で示すと「変態」=エログロだろう。
(b) 戦後になると「変態」の用法は、ほぼ変態性慾に限定されて、「変態」=「変態性慾」という図式になる。
しかし、その内実は、SMや異性装などヘテロセクシュアルに立脚したアブノーマルな性慾が中心で、ホモセクシュアルやレズボス(女性同士の性愛)は「変態性慾」に含まれるものの、必ずしも中心ではなかった。
同時代の類義語に「猟奇」がある。
(c) ホモセクシュアルを「変態」の中心に位置けるような認識が広まってくるのは、案外遅く1970年代ではないだろうか?
そして、1990年代にゲイ/レズビアンを意味する「Queer(変態)」という概念が輸入され、「Queer(変態)」=ゲイ/レズビアンという図式ができあがる。
逆に言えば、かって「変態性慾」の中心だったSMや異性装は「Queer(変態)」概念には含まれないか、傍流に位置付けられることになる。
こんなコメントメモを作って菅沼氏に渡したのだが、時間の関係からか、発言の機会は与えられなかった。

「変態」のように日本社会の中で独自に作られてきた概念を重視するMcLelland氏の立場には、日本の若手セクシュアリティ研究者、とりわけフェミニズム・レズビアンの立場からかなり強い批判があるようだ。
日本にフェミニズム思想が導入された1980年代の画期性への認識が希薄、あるいは男性読者が主体の雑誌の分析からはレズビアンの真の姿はわからないという批判なのだと思う。
それはたしかに的を射た批判だと思う。
しかし、McLelland氏が日本の「変態」文献を最もよく見ている外国人研究者であることをもっと評価すべきだろう。
彼がしているような実証的な積み重ねをせずに、欧米直輸入の理論や現代の状況から遡及した考えで批判しても、日本の性的マイノリティの歩みを明らかにする上では、あまり生産的ではない。McLelland氏の論証が粗い部分は、私なり石田仁さんなりがフォローすれば済むことだ。

議論を聞いていると、歴史的実証や現実のコミュニティのフィールドワークを重んじる私のような考えは、どうも現代日本のセクシュアリティ研究では傍流らしい。

(3)の James Welker報告は、若い女性を読者層にした『月光』や『アラン』などの耽美趣味系の雑誌の分析。
あまり注目されていない分野だが、美少年愛や女装、両性具有などのモチーフが頻出し、現代の「ボーイズ・ラブ」の源流として、今後研究を深めてもっと再評価すべきだと思う。

(4)の日々野報告のバイセクシュアル(B)の主張とゲイ覇権主義批判はなかなかインパクトがあった。
LGBTと言いながら、BはT(トランスジェンダー)以上に無視されがちである。
今回の学会でも、Tは4セッション(部会)あるのに、Bは独自のセッションが立っていない。
これではLGBTとは名ばかりだろう。
時々Bを忘れてしまうことがある自分自身への自戒をこめて、少数者の中の少数者にはもっと配慮すべきだと思う。

15時40分、ナイト・ツアーに備えて荷物の軽量化をしようと、部屋に戻る途中、ホテルのロビーで、すてきなタイ美人に呼び止められた。
Tシャツなどを販売している地元のサポート組織(Rainbow Sky Association of Thailand=RSAT)のブースで看板「娘」をしている「お嬢さん」だった。
実は、美人好きの私はずっと写真を撮る機会をうかがっていたのだが、向こうから声をかけてくれた。ラッキー!
私のことを「Beautiful」と言ってくれたので、「You are more Beautiful」とお返しして、ツーショット写真を撮ってもらう。うれしいなぁ。
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↑(写真17) ブルーの民族衣装と豪華な首飾りがすてき。

16時からの午後2つ目のセッションは、パネル・ディスカッション“Asia Queer Filmmakers”
オーストラリア、カナダ、タイ、インド、台湾などのパネラーが並んでいたが、日本人はいない。当然、日本のフィルムは上映されなかったし、言及もなかったと思う。ここでも日本は「蚊帳の外」だった。
日本でも毎年7月に東京と関西でレズビアン&ゲイフィルム・フェスティバルが開かれている。関係者の1人でも参加してパンフレットを配って広報すれば、少しは日本の状況も伝わるだろうにと思う。
たぶん日本の関係者のほとんどの視線、は欧米に向いていてアジアは視野に入っていないのだろう。
一方、アジアの人たちにとっては、日本は視界の外。なんとも不毛な関係がそこにある。
(続く)

2005年7月7日(木)「第1回 アジア クィア・スタディーズ国際学会」1日目 [バンコク日記2005]

2005年7月7日  バンコク  曇り 午後一時雨

5時40分、起床。まだ、日の出前。
さすがに眠い。
シャワーを浴びる。お湯は豊富に出る。
化粧と身支度。
草色に笹模様の綿紅梅(竺仙)。
下は萌黄色の吸い上げ暈しの麻の半襟を付けた半襦袢。
帯は黄色を下に赤黒を上に結んだ順子オリジナルの二階文庫。
若草色の吸い上げ暈しの帯締をかける。

7時半、金田氏を誘って朝食へ。
朝食は、タイ料理と洋食のバイキング形式。
せっかくなので、できるだけタイ料理を食べる。
外国人向けに調整してあるようであまり辛くない。

朝食を終えたころ、やっと菅沼氏が現れる。
済んだことは仕方がないので、違約は責めず、これからの段取りを打ち合わせる。

会場受付で、今回、声をかけてくださったマーク・マクレランド氏(Mark McLelland University of Queensland:オーストラリア)にご挨拶。
ところが、受付に私のIDカードが用意されてない。仕方なく自分で手書きして作る。
昨夜のことといい、私は本当にこの学会に呼ばれているのだろうか?
少し気持ちがいじけてくる。

9時、オープニングセレモニー。
主催者の挨拶の後、Vitit Muntarbhorn教授(タイ)の基調講演“Sexuallties,Gender and Rights in international Law:Implications for Asia Region”。
熱弁だったが内容はまったく不明。しかも話が長い。
途中、短時間、意識を失う。
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↑(写真2) Vitit Muntarbhorn教授(タイ)の基調講演。
メイン会場には、レインボーフラッグ(性的マイノリティの連帯の象徴)が掲げられている。

コーヒー・ブレイクの時、台湾中央大学の何教授(Josephine Ho)と再会の抱擁。
日本からのメンバーで旧知の石田仁さん(中央大学)、谷口洋幸さん(日本学術振興会)、大河原麻衣さん(首都大学東京)らと再会。
また、日本からのゲストのゲイ作家の伏見憲明氏と、レズビアン雑誌『Carmilla』(ポット出版)の編集長の井上メイミーさんにご挨拶。

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↑(写真3)第1日目の私

11時からの個別発表は、A2セッションのトランスジェンダー(TG)部会に出席。
テーマは「タイとラオスのトランスジェンダー文化」で、研究報告は4本。
(1) Stephane Rennesson “Transgender Culture and Thai Boxing”
(2) Anne Beaumont-Vermon“The Road to Transition:Transgender in Britain and in Thailand”
(3) Richad Totman“Ambivalent Attitudes to Thiland's Kathoey"
(4) Serge Doussantousse“A Gender Minority in Lao PRD:Transgenders or Kathoeys”

(2)は、イギリスとタイとのトランスジェンダーの移行過程の比較研究。イギリスでは時間をかけて精神科医の診断を得た後にSRSをする。
手術費用は国家支給(健康保険が適用される?)。
それに対してタイでは、SRSの前に医師が関わる領域は少なく、家族や社会の受け入れが先行する。

(3)は、ラオスにもタイのKathoeyによく似たトランスジェンダーな人たちがいることの報告。
ただしラオスは小国なので人数は少ないとのこと。
しかし、今までトランスジェンダー文化が知られていない地域からの報告で貴重。

ところで、どうも、東南アジアのトランスジェンダー文化を土着的なものがそのまま発展したものととらえ、欧米のトランスジェンダー文化と比較する研究姿勢が随所に見られるように思う。
しかし、タイやフィリッピンなどには、日本の商業的トランスジェンダー(ニューハーフ)文化の影響がかなり入っていると思う。
つまり、タイやフィリッピンなどから日本に出稼ぎに来たトランスジェンダーが日本のニューハーフ文化を帰国に際して持ち帰り、故国で日本人観光客の嗜好に合うように土着的なトランスジェンダー文化を再構成した可能性がある。
そうした東南アジアと日本とのトランスジェンダー文化の交流に欧米人はまったく気が付いていないようだ。
まあ、欧米人には、ファー・イーストの島国のトランスジェンダー文化など視野に入っていないのだろう。

昼食もバイキング形式。
タイのカレーがおいしい。
すでに量のコントロールが効かなくなっている。

午後の1つ目、13時半からの個別発表は、B2セッションのトランスジェンダー(TG)部会。
日本からのトランスジェンダーの出席者は私だけのようなので、報告の細部は理解できなくても、大要くらいは知りたいので、以後、基本的にトランスジェンダー部会に張り付くことにする。
テーマは「東アジアのトランスジェンダー・コミュニティ」で、研究報告は5本。
(1) James Caspian“Transgender in the Republic China"
(2) Mark King“Public Preceptions of Transgender in HongKong:Social,Psychological,and Emotional Sources of Biases"
(3) Robyn Emerton“Half Full or Half Empty? Legal Status and Activism of the Transgender"
(4) Yuen Man Lisa Lam & Chun Wah Yim“Oral History of Transsexuals in Hong Kong”
(5) Sachiko Wakui“Transition Story' in Person with GID”

中華人民共和国1本、香港3本、日本1本という構成。韓国の報告はなかった。
(2)の報告の中で「日本ではちゃんと法律GID(特例法)を作って・・・・」という言及があった。「ちゃんと」かどうかは大いに疑問だが、国外にはそのように伝わっているらしい。
(4)の京都大学の涌井幸子さん(心理学)の報告は、今回の学会で日本のトランスジェンダーについての唯一の報告。
同時に「GID(性同一性障害)」という概念を表題にしたただ一つの報告。

休憩時間にわざわざ挨拶に来てくれた涌井さんに、日本国内ではGID概念全盛だが、海外、とりわけ今回のような文化人類学、ジェンダー/セクシュアリティ研究者の間では、GIDという概念はほとんど使われず、用語としては(広義の)トランスジェンダー概念がほとんどで、特に限定する場合にトランスセクシュアルが使われている状況を説明する。

案の定、質疑応答は香港勢の報告に集中して、涌井さんの報告には一つの質問もコメントもなく(この点に関しては座長の Sam Winter の不手際だと思う)、まったく無視された形になってしまい、かわいうそうだった。

トランスジェンダーの部会は30人ほどの入りだったが、私以外にはトランスジェンダーの当事者はいないようだ。
もっとも、ほんとうに完パス(完全パス。外見上、トランスジェンダーだとはわからないこと)の人がいたら、私でもわからないのだが。
それだけトランスジェンダーを研究テーマにする非当事者の研究者がいるということで、トランスジェンダーをテーマにする研究者がほとんどいない日本とはかなり状況が違うようだ。
(注1、その後、トランスジェンダーをテーマにする研究者は、少しずつ増加中)

菅沼氏の助けを借りて、部屋替えの交渉。
広いが設備が旧く会場まで遠いタワー棟から、本館3F(341号室)の小ぎれいな部屋に移動することになる。
荷物をまとめに部屋に戻る時、エレベーターの中で初老のアメリカ人?男性に「どこから来たのか?」と声をかけられる。
ファッションでわかるだろうと思いながら「Japan」と答えると、「日本か。俺は沖縄にいたことがある」と言う(たぶん)。
ちなみに、私、英語ができないのに、なんでだかこういう会話はできる。
早い話、パングリッシュ(戦後、進駐軍兵士相手に春を売ったパンパン=街娼がしゃべった英語もどき)なのだと思う。
このおじさん、両手に食品の入った買い物袋を下げていたので、軍務をリタイアしてバンコクの古いホテルに長期滞在をしているのだろうか? なかなかいい男だった。

新館の部屋に移る。
周囲の部屋はアラブ系の家族連れがバカンスで何組も滞在している。
プールがすぐ近くにあるせいだろう。
子供が廊下を走り、母親がそれを叱る。
どこの国でも同じだなぁと思う。
成田の免税店で買ったシャネルの夏限定の新色(173番 透明感のあるピンク)のマニュキュアを塗る。
乾くのを待つ間、少し居眠り。

午後後半の何教授の講演“Is Global Governance Bad for Asian Queers?”は、最後の質疑に間に合ったが、残念ながらほとんど聞けなかった。

18時から屋上のイベントホールでレセプション・パーティ。
大河原さんが白い絽の着物に着替えてきた。
偉い! これぞ日本娘の心意気。
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↑(写真3)大河原麻衣さん(首都大学東京)と。

立食パーティで、アメリカのテキサスから来たMTFTGとその支援者の女性に日本の状況についていろいろ質問される。
日本でも大都市と地方ではトランスジェンダーに対する意識差はかなり大きいと答える。
アメリカの田舎であるテキサスではやはり状況はきついらしい。
頑張って欲しいと思った。
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↑(写真4)テキサスのMTFTG&支援者の女性と。

中国系の若いゲイの男性が「歳はいくつ?」と聞いてきたので、「いくつだと思う?」と聞き返すと、「27歳」と言う。とても良い子なので一緒に写真に写ってあげる。
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↑(写真5)興味津々な様子。「こら、皺を数えるんじゃない!」

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↑(写真6)地元のきれいなお姐さんと。

アトラクションは、2人の上半身裸体のゴーゴーボーイのダンス、少し年期が入り過ぎたお姉さんのタイ舞踊、最後にあまり迫力のないドラァグ・クイーンが2人登場。
総体的に芸能としてのレベルは高くないが、まあ余興ということなので。
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↑(写真7)出演者の人たち。
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↑(写真8)ドラァグ・クイーンのお姐さんと。

21時過ぎ、日本人研究者と在日外国人研究者14人で、ホテルのすぐ近くのアジアン居酒屋に行く。
タイ料理を肴にビールを飲む。
なんだか新宿のエスニック居酒屋で飲んでいる気分。
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↑(写真9)疲れた・・・。
そのうち、男性(ほとんどゲイ系)9人、女性(レズビアン系&その他)4人にきれいに席が分かれてしまう。
私は隅っこに1人。マイノリティの中のマイノリティであるトランスジェンダーの孤独をつくづく感じる。
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↑(写真10)長い一日だった。

さらに街に繰り出すらしいゲイ組と分かれて、23時、ホテルに戻る。
玄関の前にミニスカートにショルダーバッグという姿の女の子が2~3人、さりげなく立っているのに気づく。
一応、格式のあるアンバサダーホテルでは、娼婦はロビーに入れないようだ。

部屋に戻る。さすがにヘトヘト。
化粧を落として、お肌さらさらシートで全身をぬぐい、着物を畳み、明日着るものを準備する。

就寝、0時半。


2005年7月6日(水)バンコクへ [バンコク日記2005]

2005年7月6日(水)小雨

8時半、起床。
朝食はいつもの通り。

午前中、講義。

昼過ぎ、仕事部屋に戻って、旅行の最終準備。

明日から、タイのバンコクで開催される「第1回 アジア クィア・スタディーズ国際学会-アジアにおけるセクシュアリティ、ジェンダーと人権- Sexualities, Genders, and Rights in Asia: The 1st International Conference of Asian Queer Studies」(7~9日)と、引き続いて同地で開かれるニューヨーク市立大学(City University of New York)レズビアン・ゲイスタディーズ・センター主催の「3th International Resource Network Meeting」(10~11日)にゲストとして参加して、12日朝に帰国の予定。

14時50分、品川発の成田エクスプレスで出発。
18時15分発、全日空(NH)0915便バンコク行は、約15分延発で離陸。
B767-300の機内は空いていた。乗客率は30%くらいか?
浜松-鹿児島-台北-ダナン(ベトナム)のコースで、巡航高度は10600m。

陸側は一面の雲海(梅雨前線?)。びっしりと綿を敷き詰めたようなモコモコ雲の上に澄んだ青空があり、そこに夕映した絹雲が刷毛ではいたように飛んでいる。そして雲海に夕日が沈むと、空の色はますます深くなり濃い群青色に変わっていった。

23時02分、バンコク国際空港に着陸。
リムジンタクシーでホテルへ。車は左側通行なので違和感はない。高速道路は、少し周囲が暗いだけで、日本とほぼ同じ感覚。ただ路面の継ぎ目の段差が少し荒いかも(こういくことで基本的な技術水準がわかる)。
市内に入ると、歩道に露店が多いのが目立つ。その一方で、日本でおなじみのスターバックス・カフェのネオンを2箇所見かけた。

スクンピット(Sukkumvit)通りの soi(路地の意味)11にあるアンバサダー(Ambasador)ホテルに到着。ややクラシカルな作りの大きく立派な構えのホテル。

ここまでは順調だった。
ところが、受入れ側の人が誰もいない。ロビーで待っているはずの菅沼勝彦氏が見当たらない。だいたいの到着時間は知らせておいたのに・・・・。
30分ほど待ったが姿を見せず、仕方なく不自由な英語でチェックインしようとしたら、なんと私の筆名、本名ともに予約リストにないという。
ホテルを間違えたのかと思ったが、ホテルマンは「Asian Queer Studies Conference の会場はここで間違いない」と言う。

困ってしまった。私の英語力ではこれ以上の交渉は無理なので、作戦を立て直そうと思案していたら、そこにどこかで見かけたような人が現れた。
昨年暮のシンポジウムでご一緒した金田智之氏(首都大学東京)だった。まさに救いの神、聞けば、金田氏もホテルの予約確認が届いていないとのことで、関係者を探しているとのこと。

時刻はすでに1時を過ぎている。これ以上待っても事態の改善は望めないので、金田氏と一緒に飛び入りで部屋を取ることにする。
幸い、細い路地をはさんだ別棟(タワー)の方に部屋を確保できた。
ところが部屋に案内されてビックリ! 広い次の間付きのセミスィートルームで大きなダブルベッド、ど~ん。
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↑ (写真1)良いお部屋なのは確かなのだけど・・・

金田氏が「僕はこっち(次の間)のソファーでいいですよ」と言ってくれたので、ダブルベッドの上掛けを渡して、お言葉に甘える。

なんとか寝る場所を確保できた。明日の準備を整えてベッドに横になったのは2時を過ぎていた。

それにしても菅沼氏はどうしたのだろう?

就寝、2時過ぎ(バンコク・アンバサダーホテル)。

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