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「ニッポン人脈記」男と女の間には(8) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」男と女の間には(8)

2010年09月21日(火)

第8回は、東京新宿のニューハーフ・クラブ「メモリー」のママ、瞳条美帆さん(39)と、モデル&タレントの椿姫彩菜さん(26)の登場です。

テレビ出演で知名度があり、あちこちで語られている椿姫さんではなく、美帆ママをメインにもってきたあたり、なかなか心憎いです。

私が「メモリー」に最初に遊びに行ったのは、たしか1997年で、今から13年前。
「メモリー」が歌舞伎町区役所通り(歌舞伎町2丁目)に進出してきた直後でした。

私がお手伝いしていた区役所通り(歌舞伎町1丁目)の「ジュネ」の常連客で、新宿の女装者好き男性(女装者愛好男性)のドンのSさんに、「おい、順子、ちょっと付き合え」と店外デートに誘われ、連れて行かれた先が「メモリー」でした。

Sさんにしてみると「挨拶」&偵察だったのでしょう。

そのとき、若いのに、やり手のママだなぁ、と思った記憶があります。
そうか、あの時、美帆ママは、まだ26歳だったんだ・・・。

このシリーズも、残すところあと3回。

私がW記者から聞いているところでは、「取材した」人で、まだ歌手の中村中さんと、タレントのはるな愛さんが出てきてません。

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ニッポン 人脈記 男と女の間には(8)
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厳しくても心のままに
瞳条美帆(39)は、男子高校の1年生だった。

東京に生まれ、幼い頃から女の子のようだった。男子高に進んだのは、父親が「男らしく鍛え直そう」と思ったからだ。

美帆は「僕」を使うようにし、がに股で歩いてみた。自分が自分でないようで、とても耐えられない。殻に閉じこもるようになった。

一人の同級生が、その殻を破った。

1年生が全員参加する合宿のバスで、美帆が音楽を聴いていた時のことだ。誰かにいきなりイヤホンを外された。
「おまえ暗いな。一緒に話そうよ」

意外だった。入学時にライオンのような金髪を先生に注意された生徒で、美帆は「怖い、『おかま』っていじめられる」と警戒してきた。

だが美帆は彼にひかれていく。授業中、ノートの切れ端に「好きです」と書いて丸めて投げた。同性としてではなく、女として彼が好きだった。

家も学校も自分たちのことを認めてはくれない。それなら――。美帆は彼に駆け落ちを持ちかける。どうせ学校つまらないし、と彼も乗った。

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親同士で東京の繁華街を捜し回り、警察に捜索願も出したころ、2人は名古屋にいた。

18歳だと偽り、家出してきたことは内緒で新聞販売所に電話した。「じゃ今から面接においで」と男の所長が言う。夜の9時過ぎに着くと、所長は開口一番、「おなかすいてない?」。2人でうなずいたら、中華料理店に連れていってくれた。

「今晩は体を休めて、2人でよく考えなさい。それでも働きたいと思うなら明日おいで」
2人は翌日から働き始める。風呂なし、トイレ共同の4畳半に住み込んで、朝夕刊の配達から集金、営業までやった。

親元にいる時は、水や電気はあって当たり前だった。自力で暮らしてみると、「生きるってこんなにお金がかかるんだ」と親のありがたみが身にしみる。

丸1年がたった日、美帆は公衆電話から実家へ電話した。「捜さないでね」という美帆に、母親は「元気ならそれでいい」と声を詰まらせた。父親は電話口に出てくれなかった。

2年が過ぎた。ささいなことで彼とけんかするようになっていく。ある夜、寝る前に美帆が「一生一緒だよね」と声をかけた。返事がない。間を置いて「ねっ」と言った。無言。明かりをつけると、彼は涙を流していた。

限界だった。

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東京に戻った美帆は、20歳の時に新宿でニューハーフクラブ「メモリー」を始めた。10坪で始めた店は軌道に乗り、歌舞伎町で新装開店することになった2004年秋、一人の少年が面接に訪れる。後にタレントになる椿姫彩菜(26)だ。

彩菜もまた、心と体で性が違うことに苦しみ続けていた。家族にわかってもらえず、絶食して死のうとしたこともある。

美帆を訪ねた時は20歳で、その年に性同一性障害特例法が施行され、日本でも「性の不一致」への取り組みが広がりつつあった。「何てタイミングなの。神様が背中を押している。体も女になろうと決めた。青山学院大学を休学し、家を出る。

美帆は彩菜をホステスとして採用した。手術費を稼ぐため、彩菜は懸命に働き始める。

翌年の元旦、美帆は、一人暮らしで実家に帰れない彩菜を自宅に誘った。その頃には両親と暮らしていた美帆は、苦しい時によくしてくれた新聞販売所の所長のように、彩菜に手作りのおせちをふるまった。

彩菜を送る道すがら、年末から掛かったままの「年越しそば始めました」の看板があった。彩菜が、母親の年越しそばを思い出して泣き出した。美帆は彩菜の手をギュッと握った。

メモリーという店の名は、ミュージカル「キャッツ」の劇中歌からとっている。駆け落ちから戻った後で公演を見た美帆は、劇中の野良猫に自分を重ね合わせていた。

「厳しいことが多いけれど、心のままに強く生きている」

同じ境遇で、夜の仕事に向かない人もいる。そんな人たちが「心のままに」生きるために、私は何ができるだろう。美帆は、昨年8月、昼間でも働けるタイ料理の店を新宿に開いた。

                               (渡辺周)

「ニッポン人脈記」男と女の間には(7) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」男と女の間には(7)

2010年09月16日(木)

第7回は、大阪ミナミのニューハーフ・ショーパブ「ベティのマヨネーズ」のママ、ベティ春山さん(54)の登場です。

このシリーズ、「『男と女の間』の人」=性同一性障害の人と思いこんで、性同一性障害者の特集であるかのように思っている人がいるようですが、まったくの誤解です。

「『男と女の間』の人」は、性同一性障害の人ばかりではありません。

いえ、むしろ「『男と女の間』の人」という点では、生まれた時と反対の性への同化を強く願う性同一性障害の人たちより、開き直って「第3の性」を生きているニューハーフやトランスジェンダーの方が、よほどふさわしいのです。

それはともかく、ベティママ、私と1つ違いだったんだ・・・。
(調べたら、1955年11月生まれだから、同年&同学年じゃん)

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ニッポン 人脈記 男と女の間には(7)
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ニューハーフ 薩摩に帰る
今宵あなたと梅田のモーテル 帰りたくない気持ちもいいじゃない

作者の桑田佳祐(54)を前に、ベティ春山(54)は上がってしまってどうにもうまく歌えずにいた。この「I LOVE YOUはひとりごと」がデビュー曲になるというのに、レコーディングは一向に進まない。

1981年、大阪で「おかまバー」のホステスをしていたベティは、桑田の事務所の有力者が来店した縁でレコードを出すことになった。ベティは25歳、サザンオールスターズの桑田は同年代とはいえ時代の寵児である。

ベティの緊張が解けないまま数時間が過ぎた。嫌な空気を払って桑田が言う。「ねえ、ベティはどこの国のハーフなの?」

西洋人のような顔立ちを見て、桑田は勘違いしたらしい。ベティが言い返す。
「ばかねえ。男と女のハーフじゃないの」

スタジオは笑いに包まれた。これはいいと、ベティを「ニューハーフ」と称して売り出すことが決まる。以後、男だったが、女としてタレントやホステスをしている人たちを広くニューハーフと呼ぶようになった。

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きらびやかな世界で「元祖ニューハーフ」となったベティは、鹿児島県の山あいに広がる錦江町で生まれ育った。

「九州男児は男らしく」という薩摩の地で、編み物が好きな男の子は、すっかり浮いた。「おなご」と呼ばれ、石材師の父は息子の髪が伸びると「丸刈りにしてこい」と命じた。

ベティが我が意を得たりと思ったのは20歳の頃、進学先の大阪で遊びに行った店で女装の美人を見た時だ。さっそく自分も「おかま」として働き始める。29歳で大阪・ミナミに「ベティのマヨネーズ」を開店し、「宝塚と吉本の要素がある」ショーを売りにした。

そんなベティに、郷里は渋い顔を見せ続ける。父の葬儀に帰れば冷たい目が待っていた。ベティは手を合わせながら思った。「父さん、私ってそんなに恥ずかしいですか」

頑固な父だった。でも、大阪に出る時には10万円をこっそりカバンに入れてくれた。

郷里にも、理解してくれる人がいなかったわけではない。アルバイト先だった電器店の後継ぎ水流(つる)秀作(50)は、帰省するたびに車で送り迎えしてくれた。

5歳下の水流をベティは幼いころから可愛がっていた。水流にもベティは風変わりと映ったが、2人はなぜか気が合った。ベティがニューハーフになっても変わらない。水流が大阪のベティの店に遊びに行った時は、ショーに感嘆して帰ってきた。

ベティの帰省は、人目に付かないよう夜遅く来て、朝早く出るのが常だった。ベティが大阪に戻ると、水流は地元のスナックで「I LOVE YOUはひとりごと」を歌った。

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レコードは売れなかったが、ベティはニューハーフとしてテレビに出ることが増えた。すると郷里の視線も和らいでいく。応援する声も上がり始めた。水流は「みんな勝手なもんだな」と思わないわけでもない。ニューハーフという言葉が、侮蔑的に使われることの多い「おかま」に取って代わりつつあった。

町の人たちに応えようと、ベティも動く。35歳の頃から地元の老人ホームで毎年、慰問コンサートを開くようになった。

ベティの母もここに入所していたが、4年前に89歳で他界した。「姿形がどうなっても、自分にとっては息子です」とテレビで言ってくれた母だった。亡くなる直前の夏、祭りの花火を見ながら一緒に写真を撮ったのが最後の思い出になった。

コンサートはいつも高校の先輩の司会で、音響は水流が担当している。ベティは今年も5月、ホームで100人ほどのお年寄りに懐メロを歌って聴かせた。小さい頃からの顔見知りも多い。「おかあちゃん、帰ってきましたよ。いつまでも元気でいてね」。涙ぐむ女性もいる。

ベティは言う。
私は強い。だけど寂しいというのは別物。ここで励まされているのは私の方なのよ――。実家も既になくなった。それでも、この町はベティの帰る所であり続けている。
                      (渡辺周)


2012-09-15 [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」男と女の間には(6)

2010年09月15日(水)

第6回は、「満を持して」と言う感じでFtMの虎井まさ衛さん(46)と、脚本家の小山内美江子さん子(80)が登場。

それにしても「性てんかん」と書くと、違う病気をイメージしてしまうのは私だけでしょうか?

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ニッポン 人脈記 男と女の間には(6)

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「性てんかん」 黒板に書いた
カルーセル麻紀(67)が男から女になった先駆者なら、その姿に励まされ、女から男への道を切り開いたのは虎井まさ衛(46)である。

虎井は女の子として生まれたが、意識のうえでは男の子だった。いずれ体の方も男の子になると信じて疑わない。

小学校5年生になった時、養護教諭が女子だけを集めて授業をした。成人女性の裸の絵を見せて、「あなたたちも大人になったらこういう体つきになって赤ちゃんを産むようになります」。頭の中が真っ白になった。以後3日ほど記憶がない。

ある日、学校から帰るとテレビのワイドショーでカルーセル麻紀が性転換手術の話をしていた。これだ、と思った。

虎井は教室の黒板にでっかい字でこう書いた。
「性てんかん」

そして同級生に宣言する。
「自分はこれをします。今日から『僕』と言います。

あとは手術のことで頭がいっぱいになった。「とにかく費用を稼がなくちゃ」。校内の廊下で得意の縦笛を演奏し、同級生や職員からチップを募る。1日30円のお小遣いは貯金した。

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中学、高校と進むにつれ、体は本人の意に反して女らしくなっていった。胸はさらしで締め付け、生理の日には壁に頭を打ち付けて泣いた。学生服のスカートが苦痛で、「今日も女装して学校に行くのか」とうめいた。

両親に打ち明けたのは、大学卒業の間際である。母親は焦ったが、「自分の産んだ子だからね」と受け入れてくれた。父親はそうはいかなかった。「おれより一秒でも早く死ね」「女らしくなるから強 姦されてこい」。動転が収まらなかったのだろう。父親は亡くなるまで虎井と折り合いはつかなかった。

卒業式の4日後、乳房を切除する手術のためニューヨークに向かう。その後も日米を行き来し、2年後の1989年、子宮摘出やペニス形成の手術をすべて終えた。日本で正式に性転換手術が始まる9年前のことだ。

600万円の費用は、その半分をクレジット会社からの借金で賄った。工場などで働き、13年かけて完済した。

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01年5月、虎井の体験談を読んで面会を求めてきた人がいた。テレビドラマ「3年B組金八先生」の脚本家、小山内美江子(80)だ。

79年に始まった人気シリーズは、校内暴力や引きこもりといった社会問題を積極的に扱ってきた。小山内は、このドラマで「性同一性障害」を取り上げようと思ったのだ。

理由があった。小山内の知り合いには、「女の人として暮らしたい」と母親に打ち明けた青年がいた。授業で男子の水着が着られないのが死ぬほど嫌という少女もいた。心と体が違うとはどういうことか、広く知ってもらいたい、小山内はそう考えていた。

脚本のモデルになってほしいという小山内に、虎井は「あのドラマなら、きっとまじめに描いてくれる」と快諾する。

完成したドラマでは、心は男子である女子生徒が転校してきて、級友たちと衝突を繰り返す。女子生徒は性同一性障害であることを告白し、最後はみんなの理解を得て「男として生きる」道に踏み出すのだった。

主役はデビューしたての上戸彩(25)で、男子と鼻血を出しながら殴り合う場面も演じた、後に上戸に会った虎井は「こんな可愛らしい女の子があんなにきつい役をするなんて」と驚いた。上戸はケンカの場面の撮影の後に泣いてしまったそうで、小山内は「本当によく頑張った」と今でも感心する。

虎井はドラマの出来に満足だったが、1カ所だけ納得できない場面があった。主人公が父親に胸を触られ、「キャーッ」と叫ぶところである。この場面は、自分の甲高い声を嫌った主人公がフォークでのどを刺してケガをする挿話につながるのだが、虎井は真顔でこう言うのだ。

「自分なら悲鳴なんかあげない。殴って逃げますよ」

ともあれ、ドラマの影響は絶大だった。精神科医のもとに、自分も女ではなく男なのだと訴える人が次々に訪れるようになった。いま虎井が講師をしている立教大学では、教え子の3分の2までが、このドラマで性同一性障害を知ったと答えている。
                            (渡辺周)

「ニッポン人脈記」男と女の間には(5) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」男と女の間には(5)

2010年9月13日(月)

第5回は、子どもがいる性同一性障害の当事者、森村さやかさん(50)と水野淳子さん(49)が登場。
大迫真美さん(54)は写真なし。

水野さんの取材は、第2回の圭子ママの直前だったので、取材が入っているのは知っていました。
なかなか良いお写真です。

う〜ん、それにしても、どうして子どもがいる性同一性障害の当事者がテーマだと「お涙頂戴」調になってしまうのでしょう?

「涙」で社会的理解を得ようという手法、私は好きではありません。
はっきり言えば「邪道」だと思います。

あっ、泣いている当事者を批判しているわけではありません。
泣いている当事者の写真をわざわざ使う新聞の問題です。

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ニッポン 人脈記 男と女の間には(5)
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パパもおっぱいあげたい
2003年の性同一性障害者特例法では、子持ちの人は戸籍の性別変更はできないとされた。

該当した一人に、奈良県生駒市の森村さやか(50)がいる。06年に手術を受けて男から女になったが、別れた妻との間に娘が1人いるため、戸籍の性別は変えられずにいた。

森村は男で有ることに子どもの頃から強い違和感があった。中学生の時には「おかま」からかわれと、暴力をふるわれた。同級生みんながいる教室で服を脱がされたこともある。

このままでは一生いじめられる。そう思った森村は「男らしく演技して」生き抜こうと決めた。本当の自分を悟られまいと、友だちとは距離を置いた。

大人になり、周囲の勧めで結婚もした。自分も夫としてやっていける。そう思ったが、森村の中で妻が「仲の良い友だち」以上になることはなかった。結婚生活が、きしんでいく。

妻には「あんた、おかまやろ」と言われたが、妻のいらだちも無理はない。森村は娘の養育費を毎月払うことを決め、離婚する。

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森村と同じ悩みを持つ人が関西にいた。兵庫県尼崎市の会社員、大迫真美(54)だ。

大迫も結婚して娘が1人いたが、やはり男であることの違和感が消えず、03年に離婚している。05年に手術で体も女になったが、特例法の「子なし要件」で戸籍の問題が残っていた。

06年11月、大迫は神戸家裁尼崎支部に、森村は奈良家裁に、戸籍を女性に変えるよう申し立てた。2人同時になるよう仕掛けたのは、特例法の制定に力を尽くした法学者、大島俊之(63)である。世論喚起を狙ってのことだった。

大島は「子なし要件」に反対だった。特例法は施行3年後に見直すことになっていたから、大島はその機をうかがっていたのだ。大迫と森村の訴えは最高裁で棄却されたものの、その過程で大阪高裁は特例法の見直し規定に触れて議論を促した。大島の読み通りだった。

この間、父親から「母親」になって我が子を育てつつ、この要件の撤廃に動いた人もいる。岐阜県羽島市の水野淳子(49)だ。

水野は中学生の時、男の体をした自分が嫌でたまらず、睾丸に針をさした。大人になって結婚し、2人の男の子をもうけたが、自分の体に嫌悪感は消えない。次男に授乳する妻を見て思った。「自分もおっぱいをあげたい」。切実だった。女性ホルモン投与を始め、離婚した。

10歳と8歳だった男の子は、水野が育てることになった。長男は「お母さん」、次男は「かあさん」と呼ぶようになる。ホルモン投与で胸は膨らんでいるが、下半身は男の水野と風呂に入ると、2人は「女の人なのにかわいそう」と言っていた。

高校生になった長男は、水野と連れ立って国会に赴き、特例法制定の中心になった当時の参議院議員南野知恵子(74)に要件撤廃を求める陳情書を手渡した。

特例法が改正されたのは08年6月、子どもが成人した後なら自分の性別を変えられることになった。水野は次男が成人すれば、大迫は大学4年生の娘が就職したら、届け出るつもりだ。

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森村も、娘の成人を待って、戸籍の性別を女に変えようと思っている。

最後に会ったのは離婚した頃、娘はまだ小学校に上がる前だった。映画に連れて行き、一緒に観覧車に乗った。

別れ際、娘が「パパ、次いつ会える?」と聞いてきた。

「お母さんの言うことを聞いて、いい子でいなさいよ。また会えるかもしれないから」

うそだった。髪を伸ばし、ホルモン療法を始めていた森村は、これ以上父親を演じることは無理だとわかっていた。

それからは白いビーズのブレスレットが娘とのよすがになった。最後の日、トイレに寄る娘に「パパ、ちょっとこれ持っといて」と渡され、なぜか返し忘れたまま手もとに残ったブレスレットだった。

最近、映画の「おくりびと」を見た。本木雅弘(44)演じる納棺師が、自分を捨てたと思っていた父親の遺体と向き合う場面で、森村は号泣した。私が死んでからでもいい、娘があんな風に会いに来てくれたら、どんなにうれしいだろう。

その時は、パパと呼ばれても構わない。
(渡辺周)


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