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「ニッポン人脈記」男と女の間には(4) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」男と女の間には(4)

2010年09月09日(木)

第4回は、法学者の大島俊之先生(63)と元法務大臣の南野(のうの)千恵子さん(74)が登場。

今のところ、至ってまともな展開です。

でも「GID特例法」制定に尽力した名無しの「精神科医」って誰でしょう?

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ニッポン 人脈記 男と女の間には(4)
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急げ 法の後ろだて
性転換は、原科孝雄(70)らによる1998年の手術をもって封印が解かれた。だがそれは医療面での話である。

「性同一性障害」の人たちには、もう一つ法律面での問題が残っていた。戸籍の性別が変えられないのだ。以前の性がついて回り、知られたくない人は保険に入るのも二の足を踏んだ。

原科らの手術に先立つこと15年、この問題で先駆的な論文を発表した法学者がいる。九州国際大学教授の大島俊之(63)で、性同一性障害と診断された人の性別変更を認めるよう訴えた。成人に達し、手術を受けており、変更を届ける時点で婚姻していないという3点を前提としていた。

大島は性同一性障害と法律の関係を研究していた。きっかけはたまたま目にしたフランスの判例に疑問を持ったことだ。手術で女から男になり、性別変更を求めた原告が訴えを退けられていた。

「本人が望んでいるし、国に不都合はないだろうに」。他の国を調べると、ドイツやスウェーデンなどには性別変更を認める法律があった。日本も認めるべきではないか――。

論文は、しかし何の反響も呼ばなかった。恩師から「未来がある若い学者が妙なものに手を出しやがって馬鹿野郎」としかられただけである。

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大島は99年、性同一性障害について初めて講演した。北九州市の会場に聴衆は2人だけで、男だったが女として暮らしている人と、熊本県から来た農家の青年だった。

講演のあと、主宰者を含めて4人で飲んだ。大島が熊本の青年に「何で聴きに来てくれたんですか」と尋ねると、青年は「兄が女になりたい、女になりたいと言うんです。どういうことか理解したくて」。

その後、何の話をしたかはよく覚えていない。居酒屋をはしごして明け方まで飲み、大島は青年をバス停まで送った。青年はバスに乗り込む際に言った。

「さっきは兄が生きているように話しましたが、実は納屋で首をつって死んだんです」

酔いが一気にさめた。それまで「後世、あの分野は大島が初めて手がけたと言われれば本望かな」と思っていた。そんな場合ではない、急がないと同じ悲劇画』日本中で起こる。翌日、大島は徹夜で文献をあさった。
2000年8月、大島は神戸であった「アジア性科学学会」で同志を得る。当時の参議院議員で、後に法相になる南野(のおの)知恵子(74)だ。最前列で大島の講演を聴いた南野は、終わると大島に歩み寄って言った。

「この問題は国会でやります」

南野は元助産師、1千人以上の赤ちゃんを取り上げてきた。助産師には出生証明書の性別を決める役割もある。大島の講演を聞いて、南野はふと思った。私が股間を見て男の子か女の子か判断した赤ちゃんが、自分は違うんだと後になって苦しんでいるとしたら――。

南野はさっそく動いた、翌月には自民党に性同一性障害の勉強会をつくる。大島が議員たちに説明することになった。

南野は大島に策を授ける。「政治家は長時間は聞いてくれないよ。話すのは5分で」。大島は内容を紙1枚にまとめ。性別変更を認めている外国の法律の翻訳を数十枚添えた。

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だが、議員の反応は鈍い。「何だ、おかまの話か」と言う人もいれば、南野が実際の性転換手術を映写すると顔をしかめて席を立つ人もいた。

2人はあきらめない。手術で男の体になった虎井まさ衛(46)や東京都世田谷区議の上川あや(42)、精神科医らも協力し、国会議員を説得に回った。

03年7月、戸籍の性別変更に道を開く性同一性障害者特例法が成立する。大島はその瞬間を国会で見守った。男から女になった人が一緒にいて、「先生のおかげです」と泣きながら言われた。落語が好きな大島は、笑顔でこう振り返る。「おれもやっと女を泣かせられる男になったか、というオチですね」

もっとも、これで一件落着となったわけではない。特例法は「子がいないこと」も条件にしていたからだ。性同一性障害の人でも子どもがいる場合があり、法案作成の時に異論が出ていた点の一つだった。改正に向けた動きが始まる。
                      (渡辺周)


「ニッポン人脈記」男と女の間には(3) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」男と女の間には(3)

2010年09月08日 (水)

第3回は、作家のなだいなださん(81)、元埼玉医科大学教授で形成外科医の原科孝雄先生(70)、そして精神科医の塚田攻先生(59)が登場。
虎井まさ衛さん(46)は、ちょっとだけ登場で、写真なし。

今回は、絵的に、とっても地味だなぁ(笑)

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ニッポン 人脈記 男と女の間には(3)
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本当のしあわせって?
がらんとした法廷に、検事の冷たい声が響く。
「信じられないですな。あんな手術で、人間が、ほんとうのしあわせを、えられるなんて」

性転換手術で女になった証人は、あきれ顔の検事に言った。
「私のしあわせは、ほんもののしあわせじゃない、と言うのですか」

なだいなだ(81)の小説「クヮルテット」の一場面である。1969年に実際にあった裁判をもとに、なだはこの小説を書いた。

産婦人科医が男性に性転換手術を施し、当時の優生保護法違反に問われたもので、俗にブルーボーイ事件という。手術を受けたのは男娼で、そうした人たちはブルーボーイと呼ばれた。医師は有罪になった。

なだは精神科医でもある。この小説は、慶応大学の先輩で精神科医の高橋進に頼まれて書いた。裁判で鑑定人を務めた高橋が「切実な問題なのに注目されない」と持ち込んだのだ。

なだは裁判を傍聴し、証人や被告の医師に会った。証人は若く美しい女性としか見えず、医師は穏やかで手術の腕もある人だった。何より手術は医師が頼まれてしたことで、誰かに恨みを買ったわけでもない。

「本人が幸せと言うならいいじゃないの。ほじくり返して罪に問うのが疑問だった」
なだはそう振り返る。

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判決は有罪だったが、画期的でもあった。手術前の調査や手続きが不十分だったとしながらも、性転換手術そのものについては「治療行為としての意義を認められつつある」とむしろ後押ししたのである。

ところが有罪という結論だけが広まり、性転換手術は違法だと避忌されるようになった。封印はそのまま二十数年も続く。

タブーを破ったのが、当時の埼玉医科大学で形成外科医をしていた原科孝雄(70)だ。きっかけを与えたのは、性転換手術を欲して原科を訪ねてきた一人の女性だった。

自分の体が嫌で仕方がない。高い声をかすれさせようと、のどに串を突き刺したこともある。女性は原科にそう訴えた。原科は、ある男性が事故で失ったペニスを再建したことがあり、女性はそこに望みを託していた。

海外で認められている手術が日本ではなぜいけないのか、実際に手術を受けた人はどんな思いでいるのか。原科は経験者ら5人を自宅に招き、話を聞いてみた。その一人で、米国で手術を受けて男の体になった虎井まさ衛(46)は言った。
「日本は暗黒時代ですよ」
「なんでも多様性」を信条としてきた原科は95年、埼玉医大倫理委員会に手術を申請する。
「患者は肉体の性と、頭脳の中のそれとの相違に苦しみ、自殺にまで追いやられる場合もある。暗黒時代とも言える。患者の福祉に役立つことを目的に女性―男性の性転換を行う」

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倫理委員会は12回の審議を重ねた。心と体の性の不一致に七転八倒する人がいる、だが心は変えられない――。96年7月の答申は「体の方を変えて悩みを和らげるのが正当」だった。

日本精神神経学会で治療のガイドラインづくりが始まった。メンバーの塚田攻(59)は、ブルーボーイ事件の裁判で鑑定人だった高橋の弟子である。高橋は94年に亡くなった。塚田は、この分野を引き継ぐのは大変だと渋ったが、苦しんでいる人たちに「私たちはどうなるの」と引き留められていた。

97年、ついにガイドラインができる。「自分の性が不快で、反対の性への同一感が強い状態が続いている」などと精神科医2人が認めれば「性同一性障害」と診断することを定めた。苦痛を面接で和らげる精神療法と、体を変えるホルモン療法を施し、それでもだめなら手術する。
その初の手術は翌年、原科たちのチームによって実施された。ブルーボーイ事件から30年余り、その手術で念願をかなえたのは、かつて原科を訪ねてきた女性だった。

小説か「クヮルテット」で、性転換して何が幸せなものかと鼻で笑う検事に、証人はこう問い返してもいる。
「検事さん、じゃ、ほんとうのしあわせって、どんなものなのでしょう」

人の幸せとは何か。裁判で本当に争われたのはそこだったと、なだは思っている。
                      (渡辺周)


「ニッポン人脈記」男と女の間には(2) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」男と女の間には(2)

2010年09月07日 (火)

第2回は、ニューハーフ業界の大先輩、いえ、正確には、1960年代の「和製ブルーボーイ」の最後の名花、カルーセル麻紀さん(67)とゴールデン圭子さん(70)の登場です。

大スター石原裕次郎との交友を語っているカルーセル麻紀さんは、ニューハーフ世界の大御所として一般にも有名ですが、圭子さんのメディアへの登場はおそらく40数年ぶりだと思います。

圭子さんは、現在、岐阜市の柳ヶ瀬でお店(シーラカンス)を経営されていて、私は、5月22日に『朝日新聞』の取材に同行して、お話をうかがうことができました。

以下は、その時、メモした圭子ママの略歴です。

昭和15年(1940)北海道札幌市の生まれ、高校1年生の時、体操部の先輩男子と初体験。

高校2年、16歳の時(昭和31年=1956頃)、先輩との同性愛関係が両親に発覚。
北海道大学医学部病院に連れていかれ、その紹介で、札幌市内の私立精神病院に強制的に入院させられます。
そして、入院中の約2か月間、ほとんど毎晩、「同性愛治療」のため電気ショック療法を施されます。

「このままではおかしくなってしまう」と思い、医師に「看護婦さんが好きになりました」と嘘を言って退院。

すぐに家出して、札幌のゲイバー「ベラミ」のママに匿ってもらい、そこで釧路から家出してきた徹男少年(後のカルーセル麻紀)と同僚になります。

昭和36年(1961)、札幌の個人病院で睾丸摘出手術を受け、仙台を経て上京。

東京恵比寿の「石井不二香バレエスタジオ」でダンサーとしての基礎を身につけます。

この間、豊胸手術を大阪で受けます。

昭和38年(1963)、浅草のストリップ劇場「浅草座」でデビュー。

和製ブルーボーイ「銀座ローズ(武藤真理子)」の妹分として、「ゴールデン圭子」「はるな圭子」の芸名で、「性転換ショー」や「金粉ショー」のダンサーとして全国各地を巡回します。

当時、巡業で後になり先になりした金粉ショーのダンサーに、若き日の李麗仙さんがいたそうです。

ダンサーを引退して、出身地の北海道札幌に戻り、1968年(昭和43)「すすきの」に「ゴールデンK」を開店。

北の都で17年間営業して、数多くのニューハーフを輩出し、昭和60年(1985)に閉店。

ちなみに「ゴールデンK」は、日本一有名な女装者「MR先生」こと宮崎留美子さんが、北海道大学の在学中にアルバイトをした店です。

その後、知人の紹介で岐阜の柳ヶ瀬に遷り、「シーラカンス」を経営して現在に至ります。

記事にもあるように、電気ショック療法は、毎晩、看護婦に頭に電極を付けられ、舌を噛まないようにタオルを噛まされ、「はい、ガチャ、バチッ!」

気を失って、そのまま眠ってしまい、朝起きると、記憶が一部、飛んでいるのだそうです。

圭子ママはインタビューの間、終始穏やかでやさしい話しぶりでしたが、話が電気ショックのことに及んだときだけは、温顔に怒りの表情がはっきり浮かび、それがとても印象的でした。

電気ショック療法は、当時の精神病院ではごく普通に行われていた「治療法」とはいえ、「同性愛治療」を名目に16歳の少年に2か月近くも施すのは、あまりに残酷です。

医学が治療を名目に、性的マイノリティに何をしてきたか?
圭子ママの体験談は、それをもう一度きちんと見直すべきことを教えているように思います。

* ブルーボーイ----- 1963年11月のパリの女装ショークラブ「CARROUSEL」の来日公演をきっかけに、主に1960~70年代に用いられた言葉で、身体を女性化した男性の意味。
ブルーボーイの業種はショービジネス関係(ダンサー)が中心で、飲食接客(ホステス)やセックスワーク(セックスワーカー)もいた。
現在のGID関係者が、ブルーボーイ=性転換娼婦とするのは偏見に基づく誤り。

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ニッポン 人脈記  男と女の間には(2)

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女ごころ 裕次郎が抱いた

上川あや(42)が東京都世田谷区議に当選する世の中は、突然訪れたわけではない。心と体の不一致に苦しみながら、自分の道を開いた先駆者がいる。

太平洋戦争さなかの1942年11月、北海道釧路市で一人の男の子が生まれた。父親は「アメリカと徹底的に戦う男になれ」と徹男と名付けた。後のカルーセル麻紀(67)である。

父の思いとは裏腹に、徹男は自分を「あたし」と言い、姉の服を好んで着るようになった。15歳で家を出ると、女装した男性が接待するバーを探して札幌の「ベラミ」にたどり着く。「心は女」が受け入れられ、生活の糧も得られる場所となると、それしかなかった。

全国のそうしたバーを転々、女版寅さんよろしく先々で恋をしたが、「相手はやっぱり本物の女を好きになった」。自分を振った男の服を切り刻み、睡眠薬で自殺を図ったこともある。

30歳で念願の女の体を得る。ペニスをとり、膣を造る性転換手術で、今では性別適合手術と呼ばれる。その頃の日本では御法度の扱いだったから、モロッコに行った。美形の元男性は話題性抜群、テレビが放っておかない。だが多くは際物扱いで、「化け物」というコメントを流す番組さえあった。悔しくてスタジオを飛び出したこともある。

そんな自分が多くの人を励ましていたことを知るのは、ずっと後年、50歳記念に開いたパーティーの時だ。男だったが女として生きている200人が全国から集い、麻紀の影響を口々に語った。ボスだ、いや先生だと麻紀は慕われることになる。

麻紀にきちんと接してくれたのが、俳優の石原裕次郎だった。テレビに出ながら勤めていた店に、客として来ていたのだ。

おかまと嫌われたらどうしよう。かねて大ファンの麻紀は初めこそ遠巻きに眺めていたが、3回目の来店で隣に座る。映画の話で意気投合した。

裕次郎のデビュー20周年パーティーの夜、貸し切りの渋谷のバーで2人で飲んだ。朝になり、日も高くなった頃、麻紀は酔いつぶれてしまう。目を覚ますと、自宅マンションに続く道で裕次郎に両腕で抱き上げられていた。

麻紀はあせった。白昼堂々、こんな大スターが自分を抱いて歩いていたら、週刊誌ざたになりかねない。道行く人はじろじろ見ている。でも裕次郎は笑って言った。

「お前、重てえな。あんまり飲み過ぎるなよ」

麻紀は裕次郎を人間として好きだった。裕次郎の方も同じだったと自分では思っている。元男性かどうかを気にするそぶりはまったく見せなかった。

麻紀の携帯電話は、裕次郎に肩を抱かれた写真が今も待ち受け画面になっている。

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札幌のベラミには麻紀のような家出組が何人かいた。仲間の一人が、少し年上の圭子(70)だ。

札幌生まれで、幼い頃は女の子とままごとばかりしていた。高校では化粧をし、男性を好きになった。「どうしても女になりたい」。驚いた両親が大学病院に連れていき、圭子は精神科病院に回されて入院となった。

頭に電気ショックを与えられる日々が始まる。舌をかまぬようタオルをくわえさせられ、頭を機械で挟まれて、ガチャッという音で気を失う。毎晩続いた。当時の日本は「性同一性障害」の理解が医学界でも追いつかず、心と体の性が一致しないなら心の方を何とかしようとする「治療法」だった。

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2カ月後、圭子は「看護婦さんが好きになりました。もう大丈夫です」と偽って病院を抜け出す。ベラミで働いた後、「おかまをやるより踊り子になりたい」と東京でバレエスタジオ通った。手術とホルモン療法を受けて体も女に近づけている。だが、来た仕事は下着一枚で踊る「性転換ショー」だった。

今は岐阜でスナックを開いている。男から女に変わった人を奇異に見る度合いは、昔ほどではなくなった。うらやましいと思いつつ、店の客には元男性だとは明かしていない。

「昔のことより今が大事だから。私は生まれてくるのが早すぎたんだわ」

今でも電気ショックのことを思い出すと悔しさに身震いする。体は変えても、心は変えない。まして誰にもいじらせない。      (渡辺周)

『朝日新聞』夕刊 2010年9月7日

「ニッポン人脈記」男と女の間には(1) [朝日新聞「男と女の間には」]

朝日新聞夕刊連載「ニッポン人脈記」男と女の間には(1)

2010年09月06日 (月)

『朝日新聞』夕刊の連載(1面の下方)「ニッポン人脈記」、前のシリーズの「イラク 深き淵より」が延びに延びて、なんと23回・・・。

ようやく今日から「男と女の間には」(渡辺周記者、近藤悦朗カメラマン)が始まりました。
こちらはたぶん全13回のシリーズだと思います。

第1回は、性同一性障害の世田谷区議会議員上川あやさん(42)と、その「親友」の野宮亜紀さん(46)。

すでに十分に社会的認知を得ている方から・・・、ということのようです。
たぶん回を重ねるごとに、怪しい人物が登場することになるような気がします。

それにしても、野宮さんの社会的身分(和光大学非常勤講師)が書いてないのが、ちょっと不審です。
それと、上川さんの痩せすぎが心配・・・・。

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ニッポン 人脈記  男と女の間には(1)
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見えない壁 突き破った
心は女なのに、男の体で生まれる人たちがいる。

2003年2月の朝、上川(かみかわ)あや(42)は東京都内の私鉄駅前に立つと、意を決してマイクに声を放った。

「私は女性として暮らしています。でも戸籍は男性です」

世田谷区議選が迫っていた。立候補を決めた上川は35歳、化粧をし、長い髪が赤いスーツの肩にかかっていた。通勤客がちらりと見ては、けげんな顔で改札口に急いでいく。

趣味で女装しているわけではない。小さな頃から心は女だった。兄も弟もボーイスカウト、父は隊長だったが、次男の上川だけは可愛い人形にひかれ、母と台所に立つのを好んだ。

中学生になると、変わる体と声が耐え難かった。鏡に映る裸は自分とは思えない。のど仏が嫌で、人に見られたくないと終始うつむき加減になった。

授業も上の空、でも国語の教科書にあった「山月記」はむさぼり読んだ。心は人間のまま虎になってしまった詩人の苦悩に、自分のそれが重なった。

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性の自己認識、いわば心の性と、体の性が一致しない。ジェンダー・アイデンティティー・ディスオーダー(GID)。日本では「性同一性障害」と訳されているが、これを「障害」と呼ぶことには異論もある。

当時は医学的には手探り、社会的には未知の段階だった。まして子どもの上川には何が起きているのかわからない。苦しさは片時も離れず、しかも誰にも言えなかった。

就職した公益法人で男性職員を好きになったが、思いはかなわない。私は同性愛者なのか。

新宿2丁目に行った。出会った同性愛者いわく「男が男を好きでもいいじゃないか。女になる必要はない」。彼らは自分の体には違和感がないらしい。それなら私とは違うと思った。

やがて上川は同じ悩みを抱える人たちの会を知る。心は男で体は女という人もいて、みんな自分の体に苦しんでいた。

そうか、心を体に合わせるのでなく、体を心に合わせればいいのか。上川はホルモン療法を始め、公益法人を辞めた。

健康保険証は性別が記されている。当事者の中には、それを見られたくないから病気になっても医者に行かない人がいた。自傷行為を繰り返す人もいる。

変な目で見られ、戸籍の性別も法律上変えられない。このままでいいのか。会の仲間と話を重ねるうち、「上川さん、区議選に出てよ」と声が上がった。

議員になるなど考えたこともなく、世田谷に暮らしているが地盤と言えるものはない。何より世間にすべてをさらす覚悟が要る。

迷う上川に選択肢を示したのが、四つ年上の親友、野宮亜紀(のみやあき)(46)だった。男の体で生まれ、女として生きている。野宮は、立候補する場合、しない場合の利益と不利益を語った。

動かなければ、世の中は変わらない。それでも女性として生きてはいける。ただ、つらい人生だよね。あっちゃん自身、それでいいのかな――。

上川は決意する。高校時代、告白を真っ先に受け入れてくれた母ばかりか、反対すると思っていた父まで応援してくれた。

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すべての少数派の声を届けたい。訴えて回る上川に、風は冷たかった。「おかまか」「どういう性器なんだ」と容赦ない。涙が出た。しっかりして、とスタッフが尻をたたき、野宮は「こんな重荷を一人に背負わせるのは忍びない」と気遣った。

だが街の空気は変わる。

演説をしていると、目の前のバス停で本に視線を落としている若い女性がいた。女性はバスに乗り込むと、窓越しに上川をまっすぐ見つめてきた。その唇が、ゆっくりと動く。

「が・ん・ば・れ」

5024票、72人中6位で当選した。翌朝、年配の見知らぬ女性が上川に声をかけてきた。

「世の中、捨てたもんじゃないわね」

少数派を囲む見えない壁と、そこから聞こえる小さな声に敏感でありたい。区議になった上川は、そう思い続けている。

性同一性障害の人は、この国で数万人に上るとも言われる。異端視が社会から消えないなか、それでも本当の自分を生きようとしている人たちがいる。

(このシリーズは文を渡辺周(まこと)、写真は近藤悦朗が担当します。文中敬称略)

『朝日新聞』夕刊 2010年9月6日
http://www.asahi.com/jinmyakuki/TKY201009060210.html


『朝日新聞』夕刊「ニッポン人脈記」「男と女の間には」シリーズ [朝日新聞「男と女の間には」]

『朝日新聞』夕刊の1面下方に「ニッポン人脈記」という長期連載コーナーがあります。

2010年9月、そこに「男と女の間には」というシリーズが全13回にわたって掲載されました。
記者は名古屋支局のの渡辺周さん、カメラマンは近藤悦朗さんです。

私は、縁あって企画段階(4月)から渡辺記者の相談に預かり、結局、最終回の紙面に登場することになりました。

掲載から2年が経過しても、いまだに「あの記事はよかったよ」「いい企画だった」と言ってくださる方がいます。
逆に、いまだに「なんでお前が出るんだ」「なんであんたがトリなんだ」と言い続けている人もいますが・・・。

そうした個人的な思い入れを除いても、このシリーズは、性同一性障害だけでなく、広い視野で性別越境者を取り上げた、とても良い企画だったと思います。

「現代の性」考える資料として全13回の紙面写真と、記事の書き起こしを収録します。

いらっしゃいま~せ [ご挨拶]

2012年9月14日(金)

「続・たそがれ日記」アーカイブ(性)にようこそ。

このブログは、「続・たそがれ日記」(2005年1月~2012年8月)の「性」に関わる記事のアーカイブとして、私の性社会・文化史研究(女装・男装、遊廓、赤線)、現代の性(トランスジェンダー、同性愛)を取り巻く諸問題などを収録していく予定です。

有用度が高く、キャッシュンが有る程度まとまったテーマから、少しずつアップしていくつもりです。

なお、「続・たそがれ日記」アーカイブとしては、以下のようなものがあります。

続・順子の着物大好き
http://junko-kimono.blog.so-net.ne.jp/
「続・たそがれ日記」アーカイブ(仕事)
http://zoku-tasogare-2.blog.so-net.ne.jp/
「続・たそがれ日記」アーカイブ(日常)
http://zoku-tasogare-3.blog.so-net.ne.jp/

いずれも建設途上ですが、ご参照ください。

また、2012年9月以降については、「続々・たそがれ日記」を、ほぼ毎日更新中です。
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/

それでは、よろしくお願いいたします。

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