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2009年03月11日 昭和初年の東北の遊廓(その2:経営規模) [性社会史研究(遊廓)]

2009年03月11日 昭和初年の東北の遊廓(その2:経営規模)

3月11日(水)

東北の遊郭の経営規模について、質問がありましたので、1軒あたりの娼妓数(括弧の中の数値)を計算してみました。

資料は、例によって、上村行彰著『日本遊里史』(1929年)所収の「日本全国遊廓一覧」です。

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【県別:1軒あたりの娼妓数の順】 
宮城県 14ヵ所  60軒 632人(10.53)
福島県 27ヵ所 115軒 651人(5.66)
山形県 25ヵ所 172軒 834人(4.85)
岩手県 18ヵ所  92軒 330人(3.59)
秋田県 10ヵ所  74軒 263人(3.55)
青森県 15ヵ所 147軒 460人(3.12)

【指定地別(娼妓数50人以上):1軒あたりの娼妓数の順】

1 宮城県仙台市小田原             32軒 271人(8.47)
2 山形県山形市(小姓町)           22軒 169人(7.68)
15 福島県信夫郡瀬上町              7軒 52人(7.43)
9 福島県北会津郡町北村            10軒 68人(6.80)
11 福島県福島市(一本杉)           10軒 61人(6.10)
13 秋田県秋田市保戸堂裏・鉄砲町(新地)  10軒 58人(5.80)
14 山形県米沢市                 10軒 56人(5.60)
12 岩手県盛岡市八幡町             12軒 59人(4.92)
3 山形県西田川郡鶴岡町            29軒 134人(4.62)
10 福島県西白河郡白河町            14軒 63人(4.50)
5 青森県弘前市北横町             25軒 104人(4.16)
6 青森県青森市大字長島(吉原)        22軒 95人(4.32)
8 秋田県山本郡能代港町新柳町        18軒 71人(3.94)
4 山形県飽海郡酒田町             32軒 105人(3.28)
7 青森家三戸郡小中野村大字小中野(新地) 36軒 81人(2.25)


【比較参考】
東京府浅草区千束町(新吉原) 228軒 2362人(10.36)
東京府深川区洲崎弁天町(洲崎) 183軒 1937人(10.58)
東京府豊多摩郡内藤新宿町(新宿) 56軒 570人(10.18)
大阪府大阪市西区(松島)      275軒 3725人(13.55)
神奈川県横浜市永楽町        36軒  747人(20.75)
神奈川県横浜市真金町        42軒 754人(17.95)  


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県別の数値から。
宮城県の1軒あたりの娼妓数(10.53人)が際立って多い。
2位の山形県のほぼ2倍、秋田県や青森県のほぼ3倍で、【比較参考】の東京の新吉原、洲崎、新宿遊廓とほぼ同じ値になっている。
仮に1軒あたりの娼妓数≒娼家の経営規模と考えれば(注)、同じ東北地方でも相当な格差があり、宮城県だけは東京並みということになる。

個別の数値では、単純に娼妓数で並べたランキングと同じく、宮城県仙台市の小田原遊廓が8.47人でトップ、2位も山形県山形市小姓町で変わりはない。
しかし、3~5位に福島県の遊廓が下位から上がってきている。
全般的に、南東北の遊郭の方が、北東北に比べて、1軒あたりの娼妓数が多い≒娼家の経営規模が大きい傾向があるように見える。

ちなみに、【比較参考】に挙げておいた東京の遊廓は、江戸時代以来の老舗の新吉原、明治期成立の洲崎、そして新興の新宿も、ほぼ同じ数値(1軒あたり10人強)になっている。

日本最大の遊廓である大阪の松島遊廓では、1軒あたり13~14人となる。
また、1軒あたりの娼妓数が多いのは、神奈川県横浜市の遊廓で、永楽町は1軒あたり20人を越え、あくまでも平均値だが、新吉原のほぼ2倍で、経営規模の大きな店が揃っていたことがうかがえる。

(注)娼妓と芸妓が混在している色街で、しかも芸妓が中心になっている場所では、1軒あたりの娼妓数≒経営規模という法則は成り立たない。

たとえば、京都市下京区の祇園甲部では、408軒に対して娼妓数86人で、1軒あたりの娼妓数は0.21人に過ぎない。



2010年05月08日 最小規模の遊廓、最果ての遊廓 [性社会史研究(遊廓)]

2010年05月08日 最小規模の遊廓、最果ての遊廓

5月8日(日)

上村行彰著『日本遊里史』(春陽堂、1929年)の巻末附録「日本全国遊廓一覧」の表をながめていると、「う~ん・・・」と唸ってしまうような「遊廓」がいくつかある。

たとえば・・・、
島根県八束郡美保関村中浦小路「美保関遊廓」 貸座敷1軒 娼妓2人

美保関は、長~く伸びる島根半島の最突端の小さな港町。
今でこそ、松江市に属し、対岸の鳥取県境港市から橋が架かっているが、以前は陸の孤島で、交通は事実上、船だけだった。

大学院生の時に陸路(バス)で「美保神社」に行ったことがあるので知っているのだが、昭和の初め、あんな辺鄙なところに1軒だけ貸座敷があり、たった2人の娼妓がいたのだ・・・。

と書いて、待てよ、と思う。
江戸時代、日本海航路(北前船)が盛んだった時代、美保関は中継港として大いに栄えたはず。
で、調べてみたら、やはり江戸時代には西日本有数の遊廓で、最盛期には村の人口の4分の1が遊女だったとのこと。

「貸座敷1軒 娼妓2人」は、かって繁栄を極めた美保関遊廓の最後の姿だったのだ。

次に、
佐賀県東松浦郡佐志村「佐志遊廓」 貸座敷2軒 娼妓1人

現在の佐賀県唐津市佐志で、唐津港から大島を挟んで北側の入江にある小さな港。

客は、漁師だろうか・・・。
それにしても、こんな所で、娼妓1人で2軒掛け持ちする意味はないと思うから、たまたま1軒の娼妓が欠員だったのだろうか。

でも、もっとすごいところが・・・。

北海道美国郡美国町大字澗 貸座敷1軒 娼妓1人
北海道紗那郡紗那村 貸座敷1軒 娼妓1人

これぞ、最小規模の遊廓、さすがは北海道と言うべきか・・・。

前者は、現在の積丹郡積丹町美国町。
積丹半島の突端に近い小さな港町。
やはり、船乗りの需要があったのだろう。

後者の紗那(しゃな)村は、現在の「北方領土」択捉島中部のオホーツク海に突き出した散布半島のあたりにあった村。
一応、択捉島第2の集落だが、村の人口は1426人(昭和15年=1940年の国勢調査)にすぎない。
もうほんとうの最果ての遊廓。

でも、港に漁船が入れば、けっこう稼げたのかも。
なにしろ「独占企業」だから。

いったい、どんな女性がそこにいたのだろう?
たぶん地元の人ではないだろう。
となると、根室の遊廓「梅ケ枝町」あたりから出張してきたのだろうか?
それとも、もっと遠くから流れ流れて、とうとう最果ての島へ・・・だったのか?

2011年05月14日 昭和初年の北海道の遊廓 [性社会史研究(遊廓)]

2011年05月14日 昭和初年の北海道の遊廓

5月14日(土)

成りゆきで、昭和初年の北海道の遊廓についても調べてみた。

なお、北海道に拠点都市の遊廓の開設年代については、以前、少し調べたことがある。
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-16-17

資料は例によって、上村行彰著『日本遊里史』(春陽堂、1929年)の巻末附録「日本全国遊廓一覧」。

この時代の北海道は、日本の他地域と比べて人口密度が圧倒的に希薄なので、遊廓の規模は、都市部のいくつかを除けば、おしなべて小さい。

娼妓100人以上の遊廓は、九州では17か所あるのに対し北海道には6か所しかない。
50人以上で切っても、東北地方ですら15か所あるのに北海道は10か所にとどまる。

なので、娼妓30人以上の指定地を掲げる

【指定地別ランキング(娼妓数30人以上)】

1 函館「大森」    67軒 366人( 5.46人)
2 札幌「白石」   32  314 ( 9.81人)
3 根室「梅ケ枝町」 21  196  ( 9.33人)
4 旭川「中島」   24  181 ( 7.54人)
5 室蘭「幕西町」  19  117 ( 6.16人)
6 釧路「米町」   14  100 ( 7.14人)
7 小樽「入船」   16   96 ( 6.00人)
8 小樽「手宮」   15   79 ( 5.26人)
9 帯広「木賊原」   7   71 (10.14人)
10 網走「北見町」   8   56 ( 7.00人)
11 厚岸         6   45 ( 7.50人)
12 旭川「曙」     7   43 ( 6.17人)
13 滝川         6   37 ( 6.17人)
14 苫小牧        6   32 ( 5.33人)
15 留萌         8   31 ( 3.87人)

函館「大森遊廓」と札幌「白石遊廓」(大正9年に「薄野遊廓」が移転)が抜けて大きい。
ただし、現在では人口規模も経済力も大きく差が開いている札幌と函館の地位が、この時代はまだ函館が上。

ただ、娼家の規模(貸座敷1軒当たりの娼妓の人数)は、函館「大森」より札幌「白石」の方がかなり(約1.8倍)大きい。

3位は道東の根室「梅ケ枝町」だが、道央の旭川が新旧の遊廓(「曙」が旧廓で、「中島」が新廓)を合わせると31軒224人で3位相当になる。
また小樽も「入船」「手宮」が色街として拮抗していたが、合わせると31軒、175人で5位相当になる。

以下、室蘭「幕西町」、釧路「米町」が100人以上、少し規模が小さくなり、帯広「木賊原」、網走「北見」など、それぞれに地域の開発拠点として早くに都市化(正確には町場化)した場所が続く。

さて、この時代の北海道の主要産業といえば炭鉱と漁業、とりわけ、日本海岸では鰊(にしん)漁が盛んだった。

炭鉱町には多くの鉱夫が、鰊漁の港には漁夫(ヤン衆)がたくさん集まるので、娼妓の需要があり、遊廓が栄えたかと思われる。

しかし、データで見る限り、どうもそうした傾向はあまり見えない。
上位ラインキングでは、6位の釧路は炭鉱町でもあったが道東の拠点としての性格が強い。15位の留萌も炭鉱町であり鰊の水揚げ港でもあったが、それだけくらいだ。

そこで、15位以下から炭鉱町を拾うと・・・、あまりない。

18 岩見沢   6軒  24人
26 歌志内  3   12
29 羽幌村   3   10

とても、大勢の鉱夫に応じられる規模ではない。
炭鉱主や幹部はともかく、一般の鉱夫の給料は、指定地の娼妓と遊ぶには不十分だったということだろうか。

では、鰊で賑わった日本海側の街はどうだろう。

20 岩内町        4   21
21 寿都村        3   21
22 瀬棚村        4   17
23 江差町「新地」    3   15
24 神恵内(かもえない)2   14
28 余市町        4   10
33 松前 「福山町」  2    7
35 増毛町        2    6
37 汐路村        2    4
39 磯谷村        1    4
47 古平町新地町     1    3

岩内、寿都、瀬棚などは町の人口規模に比べて遊廓が大きく、鰊景気の影響が認められる。
しかし、他はどうもあまりぱっとしない。

蝦夷地唯一の城下町の遊廓だった松前「福山遊廓」、北海道で有数の歴史を誇る江差「新地遊廓」の零落ぶりは哀れを誘う。
松前「福山遊廓」にいたっては、礼文島船泊と同規模にまで没落している。

調べてみたら、鰊漁の最盛期は明治30年代(1900年代)で、昭和初年(1930年頃)にはすでに漁獲量は半減し、鰊景気は去っていたようだ。

また、ニシン漁では、ほんの数日で親方たちは一年中遊んで暮らせるほどの大金を儲けたにしても、多くのヤン衆にまで、遊郭で遊ぶほどの金が回ったのだろうか?

そもそも、ヤン衆は、短期の季節労働者なので、遊廓を支える恒常的な客とはなり得なかった。

ということで、結論として昭和初期の北海道の遊廓は、やはり拠点都市集中型だったと思われる。
これは、開拓拠点に遊廓が形成されていった明治前半期の形態が、そのまま昭和初期にまで踏襲されているということだろう。

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【昭和初年の北海道の遊廓(娼妓30人以下)】

16 枝幸         5軒  29人
17 幌泉(えりも町)  5   26
18 岩見沢        6   24
19 森村         4   24
20 岩内町        4   21
21 寿都村        3   21
22 瀬棚村        4   17
23 江差町「新地」    3   15
24 神恵内(かもえない)2   14
26 歌志内       3   12
27 石狩町        2   12
29 羽幌村        3   10
30 利尻島鷲泊村     3   10
31 霧多布村       3    9
32 広尾茂寄村      3    8
33 松前「福山町」   2    7
33 礼文島船泊村     2    7
35 増毛町        2    6
36 紋別村        1    6
37 浜益村        2    4
37 汐路村        2    4  
39 深川村        1    4
39 静内下々片村     1    4  
39 磯谷村        1    4
39 浦河町        1    4
39 稚内町常盤通     1    4
39 標津郡標津村     1    4
45 利尻島鬼脇村     2    3
46 礼文島香深村     2    3
47 古平町新地町     1    3
48 虻田郡虻田村     1    2
49 美国町大字澗     1    1
50 択捉島紗那村     1    1
51 国後島泊村      1    0

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【参考:北海道の遊廓の開設時期】

安政5年(1858)函館「山ノ上遊廓」→ 明治4年(1871)「蓬莱町遊廓」→明治40年「大森遊廓」
明治4年(1871)札幌「薄野遊廓」→大正9年「白石遊廓」
明治6年(1873)小樽「金曇町(こんどんちょう)遊廓」明治14年「住之江遊廓」→明治29年「松ヶ枝遊廓」「手宮遊廓」
明治初年?   江差「新地遊廓」
明治9年(1876)根室「弥生町遊廓」→ 明治12年(1879)平内町→明治24年(1891)花園町
明治27年(1894)網走「北見町遊廓」
明治28年(1895)室蘭「幕西遊廓」
明治30年(1897)旭川「曙町遊廓」
明治31年(1898)帯広「木賊原(とくさはら)遊廓」
明治33年(1900)釧路「米町遊廓」
明治40年(1907)旭川「中島遊廓」

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【文献】

(学術論文)
星 玲子「北海道における娼妓解放令--函館地方を中心にして」
『歴史評論』 491号(1991.3月)
星 玲子「北海道における娼妓自由廃業--1900年前後を中心に」
『歴史評論』 553号(1996年5月)
星 玲子「近代公娼制度における賦金の実態について--1870年代の北海道を中心にして」
『総合女性史研究』 18号 (2001年3月)

(単行本)
小寺平吉『北海道遊里史考』(北書房 1974年)
木野 工『旭川中島遊廓』(光風社書店 1975年) → 短編小説集
平林正一・久末進一『聞き書 室蘭風俗物語』(袖珍書林 1986年10月)
谷川美津枝『ものいわぬ娼妓たち-札幌遊廓秘話-』(みやま書房 1984年11月)
山谷一郎『オホーツク凄春(セイシュン)記-雑草の女・中川イセ物語-』(講談社 1986年6月)

2010年03月19日 北海道の遊廓の開設年代 [性社会史研究(遊廓)]

2010年03月19日 北海道の遊廓の開設年代

3月19日(金) 曇り 札幌 5.5度 湿度 43%(15時)

北海道開拓記念館へ。
(中略)

ちなみに、近代の展示、「遊廓」関係の資料は皆無だった。
「子女の身売りはやめませう」のポスターはあったが・・・。

世界どこのフロンティア(開拓地)でもそうであるように、北海道開拓事業に従事した人は圧倒的に男性が多かった。
その男女の人口落差を埋めるために、大勢の娼婦たちが開拓の前線を追って進出していった。

その様子は、北海道に拠点都市の遊廓の開設年代をちょっと調べただけでも、道南・沿岸部から道央へという流れが明らかに見て取れる。

安政5年(1858)函館「山ノ上遊廓」→ 明治4年(1871)「蓬莱町遊廓」
明治4年(1871)札幌「薄野遊廓」
明治6年(1873)小樽「金曇町(こんどんちょう)遊廓」
明治初年?   江差「新地遊廓」
明治9年(1876)根室「弥生町遊廓」→ 明治12年(1879)平内町→同24年(1891)花園町
明治27年(1894)網走「北見町遊廓」
明治28年(1895)室蘭「幕西遊廓」
明治30年(1897)旭川「曙町遊廓」
明治31年(1898)帯広「木賊原遊廓」
明治33年(1900)釧路「米町遊廓」
明治40年(1907)旭川「中島遊廓」

例によって、そうした事実は、歴史の闇に封じ込められている。

(後略)

2011年05月08日 昭和初年の九州の遊廓 [性社会史研究(遊廓)]

2011年05月08日 昭和初年の九州の遊廓

5月8日(日)

ちょっと必要があって、昭和初年の九州の遊廓について調べた。
資料は、上村行彰著『日本遊里史』(春陽堂、1929年)の巻末附録「日本全国遊廓一覧」による。

【県別】 
長崎県 23か所 273軒 2247人( 8.23)
福岡県 10か所 169軒 1687人( 9.98)
沖縄県  1か所 516軒 1032人( 2.00)
熊本県  4か所  92軒  994人(10.80)
鹿児島県 1か所  23軒  402人(17.47)
佐賀県  6か所  78軒  317人( 4.06)
大分県  5か所  75軒  211人( 2.81)
宮崎県  6か所  22軒  152人( 6.91)

【指定地別ランキング(娼妓数100人以上)】
1 沖縄県那覇市「辻(チージ)」  516軒 1032人( 2.0人)
2 熊本県古町村「二本木」      64軒  763人(11.9人)
3 福岡県住吉町「新柳町」      47軒  636人(13.5人)
4 長崎県早岐村「田子の浦」     60軒  590人( 9.8人)
5 鹿児島県鹿児島市「沖之村」    23軒  402人(17.5人)
6 長崎県長崎市「出雲町」      22軒  370人(16.8人)
7 長崎県長崎市「稲佐」       22軒  291人(13.2人)
8 福岡県門司市「馬場」       17軒  250人(14.7人)
9 福岡県久留米市「原古賀」     21軒  244人(11.6人)
10 長崎県長崎市「戸町」       14軒  213人(15.2人)
11 熊本県八代町「紺屋町」      19軒  156人( 8.2人)
12 佐賀県北川副村「今宿」      17軒  140人( 8.2人)
13 福岡県大川町「向島」       19軒  130人( 6.8人)
14 大分県別府町「浜脇」       41軒  114人( 2.8人)
15 福岡県小倉市「旭町」       28軒  107人( 3.8人)
16 福岡県大牟田市「新地」      12軒  103人( 8.6人)
17 長崎県大村「田の平」        8軒  101人(12.6人)

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【比較参考】
東京府浅草区千束町(新吉原)   228軒  2362人(10.36)
東京府深川区洲崎弁天町(洲崎)  183軒  1937人(10.58)
東京府豊多摩郡内藤新宿町(新宿) 56軒   570人(10.18)
大阪府大阪市西区(松島)      275軒 3725人(13.55)
神奈川県横浜市永楽町        36軒  747人(20.75)
神奈川県横浜市真金町        42軒  754人(17.95)  

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(1)県別
長崎県がすべての項目で他を圧している。
アジア大陸への門戸としての海上交通の拠点という江戸時代以来の地理的特性を、昭和初期までは保っていた。
逆に言えば、長崎県の没落は、海外交通の手段が船から航空機に変わてからのこと。
2位の福岡県は予想通り。
3位に沖縄県が来るのは意外だったが、これは性の文化、遊廓の形態が九州本土とは異なる、特異性を保っていたからだろう。
4位の熊本県はともかく、5位以下の鹿児島・佐賀・大分・宮崎の4県は、やはり経済規模が小さいことがわかる。

(2)遊廓の規模(貸座敷軒数・娼妓人数)

那覇の辻遊廓(現:那覇市辻町)が516軒 1032人で、断然トップ。
この数字、ぴったり貸座敷1軒あたり娼妓2人。
おそらく、そういう制度だったのだろう。

貸座敷1軒あたり10人程度の娼妓を抱えるのが平均的な近代遊廓のあり方としては、きわめて小規模経営。
琉球王朝以来の伝統的な沖縄の遊廓の姿が、昭和初期までそのまま残っていたのだと思う。

続いて熊本の二本木遊廓(現:熊本市二本木)、福岡の新柳町遊廓(現:福岡市中央区清川)、長崎佐世保の田子の浦遊廓(現:佐世保市早岐)、鹿児島の沖之村遊廓(現:鹿児島市甲突町)と続く。

おもしろいのは長崎で、江戸時代からの老舗である丸山遊郭が衰退し、出雲町遊廓(現:長崎市出雲)、稲佐遊廓(現:長崎市稲佐町)、戸町遊廓(長崎市)が分立する。3か所を合わせると58軒874人となり、熊本の二本木遊廓を上回り第2位に相当する。

後は、門司の馬場遊廓(現:北九州市門司区東本町)、久留米の原古賀遊廓(現:久留米市原古賀町)、八代町の紺屋町遊廓(現:八代市本町)、佐賀の今宿遊廓(現:佐賀市今宿町)、大川の向島遊廓(現:大川市向島)、別府の浜脇遊廓(現:別府市浜脇)、小倉の旭町遊廓(現:北九州市小倉北区船頭町)、大牟田の新地遊廓(現:大牟田市新地町)、大村の田の平遊廓(現:大村市大里町田ノ平)など。

(3)娼家の経営規模

括弧内の数値は、貸座敷1軒あたりの娼妓数。

特有の形態だった沖縄の辻遊廓は別として、娼家の経営規模は九州各地でかなりばらつきがある。

トップは鹿児島市の沖之村遊廓で17.5人、続いて長崎市の出雲町遊廓の16.8人、同戸町遊廓の15.2人、門司市の馬場遊廓の14.7人が続く。

【比較参考】の東京の新吉原、洲崎、新宿遊廓は、だいたい10人強なので、それに比べて、九州で上位にランクされる遊廓の娼家の経営規模は、かなり大きいことになる。

なお、娼妓の人数を貸座敷の軒数で割って1軒あたりの娼妓数を算出し、それを娼家の経営規模と考える方式は、娼妓と芸妓が混在している色街で、しかも芸妓が中心になっている場所では、成り立たない。
1軒あたり2.8人という小さな数字が出ている別府浜脇遊郭がその典型。
3.8人の小倉旭町遊廓も、同様の事情だった可能性がある。

2009年03月09日 昭和初年の東北地方の遊廓 [性社会史研究(遊廓)]

2009年03月09日 昭和初年の東北地方の遊廓

他の記事のコメントで、山形市の遊廓のことが話題になったのがきっかっけで、東北地方の遊廓について簡単な調査をしてみた。

資料は、上村行彰著『日本遊里史』(1929年)所収の「日本全国遊廓一覧」で、指定地、貸座敷軒数、娼妓人数を抜き書きしてみる。
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【県別】 
山形県 25ヵ所 172軒 834人
福島県 27ヵ所 115軒 651人
宮城県 14ヵ所  60軒 632人
青森県 15ヵ所 147軒 460人
岩手県 18ヵ所  92軒 330人
秋田県 10ヵ所  74軒 263人

【指定地別ランキング(娼妓数50人以上)】

1 宮城県仙台市小田原             32軒 271人
2 山形県山形市(小姓町)           22軒 169人
3 山形県西田川郡鶴岡町            29軒 134人
4 山形県飽海郡酒田町             32軒 105人
5 青森県弘前市北横町             25軒 104人
6 青森県青森市大字長島(吉原)        22軒 95人
7 青森家三戸郡小中野村大字小中野(新地) 36軒 81人
8 秋田県山本郡能代港町新柳町        18軒 71人
9 福島県北会津郡町北村            10軒 68人
10 福島県西白河郡白河町            14軒 63人
11 福島県福島市(一本杉)           10軒 61人  
12 岩手県盛岡市八幡町             12軒 59人
13 秋田県秋田市保戸堂裏・鉄砲町(新地)  10軒 58人
14 山形県米沢市                 10軒 56人
15 福島県信夫郡瀬上町              7軒 52人

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まったく意外だったのは、県別集計で、山形県が貸座敷軒数、娼妓人数ともに、圧倒的にトップだったこと。

さらに、個別集計では、1位こそ(予想通り)宮城県仙台市の小田原遊郭だったが、2位(山形市)・3位(現:鶴岡市)・4位(現:酒田市)に山形県の遊廓が入っているのも、驚きだった。

貸座敷軒数や娼妓人数、つまり、遊廓の規模、盛況については、いろいろな要素が絡み、単純ではないが、やはり基本的にその地域の総体的な経済力を反映してとうに思う。

正直言って、現在の山形県、あるいは山形市のイメージから、この結果は予想できなかった。
(山形関係者の皆さん、ごめんなさい)。

2007年03月05日 さくらん極彩色絢爛展 ― めくるめく花魁の世界 ― [性社会史研究(遊廓)]

2007年03月05日 さくらん極彩色絢爛展 ― めくるめく花魁の世界 ―

3月5日(月) 曇りのち風雨 東京 20.6度 湿度 62%(15時)

9時半、起床。

朝食は、トースト1枚、生ハム3枚、それにコーヒー。

シャワーを浴びて、髪をお団子にまとめる。

「日記(4日分)を書く。

12時半、仕事場に移動。

すぐに身支度。
夕方から風雨の予報なので、雨仕様。
薄紅色の滝縞の会津木綿。
黒地に銀の鱗の帯を角出しに結ぶ。
深草色にカタバミ柄の半襟をつけた黒地に更紗模様の長襦袢(紫織庵)。
帯揚は、若草色。
帯締は、濃い草色(福福堂)。
黒のカシミアのショール。
赤地に麻の葉模様の鼻緒の下駄。

14時、渋谷へ。
風が強く、雨がぱらつき出す。
センター街を抜け、スペイン坂を上り、「パルコ3」へ。

映画「さくらん」(蜷川実花監督)公開記念 「さくらん極彩色絢爛展 ― めくるめく花魁の世界 ―」を見る。

実際の撮影に使用されたセットを持ち込み、色とりどりの衣裳・小道具とともに映画の世界を再現した展示。
全体的になかなか良くできている。
ライバル花魁同士の部屋が近すぎるのは、セットならではのご愛嬌。
しかし、史実的にはこれほど極彩色だったのだろうか?
人工(化学)塗料が使える現代と、天然の顔料・染料しか使えなかった江戸時代とでは、発色がかなり違ったはず。
まあ、蜷川実花の世界、こういう指摘は野暮だろう。

会場、若い女性がほとんど。
原作『さくらん』(安野モモコ著 講談社)の読者や、主演の土屋アンナのファンなのだろう。
遊廓映画と若い女性という組み合わせ、一昔前ならほとんど考えられない。

過去の遊廓映画は、ほとんど例外なく、遊廓に「身を沈めた」女たちの悲しさ、哀れさ、そしてエロスを描いてきた。
女性は常に、男の欲望の対象として、男に翻弄される客体だった。
今回の「さくらん」は「てめえの人生、てめえで咲かす」というキャッチコピーのせりふのとおり、遊廓を舞台にのし上がっていく女の物語で、女性が主体。

そこらへんが、現代の若い女性には「かっこいい」と映るのだろう。

実際の遊廓には、両面があったはず。
ところが、今までは、性的客体としての遊女の悲惨な境遇ばかりが強調され、貧しく低い身分に生まれた美貌と才智に恵まれた女性が、身分上昇(出世)をはたす唯一の手段(回路)としての側面(成功率は高くはなかったが)が、見逃されがちだったように思う。

会場を出たところで、花魁の衣装を着たモデルさんとのツーショットサービスをやっていた。
係員に「どうぞ」と言われて、断る理由もないので撮影。
でも、私、花魁とツーショット撮って喜ぶ趣味はないな、と思う。
花魁の格好して写真を撮られる趣味はあるけど。

それに、つい最近、抜群に美形の私好みの花魁を間近に見てるし・・・・(←どこで?)

2009年06月27日 鈴木ナミ『哀愁の田町遊廓 浜田楼』 [性社会史研究(遊廓)]

2009年06月27日 鈴木ナミ『哀愁の田町遊廓 浜田楼』

6月27日(土) 晴れのち曇り 東京 31.8度  湿度 48%(15時)

書い置きしておいた鈴木ナミ『哀愁の田町遊廓 浜田楼』(2005年5月 文芸社)を読む。

娘時代、東京八王子市役所に勤務していた筆者が、納税業務を通じて出会った浜田楼の楼主夫妻をはじめ田町遊廓の人々の思い出を記したもの。
調査記録ではなく、年次に明らかな記憶違いがあったりするが、戦中・戦後の八王子・田町遊廓の状況を伝えている。

浜田楼の楼主の家で女中をしている「じゃがいものような顔をしている」おばさんが、元は浜田楼でナンバーワンの売れっ妓の遊女「玉虫」だったことを知って驚く筆者に、おばさんが「そんなにびっくりしないでよ。『明眸皓歯、色あせて、春や昔の夢ならん』て言うでしょう。(中略)私の色香に迷って犬でさえ、尾を振ってついてきたんだから」と言うシーンが印象的。

ちなみに、この「玉虫」さん、越後の産。
戦前の遊廓では、越後の女性の評価が高かったが、これもその一例。

また、クロブタ先生とあだ名されていたブ男の歯科医が、患者の美しい遊女と恋仲になり、身請けして、歯科医院を閉めて信州の田舎に帰った話もジーンとくる。


2006年03月12日 前田豊『玉の井という街があった』 [性社会史研究(遊廓)]

2006年03月12日 前田豊『玉の井という街があった』

3月12日(日) 曇り 強風

前田豊『玉の井という街があった』(立風書房 1986年12月)を読む。

永井荷風の『墨東綺譚』(「墨」はさんずい)で名高い戦前の私娼窟玉の井を再現しようとした労作。

「ラビラント」と呼ばれた曲がりくねった細い迷路のような路地で知られる私娼窟玉の井は、大正12年(1923)の関東大震災で壊滅した浅草十二階下の「銘酒屋」街が集団移転したことから実質的に始まる。

その歴史は、昭和20年(1945)3月10日の大空襲で灰燼に帰すまでのわずか20数年間にすぎない。
戦後焼け残った隣接地区に再建された「赤線」玉の井の時代(1946~1958)を加えても35年ほどである。

しかも、公娼街である新吉原、洲崎、新宿、千住などと異なり、公には存在しないことになっていた私娼窟であるだけに、記録に乏しく、『墨東綺譚』のイメージばかり先行して実態は案外わからない。
本の帯に「幻の私娼窟」とあるのも、うなづける。

著者は、文献に加えて1985年という時点で可能な限りの聞き取り調査をしており、娼婦の自身の聞き取りはないものの、経営者から聞き取りがなされているのはとても貴重。
聞き取りがもう10年早ければと惜しまれる。

ところで、荷風の『墨東綺譚』は昭和11年9月20日に起稿、10月25日に脱稿しているが、構想を得るための玉の井通いは、昭和11年3月31日に始まり、脱稿までの約半年間に32~33回ほどだそうで、平均すると月に5~6回ということになる。
もっと入り浸っていたのかと思っていたがそうでもない。
ただ荷風がこの年58歳であったことを考えれば、ご精励と言うべきかもしれない。

ちなみに、荷風が足繁く通った相手、つまり『墨東綺譚』のヒロインの「お雪」のモデルは、著者の調査でも不明だそうだ。

2005年12月08日 一瀬幸三『新宿遊郭史』 [性社会史研究(遊廓)]

2005年12月08日 一瀬幸三『新宿遊郭史』

12月8日(木) 晴れ 

一瀬幸三『新宿遊郭史』(新宿郷土会 1983年10月 部分コピー)を読む。

自費出版のようだが、新宿遊廓の通史としては唯一のもの。

遊廓時代の実際を知る人が、まだかろうじて残っている時代の編纂で、今となっては貴重な文献だ。新宿遊廓の「モダン化」(客室の洋風化、娼妓のモダンガール化、ダンスホールや食堂の併設)が1930年(昭和5年)に始まったことが詳細に記されていて、興味深い。

ただし、戦後の赤線時代のことは、ほとんど記されていないのは残念。

ちなみに赤線廃止後の旧指定地域について、1962年頃にヌードスタジオが12軒もあって、都内一の集中度だったことが記されているが、ゲイバーの進出についての記載はまったくない。
この点も「ゲイタウン」の成立時期を考える上で重要。

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