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2005年3月1日 東京のニューハーフ・ヘルス(1999年) [性社会史研究(性別越境・全般)]

2005年3月1日 東京のニューハーフ・ヘルス(1999年)

3月1日(火) 曇り

10時半、起床。

朝ご飯の後、久しぶりに「江戸〜東京における男色文化の地域性」についての資料メモ作り。
この1週間ほど校正騒ぎで、まともな研究作業ができなかったので、なんだか楽しい。

いろいろ調べていて、1999年段階の東京都内で、いわゆる「ニューハーフ・ヘルス」でセックスワーク(フーゾク産業)に従事しているニューハーフは、だいたい90人前後と推定できることがわかった。

これには、外国系のニューハーフのストリートガール(街娼)は含まれていないが、意外と少ない印象。
女性のセックスワーク従事者の推定数はわからないが、おそらくその100分の1くらいではないだろうか?

地域的には、台東区(鶯谷)を除くと、豊島区・新宿区・中野区・渋谷区・目黒区という具合に、東京区部の西側に集中している。

こんなことを調べて、何になると言われると、困るのだけど、都市の風俗という点では、やはりなにか意味があると思う。

2006年09月23日 陰間茶屋の地方分布 [性社会史研究(陰間)]

2006年09月23日 陰間茶屋の地方分布

9月23日(土) 晴れ 東京 24.4度 湿度 44%(15時)

14時、起床(仕事場)。

朝昼ご飯は、コンビニのサンドイッッチとコーヒー。

メールチェックの後、少し調べもの。
地名を調べているのだが、2つほどどうしても、ネットではヒットしない。
書架の奥から地名大辞典を引っ張り出して、表記が違っていることに気づき、やっと解決。
紙屋→神谷(かみや)、禿→学文路(かむろ)だった。

調べていたのは、江戸時代中期の陰間茶屋の地方分布。
明和五年(1768)刊行の『男色細見 三の朝』によると、三都(江戸、京、大阪)以外の地方にも陰間茶屋があったことが記されている。

列記すると、
尾張名古屋、駿河府中、伊勢古市、相模伊勢原、下総銚子、紀伊三日市、同禿宿、同紙屋宿、備中玉島、同宮内、安芸宮島、讃岐金毘羅
となる。

この中、名古屋、府中(静岡市)、仙台、会津(会津若松市)などは、大大名もしくは幕府直轄の城下町で三都に次ぐ主要都市。

銚子、玉島(倉敷市)は港町。

古市は伊勢神宮の、三日市、禿宿(学文路)、紙屋宿(神谷辻)は高野山の、宮内は吉備津神社の、伊勢原は大山(石尊権現)の参詣の人々にぎわった街。宮島、金毘羅などと合わせて門前町が目立つ。
これらの街は、寺社参詣後の「精進落し」の場として、遊女屋があった場所だが、それに混じって陰間茶屋もあった。
「精進落し」の遊興にも、「女色」と「男色」がちゃんと用意されていたことがわかり、とてもおもしろい。

このほかにも、芝居とともに地方を廻ったり、街道筋を移動しながら稼ぐ「飛子」と呼ばれる陰間がいた。
「男色」の場は、大都市に限られたものではなかったのだ。





2010年02月24日 戦後の男娼関係資料の整理 [性社会史研究(女装男娼)]

2010年02月24日 戦後の男娼関係資料の整理

2月24日(水) 晴れ 東京 7.6度 湿度 19%(15時)

12時、起床。

シャワーを浴びて、髪をポニーテールに結ぶ。

朝昼ご飯は、ガーリックフランス、生ハム、オニオンスライス、きゅうり、それにコーヒー。

今日は、原稿が上がったので、のんびり過ごすことにする。

午後、日差しの暖かなベッドに横になって、本を読む。
ああ、こんなのんびりした気分、いつ以来だろう。

ところが、1時間ものんびりしていられない。
なんて、貧乏性なのだろう(嘆)

部屋の片づけ(資料探し)をして、次の仕事に取りかかる。

数年前、国会図書館に複製が所蔵されている「プランゲ文庫」でコピーしたまま放置していた戦後の男娼関係の資料(主にカストリ雑誌の記事)を整理する。

夕方まで、3時間ほど、コピーの山と格闘。

まず、東京(ほとんどが上野)と大阪とを分別する。
大阪の男娼記事は、意外に多く11本もあった。
ほとんど「旭町」(大阪市阿倍野区旭町)だが、これはこれで十分に分析対象になる。

次いで、東京の男娼記事を、昭和22~23年(1947~48)と昭和24年(1949)とに分ける。
これは、昭和23年11月22日夜に起こったいわゆる「上野男娼警視総監殴打事件」の前後で、メディア(カストリ雑誌)の男娼に対する扱い(注目度)がまったく違うため。

注目されて、おもしろおかしく書きたてられる以前の記事の方が、信頼度が高く、より実態を伝えていると思うので。

事件以前の記事は、24本ほど。

なお、この事件について、詳しく知りたい方は『女装と日本人』179~183頁、もしくは下記のサイトをどうぞ。
「日本女装昔話14 警視総監を殴った男娼『おきよ』」
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_14.htm

最後にルポルタージュと小説を分ける。
これが難しい。
「実録小説」とか「記録小説」とか、創作か実録(ルポルタージュ)か、いったいどっちなんだ?

ちなみに、ベストセラーとなった『男娼の森』(日比谷出版 1949年4月)の著者角達也は、すでに1946年末に「飢餓と淪落の生態-上野に拾う職業諸相-(『旬刊ニュース』32号:上野へ行く 1947年1月15日号 東西出版社)という、昭和21年(1946)晩秋の上野の詳細なルポルタージュを書いている。

また、1950年代の男色世界の優れたルポルタージュである『ゲイ』(東京書房 1958年)の著者富田英三が、このテーマに手を染めたのは「女装の男たち-東京の夜の一章節-」(『ホープ』3巻12号 1948年12月)だったようだ。

19時、やっと仕分けとリスト化を終える。

夕食は、豚肉とほうれん草のしゃぶしゃぶ(常夜鍋)。

久しぶりに仲良し姐さんに電話。

電話の後、いつものパターンで、そのまま眠ってしまう。
電波の状態が良いベッドでかけるせいもあるのだが、やはり声を聞くと気持ちが和むのだと思う。

3時間ほど熟睡。

1時、目が覚めて、お風呂に入って、髪を洗う。

夜中、「日記(22・23・24日分)を書く。

就寝、5時。

2009年07月02日 「エム・バタフライ」モデル、逝く [性社会史研究(性別越境・全般)]

2009年07月02日 「エム・バタフライ」モデル、逝く

7月2日(木)
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「エム・バタフライ」モデル死去 女性に扮し機密入手

【パリ=飯竹恒一】
女性になりすましてフランスの外交官に接近し、機密を入手したスパイ罪で1986年に禁固6年の有罪判決を受けた中国人京劇俳優・時佩璞氏が6月30日、パリの自宅で死亡したとAFP通信が伝えた。70歳だった。

北京の仏大使館勤務だった外交官ベルナール・ブルシコ氏と64年に出会った。女性と思わせて愛人関係に持ち込み、翌年に子供が生まれたと信じ込ませるほどだった。ほれた弱みにつけ込み、外交機密文書を流させ続けた。

83年にパリでブルシコ氏とともに逮捕されてようやく男性だったと悟られたという。有罪判決後の87年、当時のミッテラン大統領によって恩赦された。

舞台劇やデビッド・クローネンバーグ監督による映画「エム・バタフライ」(93年)の題材となったことでも知られる。

『朝日新聞』2009年7月2日11時2分
http://www.asahi.com/international/update/0702/TKY200907020097.html
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「最高の女装スパイ」と言われた人が、世を去りました。
フランス外交官に、女性として接近し、性的関係を持ちながら、20年近く男性であることを悟らせなかったテクニックは、まさに驚異です。

私は、彼が身に着けていたすぐれた女装&性的テクニックは、中国の「相公(Xiang-Gong シャンコン)」のそれだと睨んでいます。

そうだとすると、中華民国成立(1911年)とともに禁止されたはずの「相公」の伝統が、中華人民共和国(1949~)でも、少なくとも文化大革命期(1966~)までは、生き残っていたことになり、その点でも興味深いものがあります。

ちなみに「相公」は、中国の清代に盛んだった職業的女装者で、女装して酒席に侍り、芸能を行い、性的サービスもおこなうという点で、日本の江戸時代の「陰間」とよく似ています。

2008年09月17日 幻の女装・性転換小説:なかにし礼「華麗なる遍歴」 [性社会史研究(性別越境・全般)]

2008年09月17日 幻の女装・性転換小説:なかにし礼「華麗なる遍歴」

9月17日(水)
著名な作詞家であり、直木賞作家でもある、なかにし礼さん(1938年~) の初期の小説に「華麗なる遍歴」という作品がある。

性転換者の「日記」を、同級生の男性が紹介する形式で、女装・性転換をメインテーマに、サド・マゾやマリファナなど、当時の新風俗も取り入れた異色作だった。

しかし、「なかにし礼オフィシャルサイト」の「年譜」や作品リストにも、この小説についての記載はない。
http://www.nakanishi-rei.com/

国会図書館の所蔵リストや、古書店のデーターベースなどを検索してもヒットしないことから、少なくとも同名の単行本は、刊行されなかったものと思われる。

数年前に、ある先輩女装者から、この小説について「お持ちではないですか?」と尋ねられたことがある。
残念ながら、手元には連載3回分(12・17・最終)の切抜きしかなく、私にとっても幻の女装・性転換小説だった。
それでも、3回分だけをコピーして差し上げたら、「懐かしい」ととても喜んでくださった。

各回に付されている「はじめて読まれる方へ」によると、こんな粗筋だったらしい。

「中学の同級生戸田みのるに会ったのは、雨の銀座だった。彼は女装して見事な女になっていた。彼のアパートを訪ね、その告白を聞いたとき、性転換者の苦悩ともいうべき、自然にさからった人間の姿を見る思いだった。そして、彼がさし出した日記には、それぞれ標題がつけられていたが、内容は彼が異常な人間として自覚し、目覚めていく過程が克明に記録されていた」(第12回)

「15歳のとき、暴行で女と男を同時に知った彼は、その後、正常な道を進むことができなかったのである。彼は自分の体験を克明に記した日記をつけていた。第1冊『異臭の屍』は彼の初体験を、第2冊『薔薇埋葬』はゲイとしての生活を、そして、第3冊『部落の祭典』は倒錯した性のグループに入り、マゾとサドの経験を。さらに、マリワナの魔力に魅せられる過程を描いたのが、第4冊『夢幻の世界』だった。そして第5冊『夜光虫』につづく、第6冊『変身』は・・・・。」(最終回)

ところで、この小説の連載誌、連載年については、今までまったく検討したことがなかった。
そこで、改めて調べてみた。

連載誌は、誌面の特徴から、おそらく『週刊実話』だと思われる。

問題は、連載された時期なのだが・・・。
最終回に「最新刊」として広告が出ている遠山照彦著『診療所のある村―お医者さまと駐在さんの愉快な話』(波書房)という本が 1968年の刊行であることが判明した。

また、最終回の裏面の「今週の運勢」の頁が「8月23日から9月5日まで」となっているので、最終回の掲載は、おそらく1968年8月中旬のことと思われる。

最終回が何回に相当するのか、わからないが、第12回の裏面の野球に関する記事から、6月上旬だと推測される。
12~15回が6月、16~19回が7月掲載だとすると、8月を2~3回分とみて、全体の連載回数は21回もしくは22回ではないだろうか。
同じように考えて、8~11回が5月、4~7回が4月掲載と推定され、連載開始は3月初めだったと思われる。

残念ながら、この期間の『週刊実話』は、国会図書館も大宅壮一文庫も未所蔵で、現物に当たって確認することができない。

1968年という年は、ヒッピー、ハレンチ、サイケデリックなどが流行語になった「昭和元禄」と呼ばれる享楽的な世相の時代だった。
3~5月頃には、滋賀県雄琴温泉の女装芸者「よし幸」の性転換が週刊誌の話題になり、4月には丸山明宏が妖艶な女装姿で主演した『黒蜥蜴』(江戸川乱歩作、三島由紀夫脚本)が大ヒットとなった。
また、3人の女装男娼に「性転換手術」を行い、1965年10月に優生保護法28条違反で摘発された青木正雄医師の裁判(「ブルーボーイ事件裁判」)が進行し、注目を集めていた時期だった(翌年2月有罪判決)。

小説では、4月に女装、レズビアン、フェティシズムなど倒錯の性を描いた梶山季之『苦い旋律』(集英社)が刊行されている。

「華麗なる遍歴」は、そうした社会状況を背景にした作品で、1965~70年の「第2次性転換ブーム」の一翼を担うものだった。

ちなみに「年譜」によれば、なかにし礼氏は、この小説の連載が始まる1968年3月に離婚しているが、同年12月31日に「天使の誘惑」(黛じゅん)で日本レコード大賞を受賞し、作詞家としての地位を不動のものにした。

【お願い】
なかにし礼「華麗なる遍歴」について、何かご存知の方がいらっしゃいましたら、コメントをいただけると、たいへんうれしく存じます。

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【追加考証】
連載第12回の裏面に野球に関する記事が載っている。
その中にある記述を検討してみると、以下のようになる。

「村山が5敗目を記録した」「(開幕から)1勝も記録できない」
阪神タイガースのエース村山実投手が、前半戦不調で、6月には右手首炎症のため休養したのは1968年。

「田中勉(中日)」
中日ドラゴンズに在籍したのは、1968・69年の2年だけ。

「小玉三塁手を(阪神)に連れてきた」
小玉明利が、近鉄バッファローズから阪神タイガースに移籍したのは1968年(在籍は1969年まで)。

「朝井三塁手の広島移籍」
阪神タイガースの三塁を守っていた朝井茂治が広島カープに放出されたのは、1968年のこと(在籍は1970年まで)。

記事は、村山投手の不調の原因を、阪神タイガースの三塁手が、村山が信頼する朝井から、守備範囲の狭い小玉に変わったため、と推測しているので、その移籍が行われた1968年に書かれた記事であることが、ほぼ確定的。

現在、判ったことをまとめると、以下のようになる。

作品名:華麗なる遍歴
作者:なかにし礼
分類:小説
内容:男性から女性への性転換者の「日記」をベースにして1960年代末の「倒錯の性」を描く。
連載誌:週刊実話
連載期間:1968年3月?~8月
連載回数:21、もしくは22回
単行本:未刊行

2008年02月25日 女装男娼の養成所「オカマ学校繁昌記」 [性社会史研究(女装男娼)]

2008年02月25日 女装男娼の養成所「オカマ学校繁昌記」

2月25日(月) 晴れ  東京 8.0度 湿度 19%(15時)

東急東横線、東京メトロ日比谷線、同有楽町線を乗り継いで、永田町駅で下車。
久しぶりに国会図書館へ。

15時過ぎから18時過ぎまで、3時間ほどリサーチ。
まず、新聞記事(現代)3本、論文3本をコピー。
その後、『内外タイムス』1954年5~8月のマイクロフィルムを調査。

『内外タイムス』は、現代にたとえるなら『日刊ゲンダイ』や『夕刊フジ』をもう少し卑俗にしたような新聞。
まともな研究者は相手にしない資料だが、一般紙では把握できない性風俗関係のおもしろい情報がたくさんあり、以前から暇を見ては調査している。
今日、調査したマイクロフィルムも、フィルムの端の状態からして「初(うぶ)」(まだ誰も見ていない状態)だった。

興味が向くまま17本ほどの記事をコピー。
その中で、私の専門分野(女装、男装、男娼、同性愛)に関わるものが8点、買売春(赤線、青線、街娼、売春防止法)関係8点、その他1点(山窩)。

一番、興味深い記事は「オカマ学校繁昌記」(『内外タイムス』1954年7月6日号)。
東京都台東区にあった女装男娼の養成所のルポルタージュ記事。

先生は校長以下4名、生徒は21名。

生徒の年齢は、15歳から45歳(平均年齢28~29歳)、前歴は会社事務員、鉄道員、郵便局員、キャバレー、バーのバーテン、ボーイ、学生、進駐軍キャンプのハウスボーイ、ドサ回りの訳者など。
学歴は、小卒50%、中卒30%、高卒15%、大学中退5%。

授業の課目は以下の通り。
第1課「お化粧」
第2課「和服、洋装の自然な着こなし方」
第3課「声の出し方」
第4課「男娼の心構えと方法(テクニック)」

修学期間は全部通じて1ヵ月半(40~50日)。
修了間近の頃になると「動作が完全に色っぽくなり、付近の風呂屋にへ行っても流し場でペタッと尻をつけたりして女らしさが身についてくる」という。

「化粧」は「普通で一人前になるのに最低1ヵ月の期間を要する」、「着こなし」についても「1ヵ月以上掛からないと“女らしく”なれず、ぎすぎすしたところが目立つ」とされているので、階梯式ではなく、各課目、同時並行だったらしい。

卒業後は、上野、新橋、浅草、吉原、日比谷、丸の内、新宿、高橋(江東区)などの夜の街角に就業していく。

当時の女装男娼の一晩の稼ぎは、外国人相手専門の「洋パン」で3000~10000円。
日本人相手でも、「名士、会社重役芸能家など」上客をつかんでいる者は平均7~8000円という。

以下、簡単な考察。
場所は「上野駅から徒歩10分」とあるから、当時、男娼が多く住んでいた下谷万年町界隈だろう。
授業課目は納得できる。
私がカリキュラムを組んでも(笑)、だいたい同じになるだろう。
ただし、1ヵ月半という修学期間はちょっと短い気がする。
生徒の半数が「学校」に寄宿しているとはいえ、相当のスパルタ教育だっただろう。

授業が一応有料だが、授業料の金額が定ってないなど、実態としては「学校」というより、互助組織的色彩が強いように思う。

女装男娼の稼ぎだが、単純に1晩の稼ぎ×30日=月収にならないことは言うまでもない。
それでも、×15日としても、誇張されている(見栄を張っている)ように思う。

ちなみに当時の物価は、かけ蕎麦25~30円、天丼120円、鰻重300円、銭湯15円、白粉(1缶)500円、郵便封書10円、山手線初乗り10円、映画館100円、日雇い労働者日当407円、公務員初任給8700円、教員(小学校)初任給7800円という感じ。

現在の物価に換算するには、だいたい15~20倍くらいだろう。
7000円×15日=10万5000円(月収)だから、現在の月収に換算すると157~210万円見当になってしまい、ちょっと首を傾げる。
まあ、トップはそのくらい稼いでいたかもしれないが・・・。

18時15分、退館。

コメント
万年町界隈 ルクス’さん
ちょっと調べてみたら…
今の入谷辺りになるんでしょうか?

そうすると、あの近くの千束に親類が…
親類、吉原の隣に住んで、医者やってたそうです。
戦後、両親も住んでたそうで、私の生まれた病院も、あの近くだったと思います。(^^)b
(2008年02月27日 03時40分16秒)

Re:万年町界隈(02/25) 三橋順子さん
ルクス’さん、いらっしゃいま~せ。
>今の入谷辺りになるんでしょうか?
現在の住所表示では、下谷区万年町1丁目が台東区東上野4丁目に、同2丁目が北上野1丁目に相当します。
JR上野駅下谷口を出て北へ歩くか、東京メトロ日比谷線の下谷駅から南に歩くかです。

>そうすると、あの近くの千束に親類が…
千束にも「おきよ」という、上野の女装男娼の大姐さんだった人が経営する、かなり有名な女装バーがありました(1950年代)。

いずれにしても、上野から浅草にかけては、その方面が濃いエリアでした。
(2008年02月27日 04時26分06秒)

女装が犯罪にならなくなったのはいつから? yuri-kさん
確か昔は、単に女装しているだけで、犯罪扱いされていた という記憶がありますが、あたしの記憶間違っているかしら?
売春さえしなければ、女装して外を歩くのがOKになったのは、いつからかしら?
お忙しい中、恐縮ですが、上の二つの疑問、おわかりでしたら、教えて下さるかしら?
(2008年02月27日 10時40分46秒)

Re:女装が犯罪にならなくなったのはいつから?(02/25) 三橋順子さん
yuri-kさん、いらっしゃいま~せ。

>確か昔は、単に女装しているだけで、犯罪扱いされていた という記憶がありますが、
単純に法制的に言いますと、異性装(女装・男装)が犯罪だったのは、明治6~14年(1873~81)の9年間だけです。
ただし、その後も、虞犯行為(犯罪を犯す虞のある行為)として、警官に尋問・拘引されることはしばしばありました。

>売春さえしなければ、女装して外を歩くのがOKになったのは、いつからかしら?
「OK」という意味が難しいのですが・・・。
戦前から平気で歩いていた人もいますし、現代でもあまりに怪しければ職務質問されます。
まあ、ある程度の社会的認知度が得られたのは、1980年代くらいからではないでしょうか?
要は、その人の女装のレベル(社会的適合度)の問題でしょう。
(2008年02月27日 12時45分24秒)

意識的か否かは別にして ぼたんさん
>女装のレベル(社会的適合度)の問題
先日郵便局でどこからどう見てもおじいさんにしか見えなかった方がおばあさんだったりしましたが^^;
似合ってるのに女装と言う服装だけで犯罪扱いになるよりは 女で女装していても犯罪級に見苦しい人
のほうがよっぽど視覚の暴力かもだし(笑)
(2008年02月27日 15時03分19秒)

オカマ養成所? にしやんさん
昔はそんな養成所あったんですね!
今はないのかしらぁ~(笑)
聞いたことないですよねぇ~
(2008年02月27日 15時55分05秒)

Re:意識的か否かは別にして(02/25) 三橋順子さん
ぼたんさん、いらっしゃいま~せ。
>先日郵便局でどこからどう見てもおじいさんにしか見えなかった方がおばあさんだったりしましたが^^;
たしかに、その手のおばあさん、ときどき見かけます。
逆(おばあさんに見えるおじいさん)は、あまり見かけませんが。

>似合ってるのに女装と言う服装だけで犯罪扱いになるよりは 
>女で女装していても犯罪級に見苦しい人のほうがよっぽど視覚の暴力かもだし(笑)
あはは・・・・。
(2008年02月28日 22時12分01秒)

Re:オカマ養成所?(02/25) 三橋順子さん
にしやんさん、いらっしゃいま~せ。
>昔はそんな養成所あったんですね!
>今はないのかしらぁ~(笑)
>聞いたことないですよねぇ~
昔(1970年ころまで)は大阪に有名な養成所があったんです。
東京にもあったのは、新発見?でした。
今は、ないですねぇ。
女装クラブでも、あまり教えてくれませんし。
「Kimono人養成所」でも作りましょうか?
(2008年02月28日 22時14分09秒)


2007年09月14日 論文「女装男娼の業態とそのセクシュアリティ」を書く [性社会史研究(女装男娼)]

2007年09月14日 論文「女装男娼の業態とそのセクシュアリティ」を書く

9月14日(金) 晴れ 29.8度 湿度 65%(15時)

8時半、起床。
少し意識して早起き。
朝食は、巨峰ジャムを塗ったトースト1枚とコーヒー。
シャワーを浴びて、髪をポニーテールにまとめる。

「日記(13日分)とコメントへのお返事を書く。
メールのお返事を書く。
その他、雑用を片付ける。

昼食は、昨夜のおでんとモロヘイヤのお浸しで、ご飯を1膳。

午後、執筆。
まず例の「数の子天井・みみず千匹」の学術エッセーに加筆。

続いて、国際日本文化研究センター(井上章一研究班)の論文集『性欲の文化史』(講談社)に載せてもらう予定の論文に取り掛かる。

題は「女装男娼の業態とそのセクシュアリティ」。
女装男娼の業態とセクシュアリティの有り様を分析。
以前、書きかけの論考を大幅に改造して、4時間ほど集中してほぼ形を作る。

トランスジェンダーのセックスワーカーである、近代の女装男娼については、今まで学術的な論考は皆無だった。
アンダーグラウンドな色彩が濃厚で資料に乏しいこと、研究者の間にセックスワーカーに対する忌避感(ある種の職業差別)があることなど、理由はいろいろだろう。
しかし、昔から今に至るまで、セックスワークがMtFのトランスジェンダーの生業のひとつだったことは、否定できない。
その部分を無視したら、トランスジェンダーの社会史は書けないと思うので、自分でできるだけ資料をまとめて、分析しておこうと思う。

16時半、外出。
日差しが強く、気温も30度近くある感じで、なんだか夏の夕方という感じ。
早足で歩くと汗が出る。

銀行に寄った後、、仕事場に移動。

17時半、身支度。
薄鼠色の地に撫子を染め抜き、黄色の百合を散らした銘仙写しの浴衣(メテユンデ)。
クリーム色の半襟をつけた青鼠色の長襦袢(絽)。
黒と赤の半幅帯を角出しに結ぶ。
吸い上げ暈しの草色の帯締(ゑり正)を掛ける。
紫の地に秋草の柄の横長の手提げ袋。
草色の小紋と朱線の鼻緒をつけた焼き桐の下駄。

まだ夏の格好。
でも、さすがにそろそろ・・・。
昼間はまだ暑くても、夕方からの気温の下がり方が秋を感じるし。

ところが・・・・、訪問予定先と連絡が取れない。
ちょっと不確定な事情があるので、できれば打ち合わせしてから出かけたいのだが・・・。
ということで、取りあえず待機。

画像処理作業をする。

無駄足しても仕方がないので、明日を期すことにして、断念。
もう一人お誘いがあった方とも、うまく連絡が取れない。
掛け違っちゃうときとは、こういうものなのだなと思う。

仕方なく、地元の居酒屋「一善」へ。
野党某有力議員の秘書さんと、今回の政変について、おしゃべり。
ビール1杯、ウーロン茶1杯。
肴は、ひらめの活き絞め、さんまの塩焼き、太ごぼうのきんぴら。

20時半、仕事場に戻り、化粧を落とす。

帰り道、仲良し姐さんに電話。
ちょっとおしゃべりして、気持ちが和む。

22時、帰宅。
お風呂に入って髪を洗う。

夜中、また、論文の執筆。
「女装男娼の経済」の節を加筆。
つまりは「お値段」。
手持ちのデータは4つ。

「時間稼ぎ」(ショート)の女装男娼(街娼形態)の「お値段」を記すと、
戦前(1930年=昭和5)1円、
戦後混乱期(1948年=昭和23)200円、
高度経済成長期(1964年=昭和39)1000~2000円、
10年前(1997年=平成9年)15000~20000円

現代の物価への換算が難しいのだが、戦前と戦後混乱期で10000円前後、高度経済成長期と10年前は15000~20000円見当で、ちょっと値上がりしてるような気がする。

ちなみに、同時代の純女(本物の女性)の街娼と比べると、だいたい2~3割安価。

それでも、いずれの時代も、そこそこの売れっ妓なら、世間の並以上の暮らしができたはず。
もちろん、売れない男娼の生活が悲惨なのは、いつの時代も言うまでもない。

さすがに疲れた。
倒れるようにベッドへ。

就寝、4時。

2007年08月12日 進駐軍と戦後日本のゲイ/トランスジェンダー文化 [性社会史研究(性別越境・全般)]

2007年08月12日  進駐軍と戦後日本のゲイ/トランスジェンダー文化

16時、化粧を直して、身支度。青地に白の大きな撫子柄の浴衣。
変り織の生地が張りがあって、肌にくっつかず、今日のような暑い日にはうってつけ。
吸い上げ暈しの黄色の半襟をつけた半襦袢。
黄の博多帯を下に巻き、黒と赤の半幅帯を上に巻いて、角出しに結ぶ。
吸い上げ暈しの草色の帯締(ゑり正)を掛ける。
紫の地に秋草の柄の横長の手提げ袋。
赤白の市松柄の鼻緒をすげた白木の高右近の下駄。

髪はいつものお団子+尻尾(付け毛)。

17時、仕事場を出て、恵比寿経由で品川駅へ。
普段ほとんど用がない港南口に出て、その変貌にびっくり。

今夜は、2年前の夏にバンコクのアジア・クィア学会でお会いしたトッド・ヘンリー氏(アメリカ:コロラド大学準教授)と会食。
戦後日本トランスジェンダー研究会の仲間の石田仁さん(明治学院大学非常勤講師)、杉浦郁子さん(中央大学非常勤講師)の4人で、石田さんが予約した居酒屋へ。

トッドさん、まったくの菜食主義者で、オーダーに苦心する。
欧米の肉食文化圏出身のトッドさんが完全な菜食で、明治になるまでほとんど肉食をしなかった(魚食はしたが)日本人の私が平気でお肉を食べる。
食文化の変遷の不思議。

トッドさん、私の論文「戦後東京における『男色文化』の歴史地理的変遷-『盛り場』の片隅で-」(『現代風俗学研究』12号 2006年3月)をとても高く評価してくださる。
日本の学界では、まったく黙殺されているので、とてもうれしい。

その上で、占領期(1945年9月~1952年3月)の日本のゲイ/トランスジェンダーの状況分析について意見を交換する。
この時期の日本は、政治(GHQ:日本政府)、経済(統制:闇)、文化(進駐軍キャンプ:一般社会)という二重構造だった。

性的なものも含めて、文化的には、進駐軍キャンプの中で何が行われていたかは、日本人は基本的にアンタッチャブルだった。
しかし、進駐軍キャンプで醸成されたさまざまな文化が、戦後日本の文化・芸能に大きく影響を与えたことは、音楽の分野(ジャズ)などでは、よく知られている。

同様に、進駐軍の軍人・関係者の中に多数含まれていた男性同性愛者が、戦後日本のゲイ/トランスジェンダーのあり様に大きな影響を与えたことは、容易に推測できる。
戦前からの日本伝統の(土俗的な)「男色文化」と、進駐軍キャンプ起源のゲイ文化が合体したものが、戦後日本のゲイ/トランスジェンダー文化なのではないか?というのが私の仮説。

仮説としてほぼ正しいという自信はあるものの、証明する史料が決定的に欠けている。
この時期の進駐軍キャンプの中で何が行われていたか、具体的には、進駐軍の慰安・娯楽関係施設に関しては、史料的(文献的)にはまったく、ブラックボックスなのだ。

たとえば、進駐軍慰問演芸団には、3人の女装ダンサー(日本人)がいたことがわかっているが、「彼女」たちがどういう経緯で、そこにいたのかはまったく明らかではない。

どうもこうした占領下の日本の特異な社会状況について、占領した側(アメリカ)の研究者はあまり関心がないようだ。
日本の研究者も、この時代の実相にまったく無知な人が増えている気がする。

トッドさん曰く、アメリカで公開されつつある戦後日本関係の公文書の中にも、それらに関するものは、今のところ見当たらないとのこと。

20時過ぎ、お開き。
短い時間だったが、有益な意見交換だった。

男(トッドさん&石田さん)、女(杉浦さん&私)に分かれて、お茶。

杉浦さんに、進駐軍には女性軍人や女性職員もかなりいたので、そうした中に含まれるレズビアン女性が、戦後日本のレズビアン文化に影響を与えた可能性が十分あることを語る。
しかし、こちらは、もっと資料がないだろう。

22時、仕事場に戻る。
帰路、軽い吐き気。
暑さと寝不足で、かなり心身が疲労していることを実感。

23時半、4日ぶりに帰宅。

なんとかお風呂に入り、髪を洗う。
そこまでで、電池が切れる。

就寝、2時。

2006年08月08日 僧侶の性転換/神の女性転生 [性社会史研究(性別越境・全般)]

2006年08月08日 僧侶の性転換/神の女性転生

8月8日(火) 雨のち曇り 東京 29.0度 湿度73%

午後、国会図書館へ。

夕方まで、5時間ほどフル回転で作業。
今日は、2つのテーマについて資料を集める。

一つは、中世の仏教教団における性転換。
戒律を持した尼衆が再興されていない状況を改善するために、唐招提寺の僧が、男性から女性に性転換して尼となり、尼衆に戒律を伝えたという話。

西大寺叡尊の自伝『感身学正記』の建長3年(1252)の条に「大小尼衆、すべていまだ再興せざるを悲しみて、一比丘を変じて比丘尼となすこと、奇特常篇を越えたり」とある。

このことについて詳細は、唐招提寺律宗の歴史を記した『招提千歳伝記』(元禄14年=1701 義澄撰述)に、天人が教円という僧に「比丘僧、既に備はると雖も、いまだ比丘尼有らず。先づ汝を以て尼と為ん」と述べたところ、教円は「忽ち男を転じて女と成り」、故郷に帰って、姉に出家を勧めて尼としたと記されている。

もう一つは、熱田神宮の神が、唐に渡って楊貴妃となり、日本侵攻を計画していた玄宗皇帝を色仕掛けで骨抜きにして、日本を救ったという話。
今からすると、めちゃくちゃ荒唐無稽な話に思えるが、「大国の美人 尾州に 跡を垂れ」という川柳があるくらいで、江戸時代にはけっこう有名な話だった。

江戸時代に広く読まれいた井沢長秀(蟠竜)の『広益俗説弁』(正徳5年=1715)には、「俗説に云く、唐の玄宗皇帝、日本をうばはんとはかりける故に、熱田明神、楊貴妃と生れて玄宗のこころを蕩し世を乱し、日本をうつの謀をやめさせ給ひぬ」とある。

この話のベースとして、理由はよくわからないが、少なくとも鎌倉時代には「熱田神宮=蓬莱島」という説が現れる。
比叡山(天台宗)の僧、光宗の『渓嵐拾葉集』(文保2年=1318)には、
「その蓬莱宮は、我が国の熱田社是なり」と記されている

そこで、白楽天の「長恨歌」などで死後、蓬莱島の仙女となったとされている楊貴妃が熱田に来た(居る)ことになり、そこから「熱田の神=楊貴妃」という説が生まれたらしい。
やはり『渓嵐拾葉集』には、「楊貴妃と云ふは、熱田の明神是なり」と明記されている。

そこからさらに逆転して、前述の「熱田の神が楊貴妃になって・・・・」という話が生まれたらしい。

熱田神宮の神格は、ヤマトタケルの愛剣、草薙剣だが、中世には、『とはずがたり』の著者である二条が「この御神は、景行天王即位十年、生まれましましけるに」と述べているように、ヤマトタケルそのものが祭神だと考えられていた。

ヤマトタケルといえば、女装は得意技。
そこから、熱田の神→楊貴妃という発想が生まれたのだろう。

私の視点からすると、僧侶が女性になったり、神が女性に転生したりするのだから、仏教にも神道にも、性別越境(女装・性転換)に対するタブーは無いに等しいということ。

その合間に、読売新聞(西部)が2005年5~6月に10回連載した「両性の間で」をマイクロフィルムからコピーするなど、現代の資料も収集。

17時半、退館。

ハードワークと苦手な高湿度で、すっかり疲れてしまい、帰路の車中で居眠り。
気づいたら、下車駅の学芸大学駅を発車していた。
仕方なく、自由が丘駅から戻る。
ドトール・コーヒーで、一息入れてやっと覚醒。

2006年08月07日 女装の男巫の習俗 [性社会史研究(性別越境・全般)]

2006年08月07日 女装の男巫の習俗

8月7日(月) 晴れ 東京 34.3度 湿度 53%

広尾の都立中央図書館へ。

巫俗(シャーマニズム)関係の専門書から、朝鮮半島における女装のシャーマン(男巫)についての記述を探す。
目星をつけておいた本に、記述が見つからず、さらに類書を検索する。
粘ったかいがあって、ようやく、秋葉 隆『朝鮮巫俗の現地研究』(名著出版 1980年8月。原本は、養徳社 1950年5月)の中に、そのものズバリの記述を見つけることができた。

「かかる男巫には音声・態度・表情等の女性的なるものが多く、黄海道黄州の或る老男巫の如きは無髯にして女性的態度を示すのみならず、この地方の女俗でたる手巾(鉢巻用の布)を頭に結び、巫事を行ふに当っては、必ず女装して然る後に神衣を著くる程で、かくの如き女性的男巫の中には正式の妻を娶ると共に一方に於て男妾の如きものを有つものもあるといふことである。」

しかも、写真も掲載されている。
黄海道黄州は、現在の北朝鮮の黄海北道で、黄海に面した一帯。

また、『中宗実録』8年(1513)10月丁酉条の全羅道観察使権弘の報告が引用されている。

「間弱冠無髯者、則変着女服塗粉施粧、出入人家」(このごろ弱冠無髯の者、すなわち女服を変着して、塗粉施粧し、人家に出入す)

と、女装の男巫の行状が同地方の弊風として記されている。
全羅道は、現在の韓国の全羅北・南道で、やはり黄海に面した一帯。

さらに、副産物として、清代初期に屈大均(1630~96)が著した『広東新語』巻9「永安崇巫」の条に、女装の男巫の習俗が記されていることがわかった(可児弘明「広東巫俗〈贖魂舞〉について」『東アジアのシャーマニズムと民俗』勁草書房 1994年11月)。

「仙姐與女巫不同、女巫以男子為之」(仙姐と女巫は同じからず、女巫は男子を以てこれを為さしむ)「巫作◇好女子」(男巫が◇な女子となる。◇は「女」偏に「交」の字=美しいの意。)

永安地方の「女巫」は、男巫が女装して扮したものらしい。
永安は、中国南部の東江の上流地方。広東省東部から福建省西部。
福建省永安市がある。

私は、以前から、女装の男巫の習俗は、南アジア、さらに言うと、亜熱帯~暖温帯アジアの照葉樹林帯に共通する文化ではないかと想定していた。
今まで不明確だった南中国と朝鮮西岸の事例を確認できて、大収穫。

他にもいくつか文献を入手して、18時、退館。
「Sega Fredo」に寄って、フランスパンにマスタードチキンを挟んだサンドイッチとコーヒーで一息。

日は陰ったものの、風が止まって、蒸し暑くなった。
台風接近のせいだろうか。
でも、今日はいろいろ収穫があったので充実した気分で広尾駅へ向かう。


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