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2007年03月18日  トランスジェンダー自助・支援グループ全国交流会 [現代の性(性別越境・性別移行)]

2007年03月18日  トランスジェンダー自助・支援グループ全国交流会

3月18日(日) 快晴 東京 10.7度 湿度 19%(15時)

9時、起床(仕事場)
朝食は、コンビニで買ってきたパンとコーヒー。
シャワーを浴びて身支度。
髪は、お団子にまとめ、尻尾(付け毛)をつける。

黒地に銀と錆朱の折れ線模様の足利銘仙(きものACT)。
深草色にカタバミ柄の半襟をつけた黒地に更紗模様の長襦袢(紫織庵)。
錆朱に金彩の帯を角出しに結ぶ。
帯揚は芥子色、帯締は深草色(福福堂)。
黒のカシミアのショール。
赤地に麻の葉模様の鼻緒の下駄。

11時、家を出る。風が強くて寒い。
渋谷経由で、新宿東口へ。
ビルの上の電光温度計は8度。

アルタの前で、IさんとY子ちゃんらと待ち合わせ。
地下にもぐり、サブナードの奥の怪しい餃子屋へ。
Iさんとなので、中華料理を食べながら当然のように真っ昼間からお酒。
私は、ちょっと疲れが残っていたので、ビールはやめて、梅酒1杯とカシスオレンジ。
Iさん、ビールに加えて紹興酒で、ガソリン満タン状態に。
昨日ほとんどまともに話ができなかったので、今日はちょっと突っ込んだ話をしたかったのだけど、時間的、状況的にやっぱり駄目。

13時、コマ劇前の「ロフト・プラスワン」へ。
「トランスジェンダー自助・支援グループ全国交流会」(TNJ主催)に出席。
私は、グループ活動は一切しない人なので、参加する必要はないのだけど、昨日買い損ねた「交流誌」が資料として欲しかったので、Iさんについて行く。

次から次へと、各地の自助・支援グループの人が、挨拶と自己アピールのために登壇する。
いったいいくつあるのだろう?
「交流誌」に載っているのを数えたら、30団体もあった。

自助・支援グループなんて皆無、あっても西と東に1つずつという時代を長く過ごした私には、隔世の感がある。
Iさん、なんと5回も登壇する。
自助・支援グループに5つも関わっていたら忙しいはずだ。

この世界、老人の経験を聞いて生かそうという発想はないし、あとはもう若い人たちが、自分たちの流儀でやってくれるだろう。
「反面教師」役(「ああはなりたくない」)も疲れたし、「老兵は死なず、ただ消えさるのみ」(ダグラス・マッカーサー)。

15時、辞去。
実は、昨日からの精神的ストレス(孤立感)が、もう限界だった。
たとえて言うと、キリスト教徒の大集団の中に1人でいるイスラム教徒の心境かも。
いくら気を強く持っても、仲間が1人もいない状況はやっぱり精神的につらい。

2006年10月19日 メキシコ・ドキュメンタリー映画祭「ムーシェス:アタシたちの楽園を求めて」 [現代の性(性別越境・性別移行)]

2006年10月19日 メキシコ・ドキュメンタリー映画祭「ムーシェス:アタシたちの楽園を求めて」

渋谷円山町の「ユーロスペース」で開催中の「メキシコ・ドキュメンタリー映画祭」の参加作品「ムーシェス:アタシたちの楽園を求めて」(アレハンドラ・イスラス監督 2005年)を見る。

実は、この映画祭のことも、この作品のことも、まったく知らなかった。
ところが、今週の初め頃、私が昨年書いた「日記」の内容(世界各地のサード・ジェンダー)に、この映画祭に関連してトラックバックをつけてくださった方がいて、お陰で情報を得ることができた。

「ムーシェス:アタシたちの楽園を求めて」の舞台、メキシコ南部オアハカ州の小さな街フチタンには、母系制社会が色濃く残り、そこにはムーシェと呼ばれるサード・ジェンダーが、社会の成員として認められている。

その特異性は、アメリカの民族学者ヴェロニカ・ベンホルト=トムンゼンの『女の町フチタン-メキシコの母系制社会-』(藤原書店 1996年)で日本にも紹介され、「おんなの町 フチタン-南メキシコ・サポテカ族の陽気な人々-」(フジテレビ 2000年2月27日)というテレビ・ドキュメンタリー番組も放送された。

それらから得た知見として、私は、ムーシェを母系制社会に育まれた女性の相談役・互助者としてのサード・ジェンダー(MtFのトランスジェンダーを多く含む)と認識していた。

したがって、映画祭のパンフレットの解説の「サポテカ語で『ムーシェ』と呼ばれるゲイの男性たち」「フチタンの小さな町の中で、カミングアウトし、支え合いながら自らの楽園を築こうとしている」という文章を見たとき、かなりの違和感を覚えた。
えっ?「ゲイの男性たち」?、「カミングアウト」?、そういう文脈じゃないと思うけど・・・・。

ところが、実際に映像を見てびっくり。
ムーシェスたちのゲイ化が著しく進行している!。
男装のムーシェのカップルの言動は、メキシコ人的容貌を除けば、アメリカのゲイのカップルのそれとまったく変わりはない。
派手派手に着飾ってパーティーでパフォーマンスする女装のムーシェたちの在り様には、アメリカのドラァグ・クイーン(女装のゲイのマフォーマー)の影響が明らかに見られる。

さらにショックだったのは、女性たちとムーシェスの対立の激化。
映画では、ある女性による女装のムーシェス批判が、3度にわたって語られる。
批判の要点は、女装のムーシェスが、女性たちの祭に参加して、派手な衣装で目立ちまくるり、女性の影を薄くしていること、女装のムーシェスの行儀の悪さ、たしなみのなさ、女性の親密空間である女性トイレへの侵入etc。
結果として、女装のムーシェスは女の祭への参加を拒絶されてしまう。

過去における女性たちとムーシェスの親密な互助的関係、母系性社会に育まれたサード・ジェンダー的在り様を知るものには、信じられないような変化である。

その原因は、批判者の女性の「ムーシェスは変わってしまった。昔はもっとつつましやかだったのに」という言葉に見て取れる。
つまり、ゲイ・レボリューションの影響を受けた女装のムーシェスたちが、自分たちの存在に自信を持ち、女性たちの相談役、裏方から表舞台に出てきたことによって、女性たちとの軋轢、利害対立が増したのだろう。

また、女性の側、特にこの批判者の女性の言説には、男女の区分を明確に意識するフェミニズムの影響が感じられた。
その結果として、「あいまいな性」として女性たちに許容されてきた女装のムーシェスを、はっきり「女装した男性(ゲイ)」と見なす考え方が強まっているのだろう。

こうした変化は、「ムーシェス」という言葉が「ゲイ」という外来語(アメリカ語)に置き換えられた段階で、ムーシェスの在り様(文化)もゲイ化していったと考えることができる。
つまり、マイナー・セクシュアリティの世界におけるグローバリゼーションである。
ゲイ・レボリューション以後に確立したアメリカのゲイ文化が、何10年かしてメキシコの辺境の街にも及び、土着的なジェンダー/セクシュアリティの在り様(ムーシェス)に強い影響を与え、固有の文化を壊し、覆い尽くしていく過程とみることができる。

ラストは、女の祭への参加を拒絶されたムーシェスが、自らの手で自分たちの祭(ドラァグ・パーティ)を成功させ、レインボー・フラッグ(LGBTの連帯の象徴)を掲げて浜辺を行進するシーンで終わる。レインボー・フラッグは「アタシたちの楽園を求めて」の達成の表象として使われている。

こうしたフチタンのムーシェスの変化を「近代化・進歩・解放」と見るか(この監督をはじめ多くの人は、その立場)、「伝統と固有文化の破壊」と見るか(私はこちらの立場)は、評価が分かれるところだろう。

その一方で、映像は、母親から教わった刺繍の技術を生業として母親とともに生きる女装(伝統衣装)のムーシェ(かなり太めだけども笑顔がすてき、母親と瓜二つ)や、女性の相談に乗りながらウェディング・ドレスをデザインし製作する洋裁業の女装(洋装)のムーシェ(いちばん美形。ファッションセンスNo1)の姿も記録している。

フチタンのムーシェスの変質は、彼/彼女らがゲイ文化の受容を望んでいる以上、もう誰も止めることはできないだろう。
だからこそ、私は、母系制社会の中での、女性の相談役、互助者であるムーシェの伝統を守って生きる彼女たちの姿に、限りない共感と愛惜の思いを抱く。

ところで、フチタンのムーシェスの世界でもエイズ(AIDS)が深刻な影響を与えている。
この映画の後半の4分の1ほどは、エイズ予防の啓蒙運動に焦点が当てられているが、すでに何人もムーシェスが命を落としていることが語られる。
そうした文脈の中で、ある男装のムーシェが、エイズが家庭の女性たちにまで広まった原因について「バイセクシュアルが犯人だ」と断言するシーンがある。
まさに典型的なバイセクシュアル差別の言説で、驚いてしまった(後のシーンで、ヘテロセクシュアルな出稼ぎ男性たちが感染源であることが語られるが)。
バイセクシュアル差別もまたアメリカゲイ文化の影響=グローバリゼーションなのだろう。

固有のマイナー・セクシュアリティの在り様が、欧米の類似の「文化」が移入のされることによって影響され変質させられ固有の在り様が失われていくという過程は、過去の日本で何度も繰り返されたことである。
ムーシェスの変質は、かなりショックだった。
しかし、過去の日本で起こった同じような現象を振り返るという意味で、まさに現在それが進行しているフチタンの状況を知ることができたのは大きな収穫だった。

この映画、なんとかDVDを手に入れて、きちんとした紹介・研究批評をしてみたいと思った。
どなたか知りませんが、トラックバックをつけてくださった方、ありがとうございました。
勉強させていただき、感謝してます。

2006年05月19日 「性同一性障害の小2男児」報道に思う [現代の性(性別越境・性別移行)]

2006年05月19日 「性同一性障害の小2男児」報道に思う

5月19日(金) 曇り

11時、起床。
朝食は、カレーパン1個。
シャワーを浴びた後、「日記(17・18日分)」を書く。
15時、仕事場に移動。
メールチェック、お返事メールの送信、「日記」のアップ。

今朝の『朝日新聞』に兵庫県の小学2年生(7歳)の男児が、性同一性障害と診断されて、教育委員会の判断で女児扱いで公立小学校に通学していることが大きく報道されていた。

扱いの大きさに驚きながら、早速、駅で新聞を買い集めるなど資料収集。
その結果、一般紙だけでなくスポーツ新聞も含めて主要新聞の全部が大きく報道していることが判明。
各紙の見出しは以下のとおり。
--------------------
性同一性障害の小2男児 「女児」で通学OK 兵庫の教委
(『毎日新聞』2006年5月18日夕刊一面)

性同一性障害 男児 診断早すぎる/現実的対応 「先駆的判断」に賛否
(『毎日新聞』2006年5月18日夕刊社会面解説)

小2男児 性同一性障害 女児として学校生活 兵庫 希望尊重、受け入れ
(『『読売新聞』2006年5月18日夕刊)

性同一性障害 男児、「女児」として生活 兵庫の小学校 入学前に診断
(『日本経済新聞』2006年5月18日夕刊)

「性同一性障害」小2男児 女児として通学 兵庫・公立小
(『朝日新聞』2006年5月19日朝刊)

性同一性障害の小2男児 「女児」で通学 兵庫 診断受け保護者と決定
(『産経新聞』2006年5月19日朝刊)

男の子 「女の子」で学校生活 兵庫・性同一性障害の小2 学校 入学時から対応 「さん」付け、スカート通学 身体測定もトイレも水着も出席簿も
(『スポニチ』2006年5月19日)

小2男児が女児として通学 性同一性障害、学校側が受け入れ 兵庫県在住
(『日刊スポーツ』2006年5月19日)

性同一性障害の小2「男児」 「女児」として通学する・・・・ スカート登校、教諭は「さん」呼び、友達は女の子
(『スポーツ報知』2006年5月19日)

小2男児が性同一性障害 低学年で異例の診断 女児として通学
(『サンケイスポーツ』2006年5月19日)
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通読して「う~ん」とうなってしまった。
なんとも複雑な気持ち。

まず、基本的なこととして、教育委員会が、児童と保護者の強い希望を門前払いせず、希望に沿う方向で柔軟に対応したことは、とても良いことだと思う。
今までの教育委員会にありがちな杓子定規な姿勢からしたら、大きな進歩だ。

ただ、手放しでは歓べないのは、次の2点。

一つは、小学校低学年の子供を「性同一性障害」と診断することの問題。
症状としての性別違和は認められるにしても、「性同一性障害」という診断を下すことが可能だろうかという疑問。
この点ついては、針間克己医師(武蔵野病院:精神科)が、自分が女の子だと思っている6歳前後の男の子約70人のうち、成長しても女性だと思い続けていたのはわずか1人というイギリスの調査結果を紹介しながら、早期診断への慎重論を述べている。

(註)正確には、66人の小児MTFの追跡調査で、追跡できた44名のうち、33名が性的空想において同性愛(男好き)かバイセクシュアルで、性転換を真剣に望んだのは1名だけというGreenの研究。

私の知人でも、小学生の頃、自分は男の子だと言い張り、坊主頭に近い短髪で黒いランドセルを背負って通学していた女児が、長じてとても魅力的なセクシーな女性になった例がある。
子供の性自認はかなり不安定で、周囲の状況や親の誘導に左右されやすいということだと思う。

そもそも、このまま「女児」扱いで数年たてば、次にどうするかという話に必然的になる。
小学校を卒業し、中学に進学する頃になれば、第2次性徴の問題が出てくる。
早期診断の流れからすれば、「早期治療を」ということになる可能性が高い。
学齢期の子供に、医師が性ホルモン操作(この児の場合なら、男性ホルモンの抑制、女性ホルモンの投与)をしていいのか?という判断を迫られることになるる。

二つ目は、全国紙がそろいもそろって、こんなに大きく扱う問題かということ。
個人の性別の扱いなんて、本来はできるだけ内輪で済ますべきことだと思う。
やはり私の知ってる範囲で、過去にも校長さんの判断で、男児を私立小学校卒業時まで女児扱いで通学させたという例はある。
内輪で処理しておけば、もし男の子に戻ってしまった時だって対応しやすい。

これだけ大きく報道されれば、必ず「どこの学校の誰?」とい動きは出て来る。
それは本人のために良い結果につながらないと思う。
もっと、そっとしてあげることはできないのだろうか。

どうも、親も含めて周囲の大人が「性同一性障害」という「型にはめる」ことをしすぎているように思える。
少なくともしばらくは「女の子みたいな男の子」「男の子だけど女の子」でいいのではないだろうか?
昔だってそんな子はいたはずだ。

なぜ「性同一性障害」という型にはめるのか?
その方が周囲の大人が安心だからだろう。
苦情が来ても「病気だから仕方ない」ということにできるから。

私の感じた違和感は、どうもそこらへんにあるようだ。

21時半、帰宅。
夕食は、お刺し身(あじ・ひらめ)、後は昨夜の残り物。

古い講演ファイルを整理する。
2000年以前の分。
先日、いろいろ捜索していたら、所在不明だった資料が出てきたので、記録のために整理しておく。
当時をあらためて振り返ると、トランスジェンダーがトランスジェンダーとして(病気ではなく)社会に受け入れてもらう方向性で、けっこうそれなりに成果が上がりつつあったのではないかと思う。

それが、なんでこんなことになってしまったのか?
今日の大報道と合わせて、つくづく「病理化の罠」の恐ろしさを思う。

お風呂に入る。
夜中、古い『AERA』から、保存しておくべき記事を切り抜く。
2年分くらいを一括処理すると、「負け犬女」も「電車男」も話題になっていたのは案外短かったことがわかる。

就寝、5時。

2006年04月20日 外山ひとみ「MISS・ダンディたちの『それから』」(『新潮45』5月号) [現代の性(性別越境・性別移行)]

2006年04月20日 外山ひとみ「MISS・ダンディたちの『それから』」(『新潮45』5月号)

4月20日(木) 曇りのち晴れ。昼前後、激しい風と雨

11時、起床。
朝昼食は、トースト1枚に、「まるぶん」の女将さん手作りのサルナシのジャム。
昼前後、激しい風と雨。
午後、来週月曜日の講義の準備。
メールのお返事を書く。

『新潮45』5月号掲載の外山ひとみ「MISS・ダンディたちの『それから』」を読む。
1999年に名著『MISS・ダンディ-男として生きる女性たち-』(新潮社)を出した著者による「それから」のレポート。

メディアは、どうしても新奇なものを追い求めがちで、いったん注目しても、じきに忘れて顧みようとしないことが多いなかにあって、こうした「それから」取材は、とても大事なことだと思う。
彼らへの暖かい気持ちが伝わってくるようなレポートで、外山さんのような伝達者をもったMISS・ダンディたちは幸せだ。
私たち(ニューハーフ&女装者)には、外山さんのような方は誰もいないので、つくづくそう思う。

それにしても印象的なのは、MISS・ダンディたちの世界における「性同一性障害」の進行。
「性同一性障害」という概念による病理化の進行、そして当事者を「勝ち組」と「負け組」に選別・分断したGID特例法に批判的な私の立場からすると、MISS・ダンディの世界がどうのように「性同一性障害」に侵食されていったかという観点でとても興味深い。

レポートの中に出て来る「性同一性障害」ブームに乗り遅れた年配の男装者たちの姿が、私にはしみじみいとおしい。

どうも多方面で誤解されているようだが、私は「性同一性障害」という概念に批判的なのであって、「性同一性障害者」に批判的なのではない。
(一部の視野狭窄な教条的な人や、非GID系のトランスジェンダーを差別的する人は別)

性別違和感に苦しむ人たちが、「性同一性障害」概念や特例法によって救われ、幸せになっていくのなら、それは良いことだと思うし、素直に「おめでとう」と言える。
埼玉医大以前の状況を知る生き残りとしては、そうした意味では、つくづく「よい時代になったなぁ」と思う。

しかし、その一方で、特例法の要件をクリアーするために、必ずしも必要のない手術で身体を傷つけるケースが増加していること、性器の形だけ変えれば女になれる(男になれる)という現実生活軽視の考え方がはびこりはじめていること、そもそも「病気」にならない限り、性別越境者が自分らしく生きられないというシステムに、根本的な点で疑問を抱いている。

だから私は、「性同一性障害」という枠組みに乗らないトランスジェンダーとして、これからも「自分の性別は自分で選び、自分で決め、自分らしく生きる」ことを主張していきたいと思う。

15時半、家を出て皮膚科へ。
6度目の通院。
30分待ち。
注射の量が減る
今日はトラブルなし。

17時、仕事場に移動。
メールチェック、「日記」のアップ、お返事メールの送信。
宅急便を取りに来てもらう。

夜、簡単に身支度して、留守中に配達された本(『戦後日本女装・同性愛研究』)を、受け取りに郵便局に出向く。
またまた、受け渡しを拒否され入手できず。
すごく悔しい!
郵便局とは、相性が悪く、この1年ほど冷戦状態が続いている。

爪を藤色に塗って、お風呂に入る。
就寝、1時(仕事場)。

2006年03月24日 ある女装者の幕引 [現代の性(性別越境・性別移行)]

2006年03月24日 ある女装者の幕引
3月24日(金) 曇り

12時、起床。
朝昼ご飯は、トースト1枚、生ハム4枚、きゅうり&レタス。
14時、仕事場に移動。
メールチェック、お返事メールの送信。
「舞妓」「花魁」変身写真の画像取込と編集作業。
それらを入れて「日記」をアップ。

18時半、身支度。
焦げ茶と黒のアニマル柄のプルオーバー、黒のタイトミニスカート、黒の網タイツ、黒のショートブーツ。
今日は寒いので、雪豹柄の冬のコート。

新宿3丁目の女装スナック「びびあん」へ。
さつきママとおしゃべりしていたら、なんとS香姐さんがご来店。

S香姐さんにお会いするのは「ジュネ」(新宿歌舞伎町区役所通りにあった女装スナック。2004年12月閉店)が健在だったころだから2年半ぶりくらいだろうか。
風の便りでお身体がお悪いと聞いていたし、私も最近は夜の新宿には数カ月に1度くらいしか行かないので、お目にかかるのはもうむずかしいかなと思っていた。

まして「びびあん」はエレベーターのないビルの3階にある。
肺気腫を病まれているお身体では、階段を上ってくるのは、相当に辛いはずだ。
実際、お店に入ってしばらく相当に荒い息をされていた。

ママと3人で、まずは久しぶりの再会に乾杯。
ところが、S香姐さん、いきなり「今夜がたぶん私の女装納めになる」とおっしゃる。
肺気腫に加えて、食欲不振で体重が15kgも落ちて夜の街に出るのが体力的に難しくなったのだそうだ。
お話をうかがうと、女装支度部屋「907」に置いてあった荷物(女装用具)を全部整理し、かなりの量、持っていらした着物もすべて処分され、支度部屋の鍵も返却したとのこと。

S姐さんは、新宿女装世界では着物派として最も有名な方だ。
着物への愛着は、ひとしおだと思う。
その思いは同じ着物愛好者の私にはよくわかる。
また姐さんは、「ジュネ」の閉店後、「ジュネ」附属の支度部屋だった「907」の維持に最大限の尽力をされてきた方だ。
その着物と「907」に別れを告げたのだから、「女装納め」のご覚悟はほんとうだと思う。
だからこそ、「ジュネ」に次いで多く訪れた「びびあん」に最後の挨拶をするために、苦しい息をこらえて階段を上ってらしたのだろう。

普通なら「そんなこと言わずに、お身体を直してまだまだ頑張ってくださいよ」と接客トークを言うところなのだが、そのご覚悟が伝わってくるだけに、ママも私も言葉がなくなってしまった。

1998年4月17日に新宿ワシントンホテルで開かれたS姐さんの「女装50周年パーティ」の思い出話になる。
あの時、私は司会をさせていただいたが、あれからもう8年が経とうとしている。
あの頃は、S姐さんもまだまだお元気だったし、「ジュネ」もまだ活気があったころで、今から思えば、楽しい時代だった。

S姐さんに初めてお会いしたのは、まだ私が「エリザベス会館」(当時は神田須田町にあった女装クラブ)に在籍していたころ、たぶん、1990年12月のクリスマス・パーティだったと思う。
私はそのパーティのコンテストで新人賞をいただいた駆け出し、その時、S姐さんはコンテストの審査員をつとめるクラブの重鎮だった。
そこから数えると15年以上のお付き合いということになる。

1995年以降は、「ジュネ」をはじめとする夜の新宿のお店で同席するようになった。
私が主催する「大お花見」にも、何度もいらしてくださった。
女装の世界のことをいろいろ教えていただいたし、貴重な体験談をうかがうこともできた。時には厳しい批判もいただいたが、私が女装世界の先輩と仰ぐ数少ない方だ。

そのS姐さんの60年近い女装人生の最後となる「女装納め」の夜に、まったく偶然に出会い、同じ女装の後輩として見送ることになるなんて、つくづく不思議なご縁を感じてしまう。

日付が変わり、S姐さんがお帰りになる。
店のドアのところまでお見送りする。
「S姐さん、どうかお身体をお大事に。ありがとうございました」
それしか言えなかった。

人間、執着のあるものに自分で幕を引くことはなかなか難しい。
最後まで思い切れずに醜態をさらしてしまうことは間々あることだ。
S姐さんは「生きがい」だった女装に、ご自分で最後の始末をつけられ、舞台を降りられた。
ご立派だったと思う。

私にも遠からず「幕引」の時は来る。
その時には、かく潔くありたいと思うが、はたしてできるだろうか。

3時、「びびあん」を辞去。
靖国通りのコンビニで朝ご飯を買って、タクシーで仕事場に帰る。

就寝、4時半(仕事場)。

2005年10月17日 歌舞伎町の夜 [現代の性(性別越境・性別移行)]

2005年10月17日 歌舞伎町の夜
10月17日(水) 曇り

8時半、起床。
寝不足で眠い。
朝ご飯は、いつものように、トースト1枚、生ハム3枚、きゅうり&レタス。

午前中、講義。
仕事場に戻る途中の喫茶店で、校正ゲラを1パート分をチェックする。
これで2パート分をチェック、残りは4パート。

14時半、仕事場へ。
メールチェック、「日記」のアップ、お返事メールの送信。
15時半すぎから、1時間ほど、お昼寝。
少し元気になり、写真の整理を少々。

17時半、シャワーを浴びて身支度。
今夜は洋装。
黒のトップ、黒のベロベット風のタイトスカート、薄茶に黒の動物縞のジャケット。
黒と灰色の網タイツ、黒のショートブーツ。

19時過ぎ、家を出て新宿へ。
今夜は、何か用があるというわけではなく、どうもこの数日、心理的ストレスが溜まり気味だったので、その発散。
20時、新宿3丁目の女装スナック「びびあん」へ。
昔なじみの店だが、4月2日以来、約半年ぶり。
私が最初の客で、ママ(純女)とゆっくりおしゃべり。
考えてみると、私のことを「順子ちゃん」と呼んでくれるのは、もう、ここのママくらいになってしまった。
もっとも「50歳になって、〇〇ちゃんもないだろう」と言われればそれまでだが。

20時44分ころ、地震(震源は鹿島灘、M=6.3。茨城県鉾田市で震度5弱、東京は震度3)。
ずいぶん長い横揺れで、さつきママと二人、びっくり、どっきり。
地震をパズルにたとえると、周辺からピース(中規模地震)が埋まっていき、最後の中央の空白部(東京中心部)にドガンと大きなピース(直下型の大地震)が入るという感じになる。
ただし、それが明日なのか10年後なのかはわからない。

21時すぎに来店した「びびあん」の会員さんの女装の方2人も交え、4人で閉店までいろいろおしゃべり。

0時、「びびあん」を辞去して、久しぶりに夜の新宿の街をトコトコ歩く。
区役所通りは、呼び込みが法律で規制された影響で、人少なですごく寂れた感じ。
平日の水曜日とはいえ、0時前後という時間帯の区役所通りは、一昔前なら、終電車に乗ろうと新宿駅に急ぐ人と、電車で帰るのをあきらめてもう1軒飲みに行こうとする人、そして酔客を店に呼び込もうとするキャッチのお兄さんが狭い歩道で交錯し、私などはそれを縫うように車道に降りたり、また歩道に戻ったりして歩いたものだ。
あの頃は、それが当たり前の歌舞伎町の夜だった。

悪質なキャッチは困るが、こう徹底的に規制してしまっては、街がさびれる一方だ。
東京都(石原知事)は、どうも本気で歌舞伎町を潰す気らしい。
歌舞伎町を潰しても、そこに集まる男たちの欲望が潰せるわけでなく、周辺地域に拡散したり、地下(アンダーグラウンド)に潜ったり、余計、やっかいなことになるだけなのに。
歌舞伎町のような一定のエリアに囲い込んで、適度に規制を加えた特殊地域を作っておいた方が、お上としても管理しやすいと思うのだが。
ともかく、お城(都庁)のお膝下の「目障り」を掃除したいらしい。
勘ぐれば、歌舞伎町の歓楽街を潰して、その跡地に「都営カジノ」を作ろうというのだろうか。

以前、お手伝いしていた「風林会館」斜め前のニューハーフ・パブ「ミスティ」へ。
案の定、歌舞伎町の街と同様、店内も閑散。

エルママに「あれ~ぇ、どうしたの、珍しい格好で。そんな洋服まだ持ってたんだ」と言われる。
珍しがられるのも無理はない。
こんな格好で店に出たのは、たぶん4年ぶりくらいだろう。

男性客はだれも居ない無人のカウンター席に腰掛ける。
ボックス席に、なかなか美形のニューハーフさんと、それほどでもない初心者風の女装娘が座っていて、ママが話相手をしている。

ほとんど常勤ホステスのK美さん(純女)に「何? 面接?」と尋ねると、「そうみたいです。一人の方は2丁目の店に決まっているみたいですけど」という返事。
私は、てっきり美形のニューハーフさんが2丁目の店に入店が決まり、初心者風の娘が「この店に雇ってくれ」と面接を受けているのだと思った。
ところが、聞き耳を立てていると、どうやら逆・・・・。
ちょっと、びっくり。
まあ、ここの店に入る(可能性がある)のがニューハーフさんの方なら、上々だから良いのだけど。

ママが「踊りができないのなら、歌くらい唄えなくちゃ」と、まるで試験をするかように、就職が決まっている女装娘にマイクを渡す。
彼女、さんざん選曲に迷う(ほんとうは、もうそれで落第)。
やっと唄ったものの、私の評価はC(5段階で)。
まあ、お客さんとしてはまずまず(並)だけど、お客さんに聞かす側(プロ)としては合格点には達しない。

ママの評価も私と同じだったようで、首をかしげながらサッと選曲して次の曲を入れる。
歌上手のママが自分でお手本を示すのかと思ったら、「はい」とマイクを渡される。
心の準備ができていないし、唄うのは2カ月ぶり?
仕方なく、美川憲一「さそり座の女」を7割くらいの力で唄う。
ママとしては、私でプロとしての最低水準を示したかったのだろう。

長いこと、お店に出入りしていると、こういう、ホステス面接のような場に時々出合う。
面接者は、大きく分けて、今夜のニューハーフさんのようにある程度、経験がある即戦力になる娘と、今夜の初心者風の彼女のように新人(もしくはそれに近い)娘とに分けられる。

経験がある娘の場合、容姿や技量は水準に達していることが多いので、面接のポイントは、性格(協調性)と、どれだけ個人客をもっているかになる。
新人さんの場合は、将来性をみることになるが、容姿もだが、ポイントは頭の回転だろう。
顔は切ったり貼ったりすれば後からなんとかなる。
足りない知識や技術は後から勉強すればいい。
でも、頭の回転力は直しようがない。
頭の回転の程度は、おしゃべりしてみれば、すぐわかる。
しゃべりかたがモサモサしている娘や、身体の動きに切れがない娘は、概して頭の回転がトロいものだ。

ホステスさんの採用も、野球の新人ドラフトと同じで、10人採用して、そこそこの戦力になる娘が1人いればいいほう。
まして、店の看板になるような娘は、50人に1人、100人に1人だろう。
だから、ママにしてみたら、ホステスの採用には年がら年中、頭を悩ますことになる。

結局、お客らしい客が来ないまま閉店。
「まあ、こんな夜もあるわよ」とママ。

4時半、区役所通りをトコトコ新宿駅に向かう。
立待ちの日(月齢17)が西空に輝いている。

始発(4時42分)の山の手線、始発(5時00分)の東急東横線を乗り継いで帰宅。
昔、お店を手伝っていたころは、よくこのパターンで帰ったものだ。
最近は、着物のことが多く、加齢による体力低下もあって、タクシーで帰ることが多かったので、ほんとうに久しぶり。

5時半、仕事場に帰着。
身体は疲れたけども、精神的にはリラックスできた夜だった。
6時半、就寝(仕事場)。

2005年09月16日 『サラ、神にそむいた少年』(アメリカの女装少年男娼) [現代の性(性別越境・性別移行)]

2005年09月16日 『サラ、神にそむいた少年』(アメリカの女装少年男娼)

9月16日(金) 晴れ時々曇り

11時半、目が覚める。
今日は、明日からの京都出張にそなえて休養日のつもり。
そのままベッドで読みかけのJ.T.リロイ『サラ、神にそむいた少年』(2000年9月 角川書店)を読了。

人気娼婦である母親の真似をして女装をはじめ、母親のような娼婦になることを目指し、女装男娼として売春宿で働き始めたアメリカの12歳の少年を主人公にした自伝風小説。
この小説を購入した時は、少年への性的行為に対する嫌悪感が強くて、途中で読むのを放棄してしまった。
その思いは今も変わりがないが、1990年代前半のアメリカにおける女装の少年男娼の実態を示す資料として、冷静に読むことにつとめる。

その結果、いくつかのことに気が付いた。
長距離トラック運転手相手の売春システム(娼婦は女性)が存在し、その中に女装の少年男娼が混在する形であること。
日本でも、女装男娼の場合、女性の娼婦集団と付かず離れずの微妙な距離をとることが多い。
独自のシステムを作る男性の姿のままの男娼とその点で違いがあるように思う。

女装の少年男娼の客は、少女性愛者の男性(相手が少年とは気づいていない)、少年性愛者の男性(相手が少年であることに気づいた上で性的欲望を感じている)、確信的な女装者愛好の男性(「ペニスのある女の子」に性的欲望を感じる)、自己の女装趣味(フェティシズム)への理解者役として少年男娼を利用する男性など、いくつかのタイプがあることがわかる。

少女・少年性愛者の比重が高いのはアメリカの特徴かもしれないが、後の2つについては日本でもしばしば観察される。

日本の場合、こうした若年の女装志望者(少年)の受け皿としては、伝統的に飲食接客業(ニューハーフ・パブなど)が主で、一気にセックスワークの世界へ行ってしまう例は稀である。
そうした社会的受け皿がないアメリカ社会では、女装行為がダイレクトにセックスワークにつながっていくことがよくわかる。

ちなみに、先輩の女装男娼が主人公に語る「ペニスのあるチアリーダーが好きなフットボール選手って、びっくりするほど多いんだ」という言葉には笑ってしまった。
やっぱりアメリカなんだなぁ、と思う。

13時半、起き出してシャワーを浴びる。
昼ご飯は、トースト1枚、生ハム3枚。きゅうり&レタス。それにヨーグルト。

午後は、メールのお返事を書き、サイトの更新の原稿を作る
前髪だけ染髪(ダークブラウン)。

17時過ぎ、早めに夕ご飯の支度。
サーモンマリネ、焼き茄子を作り、ご飯を炊く。
夕食の前に、付け合わせの野菜(人参、茄子、エリンギ)と牛肉(薄切り)を塩・コショウで焼く。
久しぶりに子供といっしょの食事。

23時、仕事場に移動。
メールチェック、メールの返信、「日記」のアップをする。
シャワーを浴びて、顔のお手入れをしてベッドへ。

就寝、2時(仕事場)。

2005年08月24日 都立中央図書館へ/トランスジェンダーはいない? [現代の性(性別越境・性別移行)]

2005年08月24日 都立中央図書館へ/トランスジェンダーはいない?

8月24日(水) 曇り
10時、起床。
朝昼ご飯は、いつもの通り、トースト1枚、生ハム3枚、きゅうり&レタス、ヨーグルト。
午前中「日記」(23日分)とメールの返信を書く。
12時半、仕事場に移動。
メールチェックと「日記」のアップ、メールの送信。

13時、身支度。
化粧を終えたところで、鏡の前でボディチェック。
お腹の脂肪は、まずまず落ちたけど、背中の脂肪が・・・・なかなか落ちない。
洋服をすっきり着るには、あと4kgくらい落としたい(第2次目標)。

黒と白の大きな市松のトップに黒のタイトスカート(ちょっとラメ入り)。
髪は自毛をセット。

広尾の都立中央図書館へ。
久しぶりに新聞記事のコピー作業。
ほとんどの新聞情報は、インターネットでも見ることができるが、資料としての保存を考えると、やはりオリジナルのコピーが欲しくなる。
都立中央図書館の新聞資料室は、開架閲覧が当月を含めて3カ月で、それを過ぎると閉架になる(書庫にしまわれる)ので、適当なタイミングで訪れることにしている。

主に性同一性障害・同性愛関係の記事をコピーする。
「下野新聞」が6月から週1連載している「月たちのパズル-性的マイノリティー-」も10回分をコピーする。
こうした地方新聞が、性的マイノリティーの特集を組むようになったのは、とても有意義なことなのだが、問題はその内容。
連載は、性同一性障害(1~5・9)、レズビアン(6・9)、ゲイ(7~9)と続いて、高齢者の性(10)。
トランスジェンダーは見事なまでに無視。

栃木県にはトランスジェンダーはいないのか(← いないのだろう)。
あるいは存在しても、トランスジェンダーは性的マイノリティーの範疇に入らないという認識なのか(← 入らないのだろう)。
まあ、無視されること、存在を消されることには、私はもう慣れっこなのだが。

ところで、こうした資料収集作業、性同一性障害の人にとっては、なかなか難しいことに改めて気付く。
性別にいささかなりとも怪しいところがある人が、性同一性障害の記事ばかりをコピーしていたら、まずもってバレバレになるからだ。
自分の生来の性別を知られたくない性同一性障害の人には、きっとキツイ作業だろう。
「厚顔無恥」(← 以前、性同一性障害の人に言われた言葉)な私だからこそ、できる作業なのかも。

少し腹が立ったので、気分直しに、『美しいキモノ』隔号連載の山下悦子「メモワール・シリーズ」をコピーする。
「半衿のメモワール」「帯〆・帯留のメモワール」「着つけの移り変わりのメモワール」の3回分。
こうした地道で良質な仕事が、着物世界であまり顧みられないのはなぜなのだろう?

コピー作業の後、コンピューターで最近の関係図書を検索。
「性同一性障害」をキーワードにして検索をかけたが、今年になっての本は1冊もヒットしなかった。「性同一性障害」ブームは過ぎ去ろうとしてるのか。
ちなみに「トランスジェンダー」は1冊ヒットしたが、自分の本(共著)だった。

2時間半ほど頑張って退館。
有栖川公園で、10年後が楽しみな超かわいい金髪の少女が遊んでいた。
でもたぶん10年後には彼女は日本にいないだろう。
私も生きてないかもしれないし・・・・。

公園下の通り沿いの「Segafredo」という喫茶店で休息。
ここのサンドイッチ、なかなかおいしいので、中央図書館に来たときにはよく寄る。
いつもお客の半分くらいが外国人。その多国籍さがいかにも広尾らしい。

広尾の街に比べたら超庶民的な地元の駅前商店街のドラッグ・ストアーで、シャンプーとコンディショナー、化粧コットンに綿棒など、いろいろ買い物。
シャンプーとコンディショナーは、Laxスーパー・リッチ。
きれいなお姉さんの長い髪の上に猫が寝ていて、お姉さんが髪をシュルシュル抜いても猫が目を覚まさないほど、滑らかな髪質になるというコマーシャルのあれ。
寝てる間に髪に猫が乗っても気づかないというのはどういう状況なのか?とか、あの猫は撮影の時、麻酔薬をかがされてるのでは?などという突っ込みを入れたくなるが、ともかく、あのコマーシャルに影響されて買ってしまったのだから、コマーシャル制作者の勝ち。

18時半、仕事場に戻る。

2005年07月01日「異業種交流会」 [現代の性(性別越境・性別移行)]

2005年07月01日 異業種交流会

7月1日(金) 曇り時々小雨 蒸し暑い
10時半、起床。
朝昼ご飯は、トースト1枚、スモークサーモン3枚、きゅうりとタマネギのスライス。

「市民の日」とかで学校が休みの子供と、フジTV「笑っていいとも」を見ながらおしゃべり。
このまま遊んでいてやりたかったが、仕事だから仕方が無い。

午後、短大の講義。

17時半、仕事場に戻る。
シャワーを浴びて、大急ぎで身支度。

昨日と同じ、薄緑色に笹模様の綿紅梅。下は萌黄色吸い上げ暈しの麻の半襟をつけた半襦袢。
赤と黒の半幅帯を角出しに結ぶ。今日は、角を開いて、少しかわいくしてみる。
若草色の吸い上げ暈しの帯締でアクセント。

19時、支度完了。
正味50分!
昔は、2時間かかってたのだから、ずいぶん早くなった。

東横線、山の手線を乗り継いで新宿へ。
西口のサラリーマン客が群れている居酒屋で、京都から東京にわざわざお酒を飲みに来たIさんを囲んで、異業種交流会。
メンバーは、教員2名、公務員(含 財団)2名、テレビ関係者2名、医師1名、怪しい人(私)1名。
性別は、女性2名、男性3名、MTFGID2名、怪しい人(私)1名。

4時間近く、歓談、放談、密談。
大いに盛り上がり、「性」という文字を連発して、店や周囲のおじさんたちに迷惑をかける。

話の途中、脈絡無く思い付いたこと。

女装者は(たぶんニューハーフも)泳ぐのが好きな人が多いように思う。
私が以前、主催していた旅行でも、夏はプールのあるホテルをセレクトしたし、私は参加したことがないが、少し前まで毎年、知多半島(愛知県)で海水浴するイベントがあった。
それに対して性同一性障害者(MTF 男性から女性へ)は泳ぐ話をほとんど聞かないように思う(あくまで主観)。

なぜだろう?
やっぱり性同一性障害者の方が、身体違和感が強いからだろうか?

なんて考えていたら、MTFGIDの人から「えっ? 水着は?」と質問された。
「そんなの当たり前じゃん。女装の娘が男の水泳パンツで泳いだって意味ないでしょう。ワンピースだったり、セパレーツだったり、ビキニだったりいろいろだけど、ちゃんと女性水着で泳ぐわよ」と答えたら、怪訝な顔をされた。
981114-1.JPG
↑ 昔の写真で恐縮ですが・・・ 1998年11月 伊豆伊東「サン・ハトヤ」のプールで。

まあ、確かに水着で泳ぐというのは、ジェンダーの転換技術の中でも、かなり高度な部類かもしれないが、ウチのグループの「姐ちゃん」たちは、皆それほど苦も無くこなしてた。
(ちなみに、誤解の無いように付け加えると、着替えは、ホテルの部屋で済ますか、仕方ない場合は男性更衣室を使います → たいてい大騒ぎになるけど)

どうも、女装者と、GIDの人との間には、いろいろ文化(ジェンダーの転換技術)に差があるようだ。

さらに考える。
では、なぜ女装者は、ジェンダーの転換技術=女性ジェンダーの獲得に強く執着するのか?

答えは、そうしなければ「女」として認めてもらえなかったから。
平均的な女性以上の化粧テクニック、ファッションセンス、しぐさ、気配り(Gender Role)、言い寄ってくる男の性欲に対応する技術を身につけ、「あんた、女らしいね」と言われない限り、だれも石をぶつけこそすれ、「女」とは認めてくれなかった。
だから、「女」とは認めてほしい人は必死の思いで技術を身に付けた。

私たちの時代なんてまだまだ甘い方で、座った時、膝頭に隙間があっても竹の物差しでピシャと叩かれるようなことはなかった。せいぜい手のひらで叩かれるぐらいだ。

基本的にはアマチュア~セミプロの私たちの世界ですらそうだったのだから、ジェンダーの縛りがきつかったもう一つ二つ上の世代のプロフェッショナルな「お姐さん」たちの時代は、文字通り血の出るような修行だったらしい。
日本舞踊は必須課目だし(女性的な身のこなしを身に付けるため)、着物の着付が自分でできるのも当たり前、嘘ではなく内股に紙を挟んで落とさないように歩く練習をした世代だ。

現代の性同一性障害者の場合、極端な例で言えば、ジェンダーの転換技術=女性ジェンダーの獲得をほとんどしていなくても、医者が「あなたは性同一性障害です。あなたの心は女性です」と認めてくれる。
診断書を示せば、世間も人権的配慮から当事者の望みの性(女性)として扱ってくれることになっている(←本当だろうか?)。
それで、性別違和感を満たされる人は、なにも苦労して化粧のテクニックを覚えたり、大股開いてすわらないよういつも注意していたりする必要はない。
最終的に、性器の外形を女性に似せる手術をして、医師の診断書をもらって家裁に提出して戸籍も女性に変えてしまえば、もう世間の誰もが女性だと認めるしかない。

つまり、女装者が「女」になるためには、女性ジェンダーの獲得は必須だが、性同一性障害者が女性になるためには、女性ジェンダーの獲得は必須条件とはされていないということ。

つくづく「良い時代」になったものである。

さらに思う。
これは、フィギアスケートとか体操競技なので、ときどきある「採点基準」の変更にたとえることができる。
私たちの時代の採点基準は、芸術点(どれだけ美しいか)+技術点(どれだけ「女らしいか」=女性ジェンダーの獲得度)だった。
採点配分は6対4くらいだろうか。審判は一般の人(世間)だった。

現在の採点基準は、認定点(専門医の診断)と技術点(女性ジェンダーの獲得度)で、採点配分は8対2くらいだろう。審判は医師と家庭裁判所の審判官である。
これだけ採点基準が異なれば、結果(成績順位)も変わってきて当然だ。
以前の採点基準では予選落ちでも、新しい採点基準なら表彰台に上がれる。
もちろん逆のこともあるだろう。

誤解のないように付け加えれば、私はどちらのやり方が正しいとか、間違っているとか言っているわけではない。
そもそも性同一性障害というシステムが、お上(政府)や学問的権威(医師・法学者)に裏付けられて確立してしまった以上、古い時代のやり方を主張したところで受け入れられるはずがない。

私はもうあきらめている。
私たちのようなジェンダーの転換技術=女性ジェンダーの獲得を重視する旧世代は、もう死に絶えていくだけなのだ。
そして、弥生時代以来少なくとも二千年の伝統をもつ日本の性別越境の文化は消えていく。
私は、せめてその最後の光芒を記録にとどめる仕事をしたいと思う。

0時過ぎ、やっとお開き。
0時30分の山の手線で目黒駅まで行き、1時過ぎ、タクシーで仕事場へ戻る。
メールチェックをして、この「日記」を書き、シャワーを浴びて寝る。
就寝3時(仕事場)。


2005年05月17日  『セクシュアル・サイエンス』の座談会 [現代の性(性別越境・性別移行)]

2005年05月17日  『セクシュアル・サイエンス』の座談会
5月17日(火) 晴れ

10時起床。
少し寝坊。眠い。

朝ご飯もそこそこに、仕事場に移動。
メールチェックの後、身支度。
だいぶ暖かなので、今年初めて単を着る。
でも夜のことを考えて、長襦袢は袷。

黒地に青緑の牡丹柄の伊勢崎銘仙(単)、赤字に銀糸で薔薇の模様の帯。帯揚は薄緑、帯締は萌黄。

14時、家を出て日比谷経由で有楽町線の麹町駅へ。
15時前、日本テレビ近くのメディカル・トリビューン社に着く。
今日は、オンラインマガジン『セクシュアル・サイエンス』の座談会。
メンバーは、杉浦郁子さん(中央大学講師)、石田仁さん(中央大学大学院)と私の3人。
テーマは「戦後日本トランスジェンダー社会史研究会」について。
司会は編集部の川辺金蔵さん。

杉浦さん、石田さんは、座談会は初体験だそうだ。
駆け出しの頃から、対談や座談会の仕事が多かった私にはかなり意外。
でも、普通の(まともな)研究者はそうなのだろう。

ということで、出だしは、なかなかスムーズにいかず、どうなることかと思ったが、後半はまずまず話が出たので一安心。
3時間ほど録音を取った後、近くのカレー料理の名店「アジャンタ」でご馳走になる。
インド料理でビールを飲みながら、また3時間ほどオフレコのおしゃべり。

川辺さんにご挨拶して、3人で市ヶ谷駅まで歩く。
今回の座談会は、研究会の「中締め」のような意味で私が企画した。
矢島教授と杉浦さん、それに私の3人で「戦後日本トランスジェンダー社会史研究会」を作って6年、それなりにがんばって成果(報告書や論文)を出すことができた。
杉浦さんと二人で神楽坂の風俗文献資料館に通い詰めたことや、石田さんを含めた3人で名古屋近郊の美島弥生さんのお宅に何度も調査出張したことを思い出す。
これからも研究会は続けるし、研究ももっと深化させなければならないが、少し感慨深かった。

22時半、南北線目黒経由で仕事場に戻る。
たまっている「日記」を書こうと思いながら、新聞を読んでいる内に、ビールの酔いが残っていたせいか眠くなり、そのまま寝てしまう。

就寝1時(仕事場)。

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