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2005年07月01日「異業種交流会」 [現代の性(性別越境・性別移行)]

2005年07月01日 異業種交流会

7月1日(金) 曇り時々小雨 蒸し暑い
10時半、起床。
朝昼ご飯は、トースト1枚、スモークサーモン3枚、きゅうりとタマネギのスライス。

「市民の日」とかで学校が休みの子供と、フジTV「笑っていいとも」を見ながらおしゃべり。
このまま遊んでいてやりたかったが、仕事だから仕方が無い。

午後、短大の講義。

17時半、仕事場に戻る。
シャワーを浴びて、大急ぎで身支度。

昨日と同じ、薄緑色に笹模様の綿紅梅。下は萌黄色吸い上げ暈しの麻の半襟をつけた半襦袢。
赤と黒の半幅帯を角出しに結ぶ。今日は、角を開いて、少しかわいくしてみる。
若草色の吸い上げ暈しの帯締でアクセント。

19時、支度完了。
正味50分!
昔は、2時間かかってたのだから、ずいぶん早くなった。

東横線、山の手線を乗り継いで新宿へ。
西口のサラリーマン客が群れている居酒屋で、京都から東京にわざわざお酒を飲みに来たIさんを囲んで、異業種交流会。
メンバーは、教員2名、公務員(含 財団)2名、テレビ関係者2名、医師1名、怪しい人(私)1名。
性別は、女性2名、男性3名、MTFGID2名、怪しい人(私)1名。

4時間近く、歓談、放談、密談。
大いに盛り上がり、「性」という文字を連発して、店や周囲のおじさんたちに迷惑をかける。

話の途中、脈絡無く思い付いたこと。

女装者は(たぶんニューハーフも)泳ぐのが好きな人が多いように思う。
私が以前、主催していた旅行でも、夏はプールのあるホテルをセレクトしたし、私は参加したことがないが、少し前まで毎年、知多半島(愛知県)で海水浴するイベントがあった。
それに対して性同一性障害者(MTF 男性から女性へ)は泳ぐ話をほとんど聞かないように思う(あくまで主観)。

なぜだろう?
やっぱり性同一性障害者の方が、身体違和感が強いからだろうか?

なんて考えていたら、MTFGIDの人から「えっ? 水着は?」と質問された。
「そんなの当たり前じゃん。女装の娘が男の水泳パンツで泳いだって意味ないでしょう。ワンピースだったり、セパレーツだったり、ビキニだったりいろいろだけど、ちゃんと女性水着で泳ぐわよ」と答えたら、怪訝な顔をされた。
981114-1.JPG
↑ 昔の写真で恐縮ですが・・・ 1998年11月 伊豆伊東「サン・ハトヤ」のプールで。

まあ、確かに水着で泳ぐというのは、ジェンダーの転換技術の中でも、かなり高度な部類かもしれないが、ウチのグループの「姐ちゃん」たちは、皆それほど苦も無くこなしてた。
(ちなみに、誤解の無いように付け加えると、着替えは、ホテルの部屋で済ますか、仕方ない場合は男性更衣室を使います → たいてい大騒ぎになるけど)

どうも、女装者と、GIDの人との間には、いろいろ文化(ジェンダーの転換技術)に差があるようだ。

さらに考える。
では、なぜ女装者は、ジェンダーの転換技術=女性ジェンダーの獲得に強く執着するのか?

答えは、そうしなければ「女」として認めてもらえなかったから。
平均的な女性以上の化粧テクニック、ファッションセンス、しぐさ、気配り(Gender Role)、言い寄ってくる男の性欲に対応する技術を身につけ、「あんた、女らしいね」と言われない限り、だれも石をぶつけこそすれ、「女」とは認めてくれなかった。
だから、「女」とは認めてほしい人は必死の思いで技術を身に付けた。

私たちの時代なんてまだまだ甘い方で、座った時、膝頭に隙間があっても竹の物差しでピシャと叩かれるようなことはなかった。せいぜい手のひらで叩かれるぐらいだ。

基本的にはアマチュア~セミプロの私たちの世界ですらそうだったのだから、ジェンダーの縛りがきつかったもう一つ二つ上の世代のプロフェッショナルな「お姐さん」たちの時代は、文字通り血の出るような修行だったらしい。
日本舞踊は必須課目だし(女性的な身のこなしを身に付けるため)、着物の着付が自分でできるのも当たり前、嘘ではなく内股に紙を挟んで落とさないように歩く練習をした世代だ。

現代の性同一性障害者の場合、極端な例で言えば、ジェンダーの転換技術=女性ジェンダーの獲得をほとんどしていなくても、医者が「あなたは性同一性障害です。あなたの心は女性です」と認めてくれる。
診断書を示せば、世間も人権的配慮から当事者の望みの性(女性)として扱ってくれることになっている(←本当だろうか?)。
それで、性別違和感を満たされる人は、なにも苦労して化粧のテクニックを覚えたり、大股開いてすわらないよういつも注意していたりする必要はない。
最終的に、性器の外形を女性に似せる手術をして、医師の診断書をもらって家裁に提出して戸籍も女性に変えてしまえば、もう世間の誰もが女性だと認めるしかない。

つまり、女装者が「女」になるためには、女性ジェンダーの獲得は必須だが、性同一性障害者が女性になるためには、女性ジェンダーの獲得は必須条件とはされていないということ。

つくづく「良い時代」になったものである。

さらに思う。
これは、フィギアスケートとか体操競技なので、ときどきある「採点基準」の変更にたとえることができる。
私たちの時代の採点基準は、芸術点(どれだけ美しいか)+技術点(どれだけ「女らしいか」=女性ジェンダーの獲得度)だった。
採点配分は6対4くらいだろうか。審判は一般の人(世間)だった。

現在の採点基準は、認定点(専門医の診断)と技術点(女性ジェンダーの獲得度)で、採点配分は8対2くらいだろう。審判は医師と家庭裁判所の審判官である。
これだけ採点基準が異なれば、結果(成績順位)も変わってきて当然だ。
以前の採点基準では予選落ちでも、新しい採点基準なら表彰台に上がれる。
もちろん逆のこともあるだろう。

誤解のないように付け加えれば、私はどちらのやり方が正しいとか、間違っているとか言っているわけではない。
そもそも性同一性障害というシステムが、お上(政府)や学問的権威(医師・法学者)に裏付けられて確立してしまった以上、古い時代のやり方を主張したところで受け入れられるはずがない。

私はもうあきらめている。
私たちのようなジェンダーの転換技術=女性ジェンダーの獲得を重視する旧世代は、もう死に絶えていくだけなのだ。
そして、弥生時代以来少なくとも二千年の伝統をもつ日本の性別越境の文化は消えていく。
私は、せめてその最後の光芒を記録にとどめる仕事をしたいと思う。

0時過ぎ、やっとお開き。
0時30分の山の手線で目黒駅まで行き、1時過ぎ、タクシーで仕事場へ戻る。
メールチェックをして、この「日記」を書き、シャワーを浴びて寝る。
就寝3時(仕事場)。


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