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2006年10月19日 メキシコ・ドキュメンタリー映画祭「ムーシェス:アタシたちの楽園を求めて」 [現代の性(性別越境・性別移行)]

2006年10月19日 メキシコ・ドキュメンタリー映画祭「ムーシェス:アタシたちの楽園を求めて」

渋谷円山町の「ユーロスペース」で開催中の「メキシコ・ドキュメンタリー映画祭」の参加作品「ムーシェス:アタシたちの楽園を求めて」(アレハンドラ・イスラス監督 2005年)を見る。

実は、この映画祭のことも、この作品のことも、まったく知らなかった。
ところが、今週の初め頃、私が昨年書いた「日記」の内容(世界各地のサード・ジェンダー)に、この映画祭に関連してトラックバックをつけてくださった方がいて、お陰で情報を得ることができた。

「ムーシェス:アタシたちの楽園を求めて」の舞台、メキシコ南部オアハカ州の小さな街フチタンには、母系制社会が色濃く残り、そこにはムーシェと呼ばれるサード・ジェンダーが、社会の成員として認められている。

その特異性は、アメリカの民族学者ヴェロニカ・ベンホルト=トムンゼンの『女の町フチタン-メキシコの母系制社会-』(藤原書店 1996年)で日本にも紹介され、「おんなの町 フチタン-南メキシコ・サポテカ族の陽気な人々-」(フジテレビ 2000年2月27日)というテレビ・ドキュメンタリー番組も放送された。

それらから得た知見として、私は、ムーシェを母系制社会に育まれた女性の相談役・互助者としてのサード・ジェンダー(MtFのトランスジェンダーを多く含む)と認識していた。

したがって、映画祭のパンフレットの解説の「サポテカ語で『ムーシェ』と呼ばれるゲイの男性たち」「フチタンの小さな町の中で、カミングアウトし、支え合いながら自らの楽園を築こうとしている」という文章を見たとき、かなりの違和感を覚えた。
えっ?「ゲイの男性たち」?、「カミングアウト」?、そういう文脈じゃないと思うけど・・・・。

ところが、実際に映像を見てびっくり。
ムーシェスたちのゲイ化が著しく進行している!。
男装のムーシェのカップルの言動は、メキシコ人的容貌を除けば、アメリカのゲイのカップルのそれとまったく変わりはない。
派手派手に着飾ってパーティーでパフォーマンスする女装のムーシェたちの在り様には、アメリカのドラァグ・クイーン(女装のゲイのマフォーマー)の影響が明らかに見られる。

さらにショックだったのは、女性たちとムーシェスの対立の激化。
映画では、ある女性による女装のムーシェス批判が、3度にわたって語られる。
批判の要点は、女装のムーシェスが、女性たちの祭に参加して、派手な衣装で目立ちまくるり、女性の影を薄くしていること、女装のムーシェスの行儀の悪さ、たしなみのなさ、女性の親密空間である女性トイレへの侵入etc。
結果として、女装のムーシェスは女の祭への参加を拒絶されてしまう。

過去における女性たちとムーシェスの親密な互助的関係、母系性社会に育まれたサード・ジェンダー的在り様を知るものには、信じられないような変化である。

その原因は、批判者の女性の「ムーシェスは変わってしまった。昔はもっとつつましやかだったのに」という言葉に見て取れる。
つまり、ゲイ・レボリューションの影響を受けた女装のムーシェスたちが、自分たちの存在に自信を持ち、女性たちの相談役、裏方から表舞台に出てきたことによって、女性たちとの軋轢、利害対立が増したのだろう。

また、女性の側、特にこの批判者の女性の言説には、男女の区分を明確に意識するフェミニズムの影響が感じられた。
その結果として、「あいまいな性」として女性たちに許容されてきた女装のムーシェスを、はっきり「女装した男性(ゲイ)」と見なす考え方が強まっているのだろう。

こうした変化は、「ムーシェス」という言葉が「ゲイ」という外来語(アメリカ語)に置き換えられた段階で、ムーシェスの在り様(文化)もゲイ化していったと考えることができる。
つまり、マイナー・セクシュアリティの世界におけるグローバリゼーションである。
ゲイ・レボリューション以後に確立したアメリカのゲイ文化が、何10年かしてメキシコの辺境の街にも及び、土着的なジェンダー/セクシュアリティの在り様(ムーシェス)に強い影響を与え、固有の文化を壊し、覆い尽くしていく過程とみることができる。

ラストは、女の祭への参加を拒絶されたムーシェスが、自らの手で自分たちの祭(ドラァグ・パーティ)を成功させ、レインボー・フラッグ(LGBTの連帯の象徴)を掲げて浜辺を行進するシーンで終わる。レインボー・フラッグは「アタシたちの楽園を求めて」の達成の表象として使われている。

こうしたフチタンのムーシェスの変化を「近代化・進歩・解放」と見るか(この監督をはじめ多くの人は、その立場)、「伝統と固有文化の破壊」と見るか(私はこちらの立場)は、評価が分かれるところだろう。

その一方で、映像は、母親から教わった刺繍の技術を生業として母親とともに生きる女装(伝統衣装)のムーシェ(かなり太めだけども笑顔がすてき、母親と瓜二つ)や、女性の相談に乗りながらウェディング・ドレスをデザインし製作する洋裁業の女装(洋装)のムーシェ(いちばん美形。ファッションセンスNo1)の姿も記録している。

フチタンのムーシェスの変質は、彼/彼女らがゲイ文化の受容を望んでいる以上、もう誰も止めることはできないだろう。
だからこそ、私は、母系制社会の中での、女性の相談役、互助者であるムーシェの伝統を守って生きる彼女たちの姿に、限りない共感と愛惜の思いを抱く。

ところで、フチタンのムーシェスの世界でもエイズ(AIDS)が深刻な影響を与えている。
この映画の後半の4分の1ほどは、エイズ予防の啓蒙運動に焦点が当てられているが、すでに何人もムーシェスが命を落としていることが語られる。
そうした文脈の中で、ある男装のムーシェが、エイズが家庭の女性たちにまで広まった原因について「バイセクシュアルが犯人だ」と断言するシーンがある。
まさに典型的なバイセクシュアル差別の言説で、驚いてしまった(後のシーンで、ヘテロセクシュアルな出稼ぎ男性たちが感染源であることが語られるが)。
バイセクシュアル差別もまたアメリカゲイ文化の影響=グローバリゼーションなのだろう。

固有のマイナー・セクシュアリティの在り様が、欧米の類似の「文化」が移入のされることによって影響され変質させられ固有の在り様が失われていくという過程は、過去の日本で何度も繰り返されたことである。
ムーシェスの変質は、かなりショックだった。
しかし、過去の日本で起こった同じような現象を振り返るという意味で、まさに現在それが進行しているフチタンの状況を知ることができたのは大きな収穫だった。

この映画、なんとかDVDを手に入れて、きちんとした紹介・研究批評をしてみたいと思った。
どなたか知りませんが、トラックバックをつけてくださった方、ありがとうございました。
勉強させていただき、感謝してます。

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