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2009年03月11日 昭和初年の東北の遊廓(その2:経営規模) [性社会史研究(遊廓)]

2009年03月11日 昭和初年の東北の遊廓(その2:経営規模)

3月11日(水)

東北の遊郭の経営規模について、質問がありましたので、1軒あたりの娼妓数(括弧の中の数値)を計算してみました。

資料は、例によって、上村行彰著『日本遊里史』(1929年)所収の「日本全国遊廓一覧」です。

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【県別:1軒あたりの娼妓数の順】 
宮城県 14ヵ所  60軒 632人(10.53)
福島県 27ヵ所 115軒 651人(5.66)
山形県 25ヵ所 172軒 834人(4.85)
岩手県 18ヵ所  92軒 330人(3.59)
秋田県 10ヵ所  74軒 263人(3.55)
青森県 15ヵ所 147軒 460人(3.12)

【指定地別(娼妓数50人以上):1軒あたりの娼妓数の順】

1 宮城県仙台市小田原             32軒 271人(8.47)
2 山形県山形市(小姓町)           22軒 169人(7.68)
15 福島県信夫郡瀬上町              7軒 52人(7.43)
9 福島県北会津郡町北村            10軒 68人(6.80)
11 福島県福島市(一本杉)           10軒 61人(6.10)
13 秋田県秋田市保戸堂裏・鉄砲町(新地)  10軒 58人(5.80)
14 山形県米沢市                 10軒 56人(5.60)
12 岩手県盛岡市八幡町             12軒 59人(4.92)
3 山形県西田川郡鶴岡町            29軒 134人(4.62)
10 福島県西白河郡白河町            14軒 63人(4.50)
5 青森県弘前市北横町             25軒 104人(4.16)
6 青森県青森市大字長島(吉原)        22軒 95人(4.32)
8 秋田県山本郡能代港町新柳町        18軒 71人(3.94)
4 山形県飽海郡酒田町             32軒 105人(3.28)
7 青森家三戸郡小中野村大字小中野(新地) 36軒 81人(2.25)


【比較参考】
東京府浅草区千束町(新吉原) 228軒 2362人(10.36)
東京府深川区洲崎弁天町(洲崎) 183軒 1937人(10.58)
東京府豊多摩郡内藤新宿町(新宿) 56軒 570人(10.18)
大阪府大阪市西区(松島)      275軒 3725人(13.55)
神奈川県横浜市永楽町        36軒  747人(20.75)
神奈川県横浜市真金町        42軒 754人(17.95)  


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県別の数値から。
宮城県の1軒あたりの娼妓数(10.53人)が際立って多い。
2位の山形県のほぼ2倍、秋田県や青森県のほぼ3倍で、【比較参考】の東京の新吉原、洲崎、新宿遊廓とほぼ同じ値になっている。
仮に1軒あたりの娼妓数≒娼家の経営規模と考えれば(注)、同じ東北地方でも相当な格差があり、宮城県だけは東京並みということになる。

個別の数値では、単純に娼妓数で並べたランキングと同じく、宮城県仙台市の小田原遊廓が8.47人でトップ、2位も山形県山形市小姓町で変わりはない。
しかし、3~5位に福島県の遊廓が下位から上がってきている。
全般的に、南東北の遊郭の方が、北東北に比べて、1軒あたりの娼妓数が多い≒娼家の経営規模が大きい傾向があるように見える。

ちなみに、【比較参考】に挙げておいた東京の遊廓は、江戸時代以来の老舗の新吉原、明治期成立の洲崎、そして新興の新宿も、ほぼ同じ数値(1軒あたり10人強)になっている。

日本最大の遊廓である大阪の松島遊廓では、1軒あたり13~14人となる。
また、1軒あたりの娼妓数が多いのは、神奈川県横浜市の遊廓で、永楽町は1軒あたり20人を越え、あくまでも平均値だが、新吉原のほぼ2倍で、経営規模の大きな店が揃っていたことがうかがえる。

(注)娼妓と芸妓が混在している色街で、しかも芸妓が中心になっている場所では、1軒あたりの娼妓数≒経営規模という法則は成り立たない。

たとえば、京都市下京区の祇園甲部では、408軒に対して娼妓数86人で、1軒あたりの娼妓数は0.21人に過ぎない。



2012年07月03日 保険証の性別、裏表記もOK [仮置き(引用のため)]

2012年07月03日 保険証の性別、裏表記もOK

7月3日(火)
たしかに川崎市の国民健康保険のカードは、性別記載の文字が一回り大きくて、やたらと目立つ。
気分的に良くないのは確かだけど、大きく書いてあるのは、その必要があるから。

救急搬送など緊急性を要する医療の場合、その人が男性の身体か、女性の身体かというのは診断の重要な要素になる。

そういう意味で「性別表記の削除」をしてしまうと医療面でマイナスがある。

まあ、「裏に表記する」というのは、便宜的ではあるけども、ひとつのアイデアかもしれない。
と思って裏面を見たら、川崎市の場合、裏はドナーカードになっていた。

【追記(19時)】
朝、大学の講義に出掛ける前にウチで購読している『朝日新聞』の記事(だけ)を見て、上のコメントを書いた。
ところが帰宅してWebで『読売新聞』を見ると、どうも必ずしも拍手できない話のようだ。

『朝日』の記事だと、裏面に「男」とだけ書いてあるように読めるが、『読売』によると、表面に性別記載がなく、裏面の備考欄に「戸籍上の性別、男性(性同一性障がいのため)」と記されているとのこと。

う~ん、なんでここで病名(精神疾患名)が記されるのか?
それと、わざわざ「戸籍上の性別、男性」と記す論理がわからない。
表面に「女」と記し、その説明として裏の備考欄に「戸籍上の性別、男性」と注記するのなら論理的に理解できるが・・・。
ほんとうにこの措置で、ご当人は喜んでいるのだろうか?

性別が裏面に記載されている保険証なら私も欲しいけど、そんな精神疾患名が注記されるような保険証は欲しいと思わない。
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保険証の性別、裏表記もOK 性同一性障害、松江市対応

心と体の性が一致しない「性同一性障害」と診断された松江市の上田地優(ちひろ)さん(54)が、国民健康保険証の性別表記の削除を求めたところ、市が2日、裏面だけに性別を表記した新たな保険証を交付した。厚生労働省によると、こうしたケースは「これまで聞いたことがない」という。

上田さんは戸籍上は男性だが、性別適合手術を受けずに女性として生活している。5年前から保険証の性別表記をめぐって市や厚労省に要望を出してきた。

市の保険証が4月に個人用のカード型に切り替わり、性別表記が目立つようになったことから「病院に行きづらい。生きる権利が侵されている」と訴えていた。上田さんは「思いを伝えれば動くんだなと思った」と対応を評価した。
『朝日新聞』2012年7月3日1時38分
http://www.asahi.com/national/update/0703/OSK201207020181.html
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性別記載なしの保険証交付 性同一性障害の団体代表に…松江市

松江市は2日、心と体の性が一致しない「性同一性障害」と診断された市民団体代表、上田地優(ちひろ)さん(54)に対し、性別欄に男女別を記載しない新たな国民健康保険証を交付した。上田さんは「男性と記された保険証を示すのは精神的に苦痛」として、5年前から保険証の記載を「男性」から「女性」に変更するよう市に要望していた。厚生労働省によると、性同一性障害を巡り、本人の要望で保険証の表記を変更したのは全国初という。

市によると、新たな保険証では、目に付きやすい表紙の性別欄に男女別を記載せず、裏面の備考欄に「戸籍上の性別、男性(性同一性障がいのため)」と記している。市は本人の要望を受けて同省などと協議、保険証表記の変更を決定した。

上田さんは2006年に性同一性障害と診断され、翌年、戸籍名を変更。性別適合手術を受けておらず、戸籍上は男性のままになっている。上田さんは「時間がかかったが、大きな前進。誠心誠意の思いが通じてうれしい」と話している。
『読売新聞』2012年7月3日
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120703-OYO1T00336.htm
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性同一性障害:性別、保険証裏に記載 松江市、「提示苦痛」訴え受け

心と体の性が一致しない「性同一性障害」(GID)と診断された松江市の上田地優(ちひろ)さん(54)に、市が2日、国民健康保険証の表にある性別欄に性別を記載せず、裏面に特記事項として戸籍上の性別を記した保険証を新たに交付したことが分かった。GIDの当事者は、性別適合手術や家裁の審判を経て戸籍を変更すれば、保険証の性別も変えられる。厚生労働省によると、戸籍の変更はせず、保険証の表記方法を変えたのは「把握している範囲では全国初」という。

上田さんは06年1月にGIDの診断を受けた。今年4月に保険証がカード化され、性別表記が目立つようになったため「医療機関で保険証を提示するのが苦痛」と市側に訴えていた。同市は島根県や厚労省と対応策を協議して先月、裏面記載を提案。厚労省も「問題はない」として市の方針を容認。同市保険年金課は「(上田さんが)困っていたので国などに問い合わせた。緊急避難的に対応した」としている。

上田さんは「市には感謝している。他の自治体も認識を変えなくてはいけないのではないか」と評価している。

市民団体「性と人権ネットワークESTO」の真木柾鷹(まさきまさたか)代表は「周囲の人に保険証を見られ、実生活の性別と異なると疑問に思われる。医療機関を受診するのも楽になるので、こうした動きが広がっていくといい」と話している。【曽根田和久、五味香織】
『毎日新聞』2012年07月03日 東京朝刊
http://mainichi.jp/feature/news/20120703ddm041040091000c.html

2005年12月25日 女装男娼のお値段 [性社会史研究(女装男娼)]

2005年12月25日 女装男娼のお値段

12月25日(日) 晴れ 寒い
(前略)

お風呂に入った後、明日の講義の準備。

寝る前に、また資料読み(主に男娼関係)。

1948~49年ころの、東京上野の女装男娼のお値段(ショート)は200円が相場(実態上の公定値段)であることがわかった。

まだ食料品の統制が残っていたり、インフレーションが進行していた時代で、物価の比較が難しいのだが・・・・。
山の手線初乗り3→5円、郵便封書5→8円、入浴料10円、そば15円、映画館40円、化粧石鹸9円50銭、粉おしろい(1缶)500円、日雇い労働者の日当242円、小学校教員の初任給2000→3991円、公務員(国家公務員上級)の初任給4863円といった感じ。
バラツキが大きく換算が難しいが、だいたい40倍といったところか。

となると、当時の200円は、現在の8000円といった感じ。
ちょっと安い気がするが、1回お仕事すれば、そばが13杯食べられ、お風呂に20回入れるというのは、生活実感としてはかなり良い稼ぎなのではないだろうか。

おもしろいのは、同じ肉体労働である日雇い労働者の日当とほぼ同額であること。
しかし、日雇い労働者は1日で2日分働くことは不可能だが、売れっ妓の男娼はうまくいけば1晩で2人、3人と客が取れる。
もし毎晩、コンスタントにお客があれば(なかなかそうはいかないのだが)、若手の国家公務員(上級)の月給を上回ることになる。

ちなみに、泊まりは500~600円(自宅の場合、旅館利用の場合は宿代別)だったらしい。

日平均1人ショートの客を取り、月の3分の1泊まりの客を取れれば、月収は10000円を越える。
東京都知事の月給が30000円の時代だから、馬鹿にできない額だ。

どうも男娼というと、うらぶれた貧しいイメージを持ってしまうが、戦災から日本が立ち直ってない当時の状況においては、売れっ妓の男娼はかなり稼ぎが良かったことになる。
(もちろん、売れない男娼の生活は貧しいのだが)
男娼稼ぎで資金を貯めて、店(飲み屋)を持った人がけっこういたのも十分に理解できる。

2005年09月05日 女装男娼の資料 [性社会史研究(女装男娼)]

2005年09月05日 女装男娼の資料

9月5日(月) 雨

昭和戦前期の女装男娼の資料ファイルを整理する。

『週刊朝日』1937年(昭和12)11月21日号の「帝都不良狩の決算」という長い記事を追加入力する。

この記事は、この年2月15日夜から警視庁管下90警察署を動員して3日間にわたって一斉に行われた「不良狩り」についての記事だが、7373人の逮捕者の罪状別内訳の中に、こんな項目がある。

(Q)密淫売=十七名(内、男二名)
「密淫売」は無許可売春のことで、女性に適用される罪状で、本来なら男性が含まれるはずはない。
つまりこれは、「密淫売」の容疑で17名の女性を逮捕したら、内2名は実は女装の男性だったということ。

この時、銀座で「好男子」の私服刑事にウインクを送って逮捕されたのは、吉田菊江(22歳)と大谷芳子(21歳)の二人組だったが、「彼女」たちの容姿についてはこのように記述されている。
「和服の上に、若い女事務員らがよく着てゐる例の防寒着を羽織ってゐるが、二人とも断髪デパーマネントウェーブ、派手な錦紗お召の裙(すそ)が下から覗いて見える。それに赤線の濃いマフラーを撒いてなかなかの美人揃ひだ」
連行した刑事は、まったく疑っていなかった。ところが、
「S刑事の連行した二人は立派な麗人と思ひきや、これが嫣然女装で春を売る闇の男であった」とあるように、吉田菊江は渡貫一馬、大谷芳子は山下子郎という名の男性だった。
保安係の刑事の目をくらますほど、見事な女っぷりだったらしい。

ちなみに、当時は「密淫売」の女性を「闇の女」と言った。
そのことから、女装の男娼は、「闇の男」と記されるケースが多い。

まあ、そういう「良く出来た『娘』」(=どう見ても女性に見えるレベルの女装の男性)は、昔も今も少数ながらいたということ。
いや、身体改変の技術水準を考えたら、今の「良く出来た『娘』」よりはるかにすごいことだと思う。
何しろ、まだ女性ホルモンすらほとんど知られていなかった時代なのだから。

おもしろいのは、「S刑事はその後、人間を見分けることにすべて疑問符を感じ出した」と記されていること。
これは現代でも、出来の良いトランスジェンダーに接した後で、一般人がしばしば陥る現象だ。

昭和12年(1937)は、日中戦争が始まった年で、「小春日和の昭和」が終わり、日本がいよいよ戦時体制に入っていく年だ。
この年には、3月に福島ゆみ子(山本太四郎)、4月に田中茂子(田中茂)と、「闇の男」が、逮捕されたことが立て続けに報道されている(逮捕された場所は、いずれも銀座)。

これは、昭和12年ころになって「闇の男」が増えたのではなく、それまでもずっと存在していた女装男娼が、戦時体制への移行にともなう風紀取締まりの強化によって、表面化したということなのだろう。

2005年05月21日 研究発表「都市(東京)における『男色文化』の歴史地理的変遷」 [性社会史研究(性別越境・全般)]

2005年05月21日 研究発表「都市(東京)における『男色文化』の歴史地理的変遷」

5月21日(土) 曇り

9時半、起床。
30分ほど寝坊。
いそいで朝ご飯を食べ、シャワーを浴びて、仕事場に移動。

11時30分、身支度。
黒地に青緑の牡丹柄の伊勢崎銘仙(単)、赤地に銀糸で薔薇を刺繍した帯(「牡丹と薔薇」)。
梔子染の半襟をつけた緋色の長襦袢(袷)、帯揚は芥子色、帯締は萌黄。

13時20分、レジュメの入った重い紙袋をもって東急東横線、山の手線を乗り継いで目白へ。
折良く来たバスに乗って日本女子大学へ。

今日は、現代風俗研究会(東京)「新風俗学教室」で研究発表(15~18時)。
大阪から着物友達で現風研会員の華宵さん、京都から京都精華大学大学院の土井信吾さんが遠路はるばる来てくれる。
その他にも、トランスジェンダー社会史研究会の杉浦郁子さんや石田仁さんも姿を見せてくれて、会場はほぼ満席(約28人ほど)。
うれしい!。

発表は「都市(東京)における『男色文化』の歴史地理的変遷-盛り場の片隅で-」。

江戸時代の陰間茶屋から、昭和戦前期、戦後混乱期、昭和後期、そして現代と、「異性装をともなわない男色文化」と「異性装をともなう男色文化」の2つの系統の文化が、どのような歴史的変遷をたどったか、「盛り場」との地理的関連に注目してたどる試み。

女装の男娼は、戦前から戦後混乱期、浅草→(銀座)→上野と系譜を繋ぎ、1950年代には上野、有楽町、新橋、新宿に展開した。

戦後混乱期に始まるゲイバーは、2つの流れがある。
まず、銀座に始まり、1960年代に新宿2丁目の旧赤線地区に集中して、ゲイタウンを形成する「異性装を(必ずしも)伴わない」ホモセクシュアル系ゲイバーの流れ。
60年後半から70年代前半の急激な集中化をもたらした理由はなんだったのだろうか? 今後の課題。
もうひとつは、新橋→銀座→赤坂・六本木と動いていく「異性装をともなう」女装系ゲイバーの流れ。こちらは1980年代に、ショーを売り物にするニューハーフ・パブとしてリニューアルされる。

前者が「盛り場」の変遷とはあまり連関しないのに対し、後者は東京における「盛り場」の展開に見事に沿っている。
集中と展開、こうした方向性の相違は、二つの男色文化の基本的な性格の相違(ホモセクシュアルか擬似ヘテロセクシュアルか)、営業的には顧客の違いによるのだと思う。

時間が足りなくてかなり話を端折ってしまったし、そもそも特異なテーマなので、会場の方に興味をもってもらえたか、たいへん不安だった。
ところが、討論時間が足りないくらい、いろいろな質問やコメントをいただけて、活発な討議になり一安心。

いずれ、調査や考察の足りない部分を補って、いずれ2~3本くらいに分けて論文にまとめたいと思う。

18時半、いつものように駅に戻る途中の魚料理屋さんで懇親会食。
どういう話の流れだったか忘れたが、川崎の「かなまら神社」(京急川崎大師駅近くの若宮八幡神社)の話題になる。
この神社の祭礼「かなまら祭」は、東京近郊に残る数少ない性神信仰の民俗として、ごく一部の人には有名(ほとんどの川崎市民には知られていない)。

たまたま懇親会で、川崎の民俗文化に関心がある西山郁夫さんと、川崎在住の男性が、私の前に座っていて、その話題で盛り上がる。
もう6年行っていないので、来年4月の「かなまら祭」には、ぜひご一緒したいと思った。

21時過ぎ、目白駅前で三次会に行くメンバーにご挨拶。
ほんとうは、発表者でなのだから、最後までお付きあいしなければいけないのだが、失礼する。

(続く)

2005年05月13日 「盛り場」の移動と女装男娼 [性社会史研究(性別越境・全般)]

2005年05月13日 「盛り場」の移動と女装男娼

5月13日(金) 曇り

10時半、起床。
全身に疲労(コリ)蓄積状態。
朝昼ご飯の後、レジュメの加筆作業を2時間ほど。

午後、郵便局に寄った後、短大の講義へ。
途中の乗り換え駅で、マッサージ屋(てもみん)が開業しているのを見つける。
時間の余裕があったので、我慢できず入ってしまう。
首と肩の施療20分。
幸い上手な人でかなり楽になる。

駅の喫茶店でコーヒーを飲みながら『ニューハーフ倶楽部』のエッセーの校正を電話で連絡。
まったく、もう忙しい。

講義を終えて、夕方、仕事部屋でメールのチェックと調べもの。

21時、帰宅。

夕食は、昨夜のシチューの残りを牛肉ときのこで増量。

お風呂に入った後、またレジュメの執筆。
江戸期の部分に図版を貼り込む作業の後、昭和戦前期をまとめる。
昭和8年(1933)頃を境に、女装男娼の活動の中心が浅草から銀座へと移ったことが、当時の新聞記事などから見て取れる。
早い話、それまでは浅草で捕まっていたのが、昭和8~12年には、銀座での逮捕例が続出する。
銀座は、昭和9年3月に地下鉄が開業し、モガやモボが闊歩するモダン東京の「盛り場」として全盛期を迎える。
江戸以来の伝統をもつ浅草から、モダン全盛の銀座へという「盛り場」の移動に、女装男娼たちもすばやく対応(同調)しているのが興味深い。

4時間半ほど執筆して、疲れ果ててベッドに倒れる。

就寝5時(たぶん)。


2005年05月15日 江戸の陰間茶屋の分布 [性社会史研究(陰間)]

2005年05月15日 江戸の陰間茶屋の分布

5月15日(日)曇り

10時起床(仕事場)。

もう少しゆっくり寝てようと思ったのに、なぜか目が覚めてしまった。
朝ご飯を食べながら、昨日の「日記」を書く。
その後、サイトの更新原稿を作る。

14時頃、急激に眠くなり、耐えられず、昼寝。
2時間ほど倒れていて、やっと気分回復。

18時、早目に帰宅。
夕食は、まぐろとみる貝のお刺し身、鯛のアラの潮汁。

テレビ「義経」などを見た後、早目にお風呂に入る。

23時頃から研究発表用の地図作り。
明治20年の地図に、江戸の陰間茶屋の所在地を貼り込む。
江戸は現在の東京に比べて狭いとはいえ、思っていたより散在している。

日本橋界隈の芝居町(堺町・葺屋町、芳町、木挽町)や大寺院の近隣地(芝神明、湯島天神)は立地的にわかるが、山の手の寺社地(麹町天神、市ヶ谷八幡、赤城明神)に散在する陰間茶屋は誰が利用したのだろう?。
周囲は武家屋敷が多いから、やっぱり武士なのだろうか?

作図作業は1時頃に終え、あとはひたすらレジュメの原稿書き。
4時間ほどかけて、戦後混乱期の男娼とゲイバーについてまとめる。
戦前の女装の男娼は判る限り単独行動のようなので、集団化(組織化)したのは、戦後の上野(ノガミ)が初めてのようだ。

就寝5時半。

日本女装昔話【第34回】大阪の「男娼道場」主、上田笑子 [性社会史研究(女装男娼)]

日本女装昔話【第34回】大阪の「男娼道場」主、上田笑子

前回は、女装男娼の集合写真の分析から、少なくとも大阪では、戦前(1930年代)から、女装男娼の横のつながりがあったことが推測できました。
 
実はその写真に私の興味を強く引く人物が写っていました。
1930年代(昭和5~15年)と推測した屋内での記念写真の右端の「藤井一男 笑子 二十五才」と記された人物です。
この「笑子」が戦後、1950年代から70年代にかけて、大阪釜ケ崎(山王町界隈)で「男娼道場」の主と言われた、上田笑子と同一人物ではないだろうかと気づいたからです。
 
上田笑子については、1958年(昭和33)の「大阪の美人男娼ベストテン」というルポが「この道の草分け」「蔭間茶屋"エミちゃんの家"のママ」、「彼女のシマを"おかまスクール"と呼ぶ」と紹介しています(『増刊・実話と秘録:風俗読本』1958年1月号)。
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↑ (左)1957年、42歳のころの上田笑子(『増刊・実話と秘録』1958年1月号)。
 (右)1930年代、25歳の「笑子」。

また、それから12年たった1970年(昭和45)には「私の"オカマ道場"の卒業生は四千人よ-大阪・釜ケ崎、上田笑子の陽気なゲイ人生-」という記事が週刊誌に載っています(『週刊ポスト』1970年12月25日号)。
そこには、彼女が女装男娼を育成する「男娼道場」を開いて25年になること、育てた子は「もう四千人くらいになりますやろうなァ」「東京の男娼の八割方がたはウチの出やね」と語られています。

これらの記事から、上田笑子のプロフィールを整理してみると、本名は上田廣造、1910年(明治43)奈良県生まれ。
13歳のとき(1923年=大正12)から男娼の仲間に入り、以後、その道一筋。
1945年(昭和20)、つまり、終戦後すぐに「男娼道場」を開設し、多くの後進を育成した、ということになります。

となると、彼女は1935年(昭和10)に25歳だった計算になり、例の1930年代と推定される集合写真の「笑子 二五歳」とぴったり一致してくるのです。
もっとも、本名が、藤井一男と上田廣造でぜんぜん違うのですが、「藤井一男」が偽名の可能性もあり、写真の面差しは、どこか似たものがあるように思います。
 
さて、笑子は「東京の男娼の八割方がたはウチの出」と豪語していますが、実際にそうだったのでしょうか。
8割かどうかを確かめる術はありませんが、どうも女装男娼は、戦前、戦後を通じて、関西(大阪)が本場だったのは確かなようです。
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↑ 大阪釜ケ崎の女装バー「ゆかり」(1957年ころ)
 
戦前、東京の浅草や銀座で逮捕された女装男娼の中にも、関西からの遠征組がかなりいたこと、戦後の東京上野の女装男娼の間でも、関西系が幅をきかしていたことなど、その兆候はいくつもあります。
さらに歴史を遡れば、江戸の歌舞伎の女形、あるいは陰間茶屋の蔭子は、お酒と同じく「下り者」(京・大阪から江戸に下ってきた者)が第一とされ、東育ち(江戸・東国の生まれ)は武骨で使い物にならないとされていました。
 
昭和期の女装男娼の関西優位には、そんな伝統も反映していたのかもしれません。
ただ、関西の状況を記した資料が乏しく、実態不明な点が多いのが残念です。

※ 初出『ニューハーフ倶楽部』57号(2007年8月 三和出版)
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_34.htm

日本女装昔話【第33回】女装男娼の集合写真 [性社会史研究(女装男娼)]

日本女装昔話【第33回】女装男娼の集合写真

前回、ご紹介した『エロ・グロ男娼日記』に関連して、昭和戦前期の女装男娼について調べているうちに、私が所蔵している資料の中の1枚の写真が気になりはじめました。
同性愛者のグループを紹介した週刊誌の記事に掲載されている「大正時代の大阪の男娼たち」というキャプションがついた写真です(写真1)。
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↑  「日本花卉研究会-世にも不思議な社交クラブ-」(『週刊文春』1959年6月15日号)より。

写真には8人の着物姿の「女性」が椅子に腰掛けて並んでいます。
皆それぞれに着飾った姿、それに背景などから、スナップ写真ではなく、ちゃんとした場所で何かの会合の折りに記念撮影的に撮られたもののようです。
しかし、彼女たちが本物の女性でないのは、下部に男性名と女装名(それに年齢)が記されていることからわかります。
印刷が不鮮明なのが残念ですが、皆さん、なかなかの女っぷりで、女装レベルの高さがうかがえます。
 
なぜ、この写真が気になるかというと、理由が2つあります。
ひとつは、写真の時期の問題、直感的に「大正時代」よりももっと新しい昭和戦前期の写真ではないかと思ったのです。
というのは、昭和の着物史を勉強している私の目からすると、左端の「繁子」が着ている幾何学模様の着物(銘仙?)、左から3人目の「百合子」が着ている大柄の模様銘仙?は大正期では早すぎるのです。
この手のモダンな柄は、1930年代(昭和5~15)の流行です。
 
2つ目は、女装男娼の組織化の問題です。
『エロ・グロ男娼日記』の愛子や、昭和2~12年の東京における逮捕事例をみても、戦前期の女装男娼は単独行動で、グループ化の形跡は見られません。
東京の女装男娼が組織化されるのは戦後混乱期の上野において、というのが私の仮説です。

しかし、この写真によれば、少なくとも大阪ではすでに戦前期に、こうした会合をもつ程度には、女装男娼の横のつながりがあったことになります。
 
さらに調べている内に、もう一枚、女装男娼の集合写真らしいものを見つけました(写真2)。
1951年に刊行された井上泰宏『性の誘惑と犯罪』の口絵に掲載されていたものです。
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↑ 井上泰宏『性の誘惑と犯罪』(1951年10月 あまとりあ社)より。

キャプションには「女化男子」とあり、写っている10人が女装の男性であることがわかります。
しかし、撮影時期・場所、どういう人たちなのかは一切記されていません。
 
この写真も、着物史的に見てみましょう。
屋外での撮影ということもあって、10人中7人が大きなショール(肩掛け)を羽織っているのが注目されます。
この手のショールが大流行するのは、やはり1930年代なのです。
写真1でも室内にもかかわらず右から4人目の「お千代」が羽織っています。

というわけで、この写真もまた1930年代のものと推定できます。
当時、アマチュアの女装者はまったく顕在化していないので、彼女たちもまたプロ、つまり女装男娼と考えて間違いないでしょう。
場所が不明なのは残念ですが、やはり集会を開く程度の横のつながりが、すでにあったことが確認できるのです。

※ 初出『ニューハーフ倶楽部』56号(2007年5月 三和出版)
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_33.htm

日本女装昔話 【第32回】 『エロ・グロ男娼日記』の世界(その2) [性社会史研究(女装男娼)]

日本女装昔話 【第32回】 『エロ・グロ男娼日記』の世界(その2)

前回は、昭和6年(1931)に刊行即日発禁処分になった実録(風)小説『エロ・グロ男娼日記』(流山龍之助著 三興社)の主人公、浅草の美人男娼「愛子」の生活ぶりを紹介しました。
そこで問題となるのは、愛子のような女装男娼が、昭和初期の東京にほんとうに実在したか?とういうことです。
 
そのヒントは作中にありました。
ある日、愛子は浅草公園の木馬館裏手にいた人品のいい男に誘いをかけたところ、これが象潟署の刑事で、彼女は直ちに逮捕連行されてしまいます。
そして「旦那如何です モガ姿の変態が刑事に誘ひ」という見出しで新聞に載ってしまいました。
 
この箇所を読んだ時、「あれ?どこかで見た記事だなぁ」と思いました。
早速、ファイルを調べてみると、小説刊行の3ヵ月前の『読売新聞』昭和6年2月27日号にまったく同じ見出の記事がありました。
小説の愛子逮捕の記事は、実在の女装男娼逮捕の記事を出身県と氏名を伏字にしただけでそのまま流用していたのです。
 
この時、逮捕されたのは 福島県生れの西館儀一(24歳)という女装男娼。
この人物は、富喜子と名乗って浅草を拠点に活動していたことが他の記事からわかります(『東京朝日新聞』昭和2年8月13日号)。
 
もちろん、この記事の一致から、愛子=西館儀一(富喜子)と考えるのはあまりに単純すぎます。
ただ、愛子のモデルになるよう女装男娼が、昭和初期の東京浅草に確実に存在していたことは間違いありません。

小説の中で、愛子が新聞記者のロングインタビューを受ける箇所があります。
記者は愛子から、出身、子供時代の思い出、女装男娼になった経緯、現在の日常などを詳細に聞き出しています。
 
おそらく、小説の作者(流山龍之助)も、この新聞記者のように実在の女装男娼から詳しいインタビューをとり、それをもとに小説化したのではないでしょうか。
それほどこの『エロ・グロ男娼日記』はリアリティに富んでいるのです。
 
浅草を拠点に活動していた女装男娼たちは、やがてモダン東京の新興の盛り場として賑わいはじめた銀座に進出します。
愛子も銀座に出かけて松坂屋デパートで半襟などを買った後、上客(退役陸軍大佐)をつかんでいます。
浅草から銀座へ、東京の盛り場の中心の移動とともに、女装男娼の活動地域も移動するというのはおもしろい現象です。
 
その結果として、1933~37年(昭和8~12)、銀座で逮捕された女装男娼が何度か新聞の紙面を賑わすことになりました。
その中には、1937年3月に逮捕された福島ゆみ子こと山本太四郎(24歳)のように、「どう見ても女」と新聞で絶賛?された美人男娼もいました。
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↑ 女装男娼福島ゆみ子の艶姿(『読売新聞』昭和12年3月28日号)。
「男ナンテ甘いわ」というキャプションが実に効果的です。

困難な社会状況の中で、たとえ男娼という形であっても、「女」として生きようとした彼女たちに、どこか共感を覚えるのは私だけでしょうか。

※ 初出『ニューハーフ倶楽部』55号(2007年2月 三和出版)
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_32.htm

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