SSブログ

日本女装昔話 【第31回】 『エロ・グロ男娼日記』の世界(その1) [性社会史研究(女装男娼)]

日本女装昔話 【第31回】 『エロ・グロ男娼日記』の世界(その1)

国立国会図書館の特別閲覧室には、旧内務省が発禁処分にした一群の図書が収蔵されています。
その中に、流山龍之助著『エロ・グロ男娼日記』という文庫版108頁の小冊子があります。
3_3_31_01_2.jpg
↑ 『エロ・グロ男娼日記』(1931年5月 三興社)の表紙。

昭和6年(1931)5月25日に、下谷区西町(現:台東区東上野1丁目)にあった三興社から刊行された翌日、「風俗」を乱すという理由で即日発禁処分を受けたいわく付きの本です。
 
黄色と黒のモダンなデザインの表紙には、処分を示す内務省の丸印が捺されています。
後に「削除改訂版」が出たようですが、現存する初版はおそらくこの一冊のみと思われる貴重なものです。
 
主人公は、浅草の女装男娼「愛子」(22歳)。
時代は、帝都東京がエロ・グロブームに沸き、モダン文化が花開いた昭和5年(1930)頃。
愛子の日記(手記)の形態をとった実録?小説です。
 
愛子の日常をのぞいてみましょう。
自宅は浅草の興行街(六区)の近く、朝は9~10時に起き、床を畳み、姉さんかぶりで部屋を掃除。
その後、化粧。牛乳で洗顔、コールドクリームでマッサージ、水白粉で生地を整え、パウダーで仕上げ、頬紅をたたき、口紅、眉墨を入れます。髪は櫛目を入れ、アイロンで巻毛とウェーブを付けます。
しゃべり言葉の一人称は「あたし」「あたくし」。
銭湯は、以前は女湯を使っていましたが、男娼として界隈で有名になったので、今は男湯。
ほぼフルタイムの女装生活です。

遅い朝食を食べに食堂に入ると、男性から「よう、別嬪!」と声がかかり、馴染み客からは「お前はいつ見てもキレイだなぁ。まるで女だってそれ程なのはタントいねぇぜ」と言われるほどで、かなりの美貌。
初会の客が女性と誤認するのもしばしばで、警察に捕まった時も、刑事にも「なかなかいいスケナオ(女)ぢゃねえか」と言われ女子房に放りこまれたほど。
今風に言えば、パス度はかなりのハイレベルですね。

若い美人、しかも気立ても穏やかですから仕事はいたって順調。
会社員の若い男を誘い旅館で一戦した翌日は、朝食後にひょうたん池(浅草六区)で出会った不良中学生3人を自宅に連れ込み、まとめて面倒をみてやり、夜になって時間(ショート)の客1人、泊まり客1人で収入6円という一日。
 
電車初乗りが5銭、そばが10銭、天丼が40銭という時代ですから、6円は現在の物価に換算して15000円くらいでしょうか。
 
銀座で五十年配の立派な紳士(退役陸軍大佐)に声をかけられ、大森(現:大田区)の待合で遊んだり、ブルジュア弁護士の自家用車で、なんと京都・大阪までドライブしたり、醜男ですが誠意のある妻子持ちの請負師に妾になってくれと迫られたり、「旦那いかがです」と、うっかり私服警官に声をかけて、留置所で10日間を過ごすことになったり、なかなか波乱に富んだおもしろおかしい生活を送っています。
 
さて、女装の社会史を研究している私の関心からすると、問題は、愛子のような女装男娼が、昭和初期の東京にほんとうに実在したか?とういうこと。その点については、また次回に。

※ 初出『ニューハーフ倶楽部』54号(2006年11月 三和出版)
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_31.htm

日本女装昔話 【第14回】警視総監を殴った男娼「おきよ」 [性社会史研究(女装男娼)]

日本女装昔話 【第14回】  警視総監を殴った男娼「おきよ」

「この『人形のお時』さんって、警視総監を殴った人よね」
 
ここは新宿歌舞伎町区役所通り、老舗の女装スナック『ジュネ』。前号のこのコーナーを読んでいた静香姐さんが言いました。
「それが違うんみたいなんです。殴ったのは『おきよ』さんって人らしいです」と私。
「あら、そうなの。あたしはずっと『ときよ(時代)』って人だって聞いてたわ」
 
実は私もそう聞いてました。どうもいつの間にか伝承と事実が食い違ってしまったようなのです。
上野の男娼世界については、この連載の第1回で取り上げましたけど、事実関係に誤りがあったり不十分な点が多かったので、もう一度詳しく述べてみようと思います。
 
東京の中心部のほとんどがアメリカ軍の空襲で焼け野原となった戦後の混乱期に、東京の北の玄関上野に男娼(女装のセックスワーカー)たちが姿を現します。
 
その数は、全盛期の1947~8年(昭和22~23)には50人を越えるほどになりました。娘風や若奥様風の身ごしらえ(当時はほとんどが和装)で、山下(西郷さんの銅像の下あたり)や池の端(不忍池の畔)に立って、道行く男を誘い、上野の山の暗がりで性的サービスを行っていました。
 
そんな上野(ノガミ)の男娼の存在を全国的に名高くしたのが、1948年(昭和23)11月22日夜に起こった「警視総監殴打事件」でした。
同夜、上野の山の「狩り込み」(街娼・男娼・浮浪児などの「保護」)を視察中の田中栄一警視総監(後に衆議院議員)一行が男娼のグループと遭遇しました。総監に随行していた新聞カメラマンがフラッシュを光らせて男娼たちを撮影し始めると、怒った男娼たちがカメラマンにつかみかかり大混乱になりました。
殴打事件はその最中に起こったのです。
3_3_14_01_2.jpg
↑ 「殴打事件」を報道した新聞 (毎日新聞 1947年11月23日号)
3_3_14_02_2.jpg
↑ 毎日新聞掲載の写真の拡大。警察の取り調べを受ける男娼たち。

警視総監を殴り、一躍「英雄」視されることになったのは当時32歳の「おきよ」という男娼でした。
彼女は事件の7年後にこう語っています。「なんや知らんけど大勢の男たちがやって来て、いきなりカメラマンがフラッシュを光らせた。それがアタマにきたんでいちばん偉そうなのを殴ったんよ」
(広岡敬一『戦後風俗大系 わが女神たち』2000年4月 朝日出版社)
3_3_14_03_2.jpg 
↑ 鉄拳の」おきよ姐さん(1955年頃) (広岡敬一『戦後風俗大系 わが女神たち』)

このように事件は偶発的なものでしたが、警察にも面子があります。
当夜、暴行と公務執行妨害で彼女を含めた5人の男娼が逮捕されますが、「警視総監を殴った男娼」として自他共に認める人物はこの「おきよ」さん以外にありません。
 
それでは、なぜ「おきよ」が「ときよ(おとき)」に誤り伝えられたのでしょうか?
「鉄拳のおきよ」として有名になった彼女は、男娼生活から足を洗い1952年(昭和27)に「おきよ」というバーを浅草と吉原(台東区千束4丁目)の中程に開店します。
店には吉行淳之介など軟派系の文化人が出入りし、またハリウッド女優エヴァ・ガードナーが来店して、乱痴気騒ぎの末に脱いだショーツを置き忘れていったり、昭和30年代には大いに繁盛しました。
3_3_14_05_2.jpg
↑ 「おきよ」のメンバー。
中央が「おきよ」さん、その右「ときよ」さん (『100万人のよる』1961年4月号 季節風書房)

実は、この店の看板娘が美人男娼として有名だった「人形のお時」こと「ときよ」さんだったのです。
「人形の・・・」のいわれは、「人形のように美しい」のは確かであるにしろ、実は男娼時代「人形のようにただ立ってるだけで口をきかない」ことによるのでした。
彼女はとても人を殴れるような人柄ではなかったようです。
3_3_14_04_2.jpg
↑   「人形の」お時さん (『100万人のよる』1961年4月号 季節風書房)

かたや武勇伝で、こなた美貌で世に知られた二人の男娼、それが「おきよ」と「ときよ」という間違えやすい名前を持ち、しかも同じ店の姐さんと妹分の関係にあったことが、語り伝えを混乱させた原因だったのです。

※ 初出『ニューハーフ倶楽部』37号(2002年8月 三和出版)
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_14.htm

日本女装昔話 【第1回】上野の森の男娼(1940年代後半) [性社会史研究(女装男娼)]

日本女装昔話 【第1回】上野の森の男娼

「中学に入ったばかりのあたしはね、『男娼』て言葉に胸をジーンとさせたものなのよ」
  
昨年めでたく女装生活50周年を新宿ワシントンホテルで華やかに祝った「ジュネ」(新宿歌舞伎町)の久保島静香姐さんは、遠い少年の日を懐かしむように語ってくれました。
     
少年時代の静香姐さんが胸をときめかせた「男娼」とは、昭和20年代前半、アメリカ軍の空襲で焼け野原となった東京が、敗戦後の食糧難・物資不足による混乱の最中にあった頃、上野(ノガミ)を中心に活躍した女装のセックス・ワーカーたちのことです。
戦後日本の女装史を語るにあたっては、まず彼女たちに登場してもらわなければなりません。
  
彼女たちは、夕闇が濃くなる頃、上野の西郷さんの銅像の下あたり(山下)や不忍池の畔り(池端)に立って道行く男を誘い、上野のお山の暗がりの中で(つまり露天で)、性的サービスを行ったのです。
終戦間も無い1946年(昭和21)初めからぽつぽつ姿が目立つようになり、全盛期は1947~48年(昭和22~23)で、その数は30人を数えるほどでした。
   
彼女たちの出身はさまざまで戦前から浅草辺りで薄化粧で客を引いていた「男色者」、戦災で活躍舞台を失った女装演劇者(「女形崩れ」)、軍隊生活で受け身の同性愛に目覚めた復員兵などが中核でした。
年齢は23歳から45歳で、平均は30歳(1948年の調査)、案外 年齢が高いところに彼女たちの辛苦の人生がしのばれます。

現在、わずかに残されている写真を見ると、彼女たちの多くは、当時の女性ファッションの主流だった和装が中心で、洋装の人はまだ少なかったようです。容姿もさまざまで、女性としても美形の部類に入る人もいれば、ただ女装したオジさんに近い人もいました。
3_3_01_02_2.jpg3_3_01_03_2.jpg         
↑ 上野(ノガミ)の女装男娼。左の写真の人はかなりの美形。
(小峰茂之・南孝夫『同性愛と同性心中の研究』1985年 小峰研究所発行より)

そうした彼女たちの生態をもっともよくうかがうことができるのは1949年4月に刊行された小説、角達也『男娼の森』(日比谷出版)です。3_3_01_01_2.jpg
↑ 角達也著『男娼の森』の表紙

これによると彼女たちは、自分たちを「オンナガタ」と称し、仲間を「ご連さん」と呼び、数人単位で上野駅に近い下谷万年町(現・東上野4丁目)などのアパートに住み仕事場である上野の山では、男娼群全体を代表する「お姐さん(姐御)」に統率されていたようです。

上野を本拠地とする数多い女性の街娼(パンパン)達に比べれば、おそらく10分の1程度の小集団だったようですけども、それだけに団結は固くまた何か事が起こると、日ごろはライバル関係にある女娼であっても庇ってやるような「男気」のある「お姐さん」もいたようです。
     
1948年11月、警視総監田中栄一(後に衆議院議員)が上野の山を視察中にトラブルとなり、「とき代」さんという男娼に殴打されという事件が起こります。以後、警察は上野の山の夜間立ち入り禁止措置など、そのメン
ツにかけて風紀取締(狩込み)を強化しまた。

これによって上野の男娼の全盛は終わりを告げ、彼女たちは、新橋や新宿など都内各地の盛り場に新天地を求めて散って行ったでした。

※ 初出『ニューハーフ倶楽部』24号(1999年6月 三和出版)
http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_01.htm

2012年08月17日『内外旬報』という雑誌−旬刊から週刊へ− [性社会史研究(性風俗雑誌)]

2012年08月17日  『内外旬報』という雑誌−旬刊から週刊へ−

例によって吉祥寺駅前の古書店で『内外旬報』という雑誌を購入。
内外旬報19550220.JPG
↑ 『内外旬報』昭和30年(1955)2月20日号(東京内外新聞社)。

この号、内容は「青春の問題特集」と銘打っている。

私は「娼婦の手帖」と題する「赤線」娼婦と学生客の退廃的なやり取りを記した実録風小説と、「浅草女剣劇総まくり」という特集記事を目当てに買ったのだが、性風俗から芸能界ネタ、実録ものから小説まで、なんでも有りと言えば聞こえは良いが、焦点が定まっていない雑誌である。

刊行は「東京内外新聞社」(東京都千代田区神田駿河台3−3)。
B5版62頁、定価30円。
奥付がないので、巻次は不明だが、表紙に「昭和二十九年五月十三日国鉄特別扱承認雑誌第二八一〇号」とあるので、昭和29年(1954)の創刊だろう。

戦後の混乱期(1945〜50年)に多数刊行されたいわゆる「カストリ雑誌」の一時代後、「ポスト・カストリ雑誌時代」(1951〜59年)に刊行された性風俗雑誌の1つ。

この時期の性風俗雑誌は、まとまった形で所蔵している施設(図書館、研究所)がなく、基礎的なデータも不明で、いちばんよくわかっていない。

『内外旬報』も、ネットで調べたが、ほとんど出てこない。
内外旬報19540530.jpg
↑ 『内外旬報』昭和29年(1954)5月30日号
これは創刊間もない頃のものか。
http://www.romando.net/php/detail.php?title_no=25694

他に、昭30年(1955)6月30日号が存在するので、少なくとも1年1ヵ月は続いたようだ。

『旬報』という誌名どおり、10・20・30日の月3回刊行(旬刊)と推定されるので、40号前後は存在することになる。

国会図書館で検索すると、同じ「東京内外新聞社」から昭和31年(1956)5月以前の創刊で『旬刊タイムス』という旬刊誌が出ている。
未確認だが『内外旬報』は『旬刊タイムス』に引き継がれたのかもしれない。
なお、『旬刊タイムス』は、昭和32年(1957)まで刊行されている。

ところで、(日の末尾に)「0」が付く日とか、「5」が付く日とか、つまり10日おきという隔週刊と週刊の中間の刊行ペースである旬刊(月3回)という形態は、今ではすっかり廃れてしまった。

この形態の雑誌として最も著名なのは、大正8年(1919)7月創刊の『キネマ旬報』(キネマ旬報社)だろう。
その名の通り、昭和15年(1940)12月に戦時統制を理由に終刊するまで月に3回「1」の付く日に刊行されていた。
しかし、戦後の昭和25年(1950)年10月に復刊した時には、毎月2回(5日・20日)刊行になり旬刊ではなくなってしまった。

今では、税・金融関連の業界紙や法律雑誌に「旬刊」はわずかに残っているに過ぎない。

そもそも社会慣行・生活習慣の中で「日の末尾」がほとんど意識されなくなってしまった。
気にするのは「今日はなに曜日?」という感じで、いつの間にか曜日一色。

言うまでもなく、キリスト教の創世神話に基づく「七曜日」という概念は、明治時代初期以前の日本文化にはなかった。

神が月曜日に光を生み出し昼と夜とを分け、火曜日に水を上と下とに分け天を造り、水曜日に大地と海とを分け植物を創り、木曜日には日と月と星を創り、金曜日に水に住む生き物(魚)と鳥を創り、土曜日に家畜を含む陸生の動物とすべての獣を治める人間(男と女)を創って、日曜日は疲れ果てて休息した、なんていう話とは無縁な国なのだ。

「七曜日」の概念が日本に入ってくるのは、明治5年(1872)12月のの新暦(太陽暦=グレゴリオ暦)導入以降。
「七曜日」以前の日本は、すべて「日(の末尾)決め」である。

例えば「二」の付く日に市が立つ(福岡県筑紫野市二日市)、「四」の付く日に市が立つ(三重県四日市市)、「五」の付く日に市が立つ(東京都あきる野市=旧五日市町)、「六」の付く日に市が立つ(新潟県南魚沼市六日町)、「八」の付く日に市が立つ(千葉県八日市場市))、「十」の付く日に市が立つ(広島県広島市中区十日市町)etc。

あるいは、官庁の休日は、明治時代に土曜日午後と日曜日が休みとされる以前は「一・六日(いちろくび)」、つまり、毎月1日(朔)・6日・11日・16日・21日・26日だった。

そう言えば、最近あまり聞かなくなったが、十年ほど前までは、タクシーに乗って、やけに道が混んでいると、運転手さんが「今日は五・十日(ごとおび)ですから・・・」と言い訳することがあった。

「五・十日(ごとおび、関西ではごとび)とは、毎月5日・10日・15日・20日・25日と、30日または月末日のことで、日本の伝統的な商習慣では「五・十日」に決済を行うことが多かった(五・十払い)。
なので「五・十日」には、金融機関の窓口が混みあったり、営業車の行き来が多くなって道路が混んだりしたのだが、今でもそうなのだろうか?

話がずれてしまったが、明治5年に「七曜日」が導入されても、なかなか「七曜日」は浸透せず、社会慣行・生活習慣的には相変わらず「日(の末尾)決め」だった。

「日(の末尾)決め」の刊行形態が旬刊であり、「曜日決め」のそれが週刊である。

旬刊誌の衰退と、それに代わる週刊誌の全盛は、日本人の社会慣行・生活習慣の中に「七曜日」が定着したことを示している。

週刊誌の実質的な初め(*)とされる 『サンデー毎日』(毎日新聞社)の創刊は、大正11年(1922)3月だった。

同じ年の2月に朝日新聞社は『旬刊朝日』(5・15・25日発売)を創刊していた。
朝日は、毎日新聞社が週刊誌を刊行したのを見て、あわてて4月に『旬刊朝日』を『週刊朝日』に衣替えする。

あくまでも大都市圏での話だが、大正末期が「旬刊」から「週刊」へ、「日(の末尾)決め」から「曜日決め」の転換点だったのではないだろうか。

戦後の混乱期、物資の絶対的な不足、紙の統制で印刷用紙の入手が困難で、出版社が雑誌の定期刊行に苦労した。
その時代、週刊より月1回少ない旬刊は、紙やインクの節約という点で、メリットがある刊行形態で、少し息を吹き返した感がある。

しかし、それもつかの間で、紙の統制が解除され、今までの新聞社系の週刊誌に加えて、昭和31年(1956)2月創刊の『週刊新潮』(新潮社)をはじめとして雑誌社系の週刊誌が次々に刊行され、世の中が「週刊誌ブーム」になると、旬刊誌の生き残る余地はもうほとんどなくなってしまった。

『内外旬報』の後継誌と思われる『旬刊タイムス』が姿を消すのは昭和32年(1957)だった。

* 厳密には日本最初の週刊誌は、明治10年(1877)から40年(1907)まで刊行された戯画入り時局風刺雑誌『團團珍聞(まるまるちんぶん)』(毎週土曜発売)である。

【追記(9月24日)】
『内外旬報』(東京内外新聞社)2冊追加購入。
昭和30年(1955)3月20日号と6月20日号。
内外旬報19550320.JPG内外旬報19550620.JPG
3月20日号の特集「アメリカで流行の異性の友達とは何か?」は、冒頭の見出しが「新しい米語デイトとはなにか」。
男女交際の歴史の資料として使えそう。
昭和30年(1955)年の時点で、「デイト」という言葉が(実態も)一般には普及していなかったことがわかる。
記事では「あちらではデイトのさようならはキッスがあたり前」と紹介したり、「ステディ(steady)」や「ダブルデイト」という言葉(概念)も解説している。
戦後すぐに、一気に(全国的に&全階層的に)恋愛が自由化したように思うのは大きな誤りで、男女交際の自由化は、デイト概念の移入にともない昭和30年代になってようやく始まると考えるべきだろう。

2011年09月28日『夜みる新聞』』昭和30年(1955)5月15日号 [性社会史研究(性風俗雑誌)]

2011年09月28日 『夜みる新聞』』昭和30年(1955)5月15日号

吉祥寺駅前の古書店で『夜みる新聞』という雑誌を購入。
夜よむ新聞19550515.JPG
↑ 『夜みる新聞』昭和30年(1955)5月15日号(報道通信社、定価30円)

B5版62頁薄手の雑誌。
どこにも巻号が記されていないが、刊行日が日まで記載されているので、おそらく隔週刊(月2回)か旬刊(月3回)だろう。

この号を購入した理由は「特別調査 売春街・秘密情報」という特集だったので。

新宿、渋谷、錦糸町、鴬谷、大井町、新橋、南千住、浅草千束町など、主に「青線」の情報が載っている。
黙認買売春地区である「赤線」に比べて、非合法買売春地区の「青線」はさらに情報が少ないので、素性の怪しい(書誌がわからない)雑誌だが資料として使えそう。

(追記)
後日、ネットを検索したら、昭30年(1955)4月20日号(報道通信社 B5版62頁)が見つかった。
夜みる新聞19550420.jpg

2012年05月25日 『眞相實話』について [性社会史研究(性風俗雑誌)]

2012年05月25日 『眞相實話』について

『眞相實話』は昭和24年(1949)5月創刊で、出版社は東京千代田区富士見町の「眞相實話社」。

B5版薄手が主流だった「カストリ雑誌」に対して、半分のハンディなB6版で、頁数は150~160頁とかなり厚みがある。
定価は別冊共で60円。

表紙に「特ダネ実話雑誌」と銘打っているように、取材力を売りに、それまで盛行していた「猟奇雑誌」「曝露雑誌」とは一線を画そうとしていた。
表紙も他誌に比べると地味だが、でも、やっぱり内容はエロ・グロ中心。

1950年代に主流になる「実話系雑誌」の先駆の雑誌だが、いつまで刊行されたか不明。
ネット上では、昭和26年(1951)1月号(3巻1号)が確認できる(後日入手)。

手元には、創刊号を含めて3冊ある。
真相実話1-1(1949).JPG
↑ 『眞相實話』昭和24年(1949)5月創刊号(1巻1号)
真相実話1-2(1949).JPG
↑ 『眞相實話』昭和24年(1949)6月号(1巻2号)
真相実話1-5(1949).JPG
↑ 『眞相實話』昭和24年(1949)9月号(1巻5号)

残念ながらいずれも付録は失われている。

同性愛、女装・男装関係の記事としては、次のようなものがある。

(1)平野斗史「軍服の男娼たち」(1巻1号 1949年5月)
(2)大和田清志「男娼を裸にする」(1巻2号 1949年6月)
(3)恩田一郎「国鉄の闘士として更生した半男半女の数奇な秘話」(1巻5号 1949年9月)

(1)は、軍人出身のノガミ(上野)女装男娼に取材した記事で、当時かなりの衝撃を与えた。
日本陸軍(支那派遣軍)における同性愛行為の現実を知る上で貴重な文献。

(2)は、女装男娼の生態レポート。同種の記事の中では信頼度が高い。
ちなみに、当時のノガミの女装男娼のお値段(ショート)は200円。

(3)は、半陰陽の男性として生まれ(戸籍は女性)女性として育ち、成人後、男装して「男装の美人サギ師」として知られ、女性として服役して同房の女性と恋愛騒動を起こし、出獄後、男性として国鉄職員になった(ああ、ややこしい)中村稲子=稲男に取材した記事。

前にも書いたが、日本が連合国に占領されていた期間のうち1945年9月から1949年にかけて国内で刊行された出版物は、GHQ戦史局長だったゴードン・ウィリアム・プランゲ(Gordon William Prange 1910~1980)が検閲のため連合国軍総司令部に提出された出版物を一括してアメリカに送っている。

それがメリーランド大学図書館に「プランゲ文庫」として収蔵されていて、そのマイクロ・フィッシュ化された複製が国立国会図書館や国際日本文化研究センター(京都)に入っていてるので、ほとんどの雑誌を閲覧することができる。

いちばん閲覧が難しいのが、プランゲ・コレクション以後の1950年代に出版された雑誌で、とくに1950年代前半は一括して閲覧できる場所はなく、1冊ずつ集めて行くしかない。

【追記(6月1日)】
昭和26年(1951)1月号(3巻1号)を入手した。
真相実話3-1(1951).JPG
↑ 表紙のイメージが激変している。

2012年05月22日 『デカメロン』4巻2号 [性社会史研究(性風俗雑誌)]

2012年05月22日 『デカメロン』4巻2号

明治大学で講義を出終えて、駿河台下の「丸亀製麺」で遅い昼食。
すずらん通りの「きんとと文庫」へ。

今日は雑誌類をチェック。
昭和20年代の風俗雑誌『眞相實話』を2冊と『デカメロン』1冊を購入。
デカメロン4-2(1954).JPG
↑ 『デカメロン』4巻2号 昭和29年2月(全日本出版社)

『デカメロン』は多色の漫画チックな表紙が特徴的な性風俗雑誌。
昭和29年が4巻だから、創刊は昭和26年(1951)と思われる。
B6版のポケット小判だが、かなり分厚い。
4巻2号は346頁で、定価90円。

同性愛・女装関係の記事は2本。

小見山繁「日本男色生態報告 男色愛好者百人による驚異の記録」
海川信三「男娼はこうして女に化ける」

どちらもなかなか興味深い。
いずれ『デカメロン』の書誌もまとめたいが、まだ資料が足りない。

『眞相實話』については別にまとめた。
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-20-5

【追記 2012年11月29日】
『デカメロン』の巻次に混乱があることが判明。
創刊は昭和26年(1951)ではなく、昭和22年(1947)の可能性が大。
詳しくは下記へ。
(参照)2012年11月29日 性風俗雑誌『デカメロン』の書誌の謎
http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp/2012-11-29-9

2012年05月14日『夜の東京』昭和2年11月号 [性社会史研究(性風俗雑誌)]

2012年05月14日 『夜の東京』昭和2年11月号

少し前に手に入れた『夜の東京』昭和2年(1927)11月号(3巻11号)。
東京の夜1927-11.JPG
B5版36頁(表紙含む)で、定価は20銭。
発行は「東京市四谷区内藤町1番地」の「夜の東京社」。

「第三巻」とあることから、創刊は大正14年(1925)と推定される。

表紙に「泰西名画」の裸婦像をど~んと載せているこの雑誌、誌名の副題に「大東京の裏面観察」、サイドに「素敵 露骨 本能」とあるように、関東大震災(大正12=1923)の被害から再生し、「エロ・グロ」ブームに湧く「帝都大東京」の性風俗紹介がテーマ。

大都市の性風俗をテーマにした雑誌というと、戦後の混乱期に乱発された「カストリ雑誌」を思い浮かべるが、すでに昭和初期に、もっとちゃんとした性風俗をテーマにした雑誌があったのだ。

見方を換えると、日中~太平洋戦争(昭和12~20年=1937~1945)の時期を挟んで、昭和初期(昭和元~11年=1926~1936)と、戦後の昭和20年代(昭和21~29年=1946~54)の性風俗の基調は通底しているということ。

戦後混乱期の性風俗の解放は、すでに昭和初期の「エロ・グロ」期に準備されていたのだと思う。

『夜の東京』昭和2年11月号(3巻11号)の内容は以下の通り。

------------------------------------

羽太鋭治「絶世の美人にまつはる疑問」
MK生「彼女を殺したが―法医学実話―」
月形良之介「亀ちゃんと玉ちゃんの比較論―大東京の裏面に蠢く人肉の市―」
「オートバイで走る断髪の怪婦人」
「或るビルヂングの休み時間」
一色好男「売色電車―諸君はこんなめにあつた事がありますか―」
天野光好「男を征服?男に征服?」
英 葉子「つる? つられる?」
連理 梅「恋愛情景」
門田涙花「浮気女優征伐の巻 出雲美樹子の発展癖」
藤野星子「トンチキへの公開状」
山田忠正「娯楽需要者と浅草」
野上賛次「(恋愛小説)共同便所の家(3)」
桜子「恋人と親との間に」
春子「恋知らぬ男」
星子「社長よ何処へ」
葉子「許婚の死から」
K生「(CAFFE夜話)艶福の思ひ出」
大江魔三郎「ダンスホールの一夜」
水上 渉「虫・鳥・小動物の恋愛合戦」
長濱 繁「(通俗神経衰弱講話第1講)精神衰弱の原因と早漏症」

------------------------------------

当時の「性慾学」の第一人者、医学博士羽太鋭治を巻頭に迎え、次に弁護士の「法医学実話」を置き、そして巻末をドクトル・メヂチーネ長濱繁の「通俗神経衰弱講話」で締めるが、中間はルポルタージュや体験実話、女性名(ほんとうに女性かはかなり怪しい)の小話など、かなり軟らかな内容。

文章や漢字、そして外来語の多用からして、読者層は一般庶民ではなく、中産階級以上のインテリ層と思われる。

その証拠に「定価20銭」は、薄手の雑誌の割には安くない。

昭和2年前後の物価は、封書3銭、銭湯5銭、市電7銭、そば8銭、映画30銭、うな重50銭、天丼60銭、小学校教諭初任給50円、国家公務員(高等文官試験合格)初任給75円だから、現在の物価に換算すると、だいたい4000~5000倍くらいだろうか。

すると、20銭は800~1000円くらいの見当になる。

この『夜の東京』、国会図書館にも、大宅壮一文庫にも所蔵されていない。
おそらく、まとめて所蔵している図書館はないのではないだろうか。

したがって、古書価格はかなり高い。

私も所蔵は、大枚はたいて購入したこの1冊だけ。

個人では、某先生の書庫に20冊ほど並んでいるのを見たことがある。
まさに涎物だった。

2012年03月30日 戦後性風俗雑誌『千一夜』の書誌 [性社会史研究(性風俗雑誌)]

2012年03月30日 戦後性風俗雑誌『千一夜』の書誌

あまり良い状態ではないが、戦後の性風俗雑誌『千一夜』昭和28年(1953)6月号(6巻6号)を手に入れたので、『千一夜』の書誌を調べてみた。
千一夜6-6(1953).JPG

『千一夜』
昭和23年6月号(1巻1号)明星社(大阪)
昭和23年7月号(1巻2号)明星社  書名は「オール物語」
昭和23年?月号(1巻3号)明星社  書名は「オール物語」
昭和23年11月号(1巻4号)明星社
昭和24年1月号(2巻1号)明星社
昭和24年4月号(2巻3号)明星社
昭和24年8月号(2巻6号)明星社
昭和24年10月号(2巻8号)明星社
昭和25年2月号(3巻2号)明星社
昭和25年3月号(3巻3号)明星社
昭和25年4月号(3巻4号)明星社
昭和25年9月号(3巻9号)明星社
昭和25年11月号(3巻11号)千一夜出版社
昭和25年12月号(3巻12号)千一夜出版社
昭和26年1月号(4巻1号)千一夜出版社
昭和26年2月号(4巻2号)千一夜出版社
昭和26年4月号(4巻4号)千一夜出版社
昭和26年5月号(4巻5号)千一夜出版社
昭和26年7月号(4巻7号)千一夜出版社
昭和26年8月号(4巻8号)千一夜出版社
昭和26年12月号(4巻12号)千一夜出版社
昭和27年1月号(5巻1号)千一夜出版社
昭和27年2月号(5巻2号)千一夜出版社
昭和27年5月号(5巻5号)桃源社(東京日暮里)
昭和27年8月号(5巻8号)桃源社
昭和27年12月号(5巻12号)桃源社
昭和28年1月号(6巻1号)桃源社
昭和28年3月号(6巻3号)桃源社   所蔵
昭和28年6月号(6巻6号)桃源社   所蔵
昭和28年11月号(6巻11号)桃源社
昭和28年12月号(6巻12号)桃源社
昭和29年1月号(7巻1号)桃源社
昭和29年2月号(7巻2号)桃源社
昭和29年3月号(7巻3号)桃源社


『楽園』
昭和29年8月号(7巻8号・千一夜改題)』桃源社

【今の段階で判ったこと】
・創刊は昭和23年(1948)6月号である(プランゲ文庫に創刊号がある)。

・1巻2号・3号は「オール物語」という書名で刊行、1巻4号から「千一夜」に戻る。
 どういう経緯だったのか不明。

・出版社名は、当初は「明星社」(大阪)で、昭和25年秋に「千一夜出版社」(?)になり、昭和27年春頃に「桃源社」(東京日暮里)になり、三遷している。
 もともと大阪の出版だったのが、東京に遷ったので、それが関係しているのか?

・終刊は昭和29年7月号?、次の8月号から『楽園』に改題。
 ただし、巻号は『千一夜』引き継いだ。

・『楽園』の終刊時期は不明。

千一夜6‐3(1953).JPG
↑ 『千一夜』昭和28年(1953)3月号(6巻3号)

2011年09月28日 戦後性風俗雑誌『りべらる』の書誌 [性社会史研究(性風俗雑誌)]

2011年09月28日 戦後性風俗雑誌『りべらる』の書誌

戦後の混乱期に雨後の竹の子のように乱立した性風俗雑誌には、正確な書誌が明かでないものが結構ある。

創刊の時期は創刊号があれば確認できるが、終刊の時期は「終刊号」と銘打ったものもなくはないが、ほとんどの場合、予告なしに消えてしまう(休刊・廃刊)ので、時期を確定するのはかなり難しい。
早い話、いちばん新しい号の実物を探して、「少なくともこの時までは刊行されていた」とするしかない。

ところが、俗に「カストリ雑誌」と呼ばれるこの手の雑誌、1945~49年の占領軍検閲時代のものは、「プランゲ文庫」(*)のマイクロフィッシュが国会図書館などに収蔵されていて閲覧できるが、それ以降の時期のものは、所蔵している図書館がきわめて少なく、実物に当るにしても苦労する。

昭和20年代の性風俗雑誌の代表格である『りべらる』(昭和21年1月創刊、太虚堂書房)も終刊の時期が明らかでなかった。

以前、ネットで『リベラル』の書誌を調べた時には、「昭和21年から28年まで続いたらしい」という説が載っていた。
(参照)「カオスの本棚」http://homepage2.nifty.com/bookbox/annakonna2.htm

しかし、昭和28年終刊説は、私が3年ほど前に昭和29年(1954)12月号を入手してデータを更新したので、成り立たない。
りべらる9-13(1954).JPG
↑ 『りべらる』昭和29年(1954)12月号(第9巻13号、太虚堂書房、定価100円、A5版148頁)

その後、「SMぺディア」というサイトに「1955年(昭和30年)9月まで発行され、その後『漫画タイム』へと誌名改題され1956年(昭和31年)2月に幕を閉じる」と記されているのを知った。
さらに、太虚堂書店の刊行は1955年(昭和30)4月号までで、1955年(昭和30)5月号以降は白羊書房から刊行されたとのこと。
(参照)「SMぺディア:りべらる 」
http://smpedia.com/index.php?title=%E3%82%8A%E3%81%B9%E3%82%89%E3%82%8B

りべらる10‐5(1955).JPG
先日、『りべらる』昭和30年(1955)4月号(第10巻5号、定価100円、A5版148頁)を入手した。

「SMぺディア」の解説によれば、太虚堂書房刊行の最後の号ということになるのだが、奥付の発行所ははすでに白羊書房になっている。

また、最終頁の「編集室」というコーナーに、
「この度、約十年にわたって皆様に親しまれて来た「太虚堂書房」と云う社名を、本年初頭より「白羊書房」と変更致しました。勿論社の内容にはなんらの変更もありません」
という挨拶文が載っている。

『りべらる』の発行所が「太虚堂書房」から「白羊書房」に変わったのは社名変更だったことがわかった。

ということで、「SMぺディア」の記述をベースにして、少し修正を加えると、『りべらる』の書誌は、下記のようになる。

昭和21年(1946)1月、太虚堂書房から創刊。
昭和30年(1955)4月、4月号(10巻5号)から、社名変更により発行所が白羊書房に変わる。
昭和30年(1955)9月、9月号まで『りべらる』の誌名で刊行。
昭和30年(1955)8~10月、『りべらる』から『漫画タイム』に移行。
昭和31年(1956)2月、2月号で『漫画タイム』が終刊。

【追記(11月26日)】黒田さんからいただいたご教示(コメント欄)によって修正を加えた。
『りべらる』から『漫画タイム』への移行事情はたいへん複雑なようである。

ところで、『りべらる』昭和30年4月号の内容だが、「男娼日記 ヒロポンらぷそで」(石河宏)という記事が載っている。
「小田急線沿線にある、かなり大きな療養所」を舞台に、元男娼の「おアネエさん」が主人公の小説。

残念なことに「おアネエさん」であっても療養所に強制収容されているので、女装シーンすらなく、男娼の生態に関してはほとんど資料にならない。

昭和30年には、時代風俗の関心が、男娼からヒロポン(**)に移っていることを感じる。

* プランゲ文庫
アメリカのメリーランド大学図書館が所蔵する、日本が連合国に占領されていた期間のうち1945年から1949年にかけて国内で刊行された出版物のコレクション。検閲のため連合国軍総司令部に提出された出版物を、戦史局長だったゴードン・ウィリアム・プランゲ(Gordon William Prange 1910~1980)が一括してアメリカに送ったもの。マイクロ・フィッシュ化された複製が、国立国会図書館や国際日本文化研究センター(京都)に入っていて閲覧できる。

** メタンフェタミン(商品名:ヒロポン)
明治26年(1893)薬学者・長井長義によりエフェドリンから合成され、大正8年(1919)緒方章がその結晶化に成功した。アンフェタミンより強い中枢神経興奮作用をもつ覚醒剤である。
ヒロポン(Philopon)は、大日本住友製薬の登録商標でメタンフェタミンの商品名であり、成分名は塩酸メタンフェタミン錠。
日本では、大正末~昭和初期以降、疲労倦怠感を除き眠気を飛ばす「除倦覚醒剤」として軍・民で使用されていた。当時は副作用の危険性が知られていなかったため、一種の強壮剤のような形で広く利用されていた。
しかし、昭和20年(1945)8月の敗戦後に軍の備蓄品が市場へ流出し、精神を昂揚させる手軽な薬品として蔓延、依存症になる者(「ポン中」)が続出し大きな社会問題となった。中毒患者は50万人を超えたと推定されている。このため、昭和26年(1951)に「覚せい剤取締法」が施行された。

コメント
『りべらる』補足と『あまとりあ』昭和26年増刊号(黒田さん)
初めまして。『風俗科学』について検索しておりましたところ、貴ブログへ辿り着きました。
 性科学雑誌の書誌的な研究は大衆雑誌やカストリ雑誌と比べて遅れており、その意味から見ても貴重な研究サイトだと思います。

こちらで扱われている『りべらる』と『あまとりあ』ですが、幾つか補足事項をお知らせしたくコメント致しました。
別掲示板経由でSMpediaへ転載して頂いた上記雑誌2点の記事は私が書いたので現物を所持しており、それらを確認したうえでの通知です。

『あまとりあ』昭和26年増刊号(1巻7号)は『あまとりあ臨時増刊 世界性愛文学選集』鎖夏特別号として昭和26年8月15日付で発行されております。
また、『あまとりあ』創刊号には『あまとりあ新聞』が付録として挟み込まれていました。

『りべらる』は誌名改題の期間が複雑であり、同誌8月号が発行されたあと、『漫画タイム」名義の増刊が発行、『りべらる』9月号が発行されると同時期に『漫画タイム』9月1日号が発行されました。
『漫画タイム』になってからは月2回発行となり、1日号と20日号が出ておりました。
廃刊については、「悪魔の嘲笑」の著者校ゲラが2月20日号掲載分までしか作者に送られていない事、真野律太氏が編集長を務める別雑誌の創刊も考慮してSMpediaへ「2月で廃刊」と記しました。

簡単ながら以上の通り、御報告申し上げます。
(2011年11月23日 00時30分09秒)

--------------------------------
Re:『りべらる』補足と『あまとりあ』昭和26年増刊号(09/28) (三橋順子さん)


黒田さん、いらっしゃいま~せ。

> 性科学雑誌の書誌的な研究は大衆雑誌やカストリ雑誌と比べて遅れており、その意味から見ても貴重な研究サイトだと思います。

ありがとうございます。
書誌研究がメインテーマではないのですが、誰かが整理しておかないとますます解らなくなりそうなので・・・。

> こちらで扱われている『りべらる』と『あまとりあ』ですが、幾つか補足事項をお知らせしたくコメント致しました。

ご教示ありがとうございます。
ご指摘を踏まえて、本文に訂正を加えておきました。

昭和30年前後のこの種の雑誌の出版事情はかなり複雑なようですね。
誰か整理して、まとめてくれないかなぁ、と思っています。

今後ともよろしくお願いいたします。
(2011年11月27日 02時56分48秒)

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。