SSブログ

2005年05月21日 研究発表「都市(東京)における『男色文化』の歴史地理的変遷」 [性社会史研究(性別越境・全般)]

2005年05月21日 研究発表「都市(東京)における『男色文化』の歴史地理的変遷」

5月21日(土) 曇り

9時半、起床。
30分ほど寝坊。
いそいで朝ご飯を食べ、シャワーを浴びて、仕事場に移動。

11時30分、身支度。
黒地に青緑の牡丹柄の伊勢崎銘仙(単)、赤地に銀糸で薔薇を刺繍した帯(「牡丹と薔薇」)。
梔子染の半襟をつけた緋色の長襦袢(袷)、帯揚は芥子色、帯締は萌黄。

13時20分、レジュメの入った重い紙袋をもって東急東横線、山の手線を乗り継いで目白へ。
折良く来たバスに乗って日本女子大学へ。

今日は、現代風俗研究会(東京)「新風俗学教室」で研究発表(15~18時)。
大阪から着物友達で現風研会員の華宵さん、京都から京都精華大学大学院の土井信吾さんが遠路はるばる来てくれる。
その他にも、トランスジェンダー社会史研究会の杉浦郁子さんや石田仁さんも姿を見せてくれて、会場はほぼ満席(約28人ほど)。
うれしい!。

発表は「都市(東京)における『男色文化』の歴史地理的変遷-盛り場の片隅で-」。

江戸時代の陰間茶屋から、昭和戦前期、戦後混乱期、昭和後期、そして現代と、「異性装をともなわない男色文化」と「異性装をともなう男色文化」の2つの系統の文化が、どのような歴史的変遷をたどったか、「盛り場」との地理的関連に注目してたどる試み。

女装の男娼は、戦前から戦後混乱期、浅草→(銀座)→上野と系譜を繋ぎ、1950年代には上野、有楽町、新橋、新宿に展開した。

戦後混乱期に始まるゲイバーは、2つの流れがある。
まず、銀座に始まり、1960年代に新宿2丁目の旧赤線地区に集中して、ゲイタウンを形成する「異性装を(必ずしも)伴わない」ホモセクシュアル系ゲイバーの流れ。
60年後半から70年代前半の急激な集中化をもたらした理由はなんだったのだろうか? 今後の課題。
もうひとつは、新橋→銀座→赤坂・六本木と動いていく「異性装をともなう」女装系ゲイバーの流れ。こちらは1980年代に、ショーを売り物にするニューハーフ・パブとしてリニューアルされる。

前者が「盛り場」の変遷とはあまり連関しないのに対し、後者は東京における「盛り場」の展開に見事に沿っている。
集中と展開、こうした方向性の相違は、二つの男色文化の基本的な性格の相違(ホモセクシュアルか擬似ヘテロセクシュアルか)、営業的には顧客の違いによるのだと思う。

時間が足りなくてかなり話を端折ってしまったし、そもそも特異なテーマなので、会場の方に興味をもってもらえたか、たいへん不安だった。
ところが、討論時間が足りないくらい、いろいろな質問やコメントをいただけて、活発な討議になり一安心。

いずれ、調査や考察の足りない部分を補って、いずれ2~3本くらいに分けて論文にまとめたいと思う。

18時半、いつものように駅に戻る途中の魚料理屋さんで懇親会食。
どういう話の流れだったか忘れたが、川崎の「かなまら神社」(京急川崎大師駅近くの若宮八幡神社)の話題になる。
この神社の祭礼「かなまら祭」は、東京近郊に残る数少ない性神信仰の民俗として、ごく一部の人には有名(ほとんどの川崎市民には知られていない)。

たまたま懇親会で、川崎の民俗文化に関心がある西山郁夫さんと、川崎在住の男性が、私の前に座っていて、その話題で盛り上がる。
もう6年行っていないので、来年4月の「かなまら祭」には、ぜひご一緒したいと思った。

21時過ぎ、目白駅前で三次会に行くメンバーにご挨拶。
ほんとうは、発表者でなのだから、最後までお付きあいしなければいけないのだが、失礼する。

(続く)

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。