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2005年12月14日 新宿遊廓の場所 [性社会史研究(遊廓)]

2005年12月14日  新宿遊廓の場所

12月14日(水) 晴れ

以前から気になっていた新宿遊廓の正確な場所を検討。

新宿遊廓の場所については、現地に痕跡がまったくない。

少なくとも私があの界隈をよく歩いていた頃(8~10年ほど前)は、旧跡であることを示す表示もなかったと思う(今でもたぶんない)。

江戸時代の内藤新宿の飯盛女に起源をもつ新宿遊廓は、場所の変遷があるが、昭和戦前期の遊廓の所在地については「新宿2丁目」にあったことは間違いない。
ただし、その正確な場所については、かなり曖昧である。

私は、新宿で遊んでいた頃、ある年配の方から「現在の『ビッグス新宿ビル』(2丁目19番地)が遊廓の跡地である」と聞いたことがあった。

その後、「東京の性感帯-現代岡場所図譜-」(『人間探究』25号 1952年5月)に掲載されていた地図と照合して「ビッグス新宿ビル」とその周囲(12・16・17・18・19番地)」が、戦後(1946~1958年)の「赤線」(特殊飲食店街)指定地域であることもわかった。

このエリアは、現在では(ビッグス新宿ビルを除き)、男性同性愛者向けの酒場の密集地域になっているので、「赤線」から「ゲイタウン」という変遷は、間違いない。

問題は、昭和戦前期の新宿遊廓と戦後の「赤線」との地理的重なりである。
重なっていることは間違いないが、同じエリアだったとは限らない。

そのことに遅まきながら気づいたのは、今年の1月に入手した「新宿盛り場地図」(新宿歴史博物館編)だった。

昭和10年(1935)ころの新宿の町並みを正確に記したこの地図の片隅に、新宿遊廓(の西半分?)が描かれているのだが、その位置が、私が思い込んでいた場所とはかなり異なっていた。
ずっと西に(新宿駅寄りに)寄っていたのである。
(1月30日の「日記」参照)。
http://zoku-tasogare-sei.blog.so-net.ne.jp/2012-09-16-10

以来、ずっと気になっていたが、目先の仕事に追われてちゃんと検討する時間がなかった。
やっと今日、同じ縮尺になるようにコピーした昭和10年(1935)頃と現代の地図を重ね合わせてみる作業をすることができた。

まず道路について。
新宿通りと明治通りはほとんど拡幅されていない。
靖国通りは明治通りより東でかなり拡幅されている。
何よりも大きな変化として、現在の2丁目と3丁目の境界になっているグリーンベルトのある広い道路(御苑大通り=新田裏の交差点の南で明治通りから分岐して新宿御苑に突き当たる道路)が、昭和10年には未開通であること。

細かく見ると、昭和10年の地図で「東海通り」と注記されている末広亭の前の南北道、さらに西側の南北道は、現在と同じである。
そして、これが肝心なことだが、昭和10年の地図で「大門通り」と注記されている新宿遊廓のメインストリートは、現在の要通りに一致する。

つまり、現在の要通りの両側、新宿3丁目の7・8・9・10番地には、遊廓の建物がぎっしり立ち並んでいたことになる(ただし、7・10・11番地は要通り寄りの3分の2ほどが遊廓)。

新宿遊廓は、さらに東に広がっていて「ビッグス新宿ビル」のあたり(新宿2丁目19番地)にも遊廓の建物が立ち並んでいたが、少なくとも新宿遊廓のメインストリートは、現在の2丁目ではなく3丁目であることが確定できた。

こうした認識の混乱に、遊廓という土地の記憶を抹殺したいという意識が作用していることは間違いないと思う。
さらに事情をややこしくしているのは、先述の御苑通りの開通による道路と街区の大きな変化、そしてそれに伴う2丁目と3丁目の境界の変化である。

御苑通りは、新宿遊廓のエリアを真っ二つにしているので、その開通が遊廓の立地状況に大きく影響を与えたことは間違いない。

2丁目と3丁目の境界については、やはり年配の方から「要通りが境界だったんだよ」と教わったことがあり、そう認識していたが、それは必ずしも正確ではないようだ。
地図を重ね合わせると、昭和10年頃の2丁目と3丁目の境界線は、新宿遊廓の西側のライン(裏通りと塀があった)に重なっている。
境界線は、現在の地番では3丁目7・10・11番地を通過しているが、現在の道路区画には該当するものがなく、おおよそのところ、要通りと末広亭前前の南北道の間、半分よりやや末広亭前道路寄りを通っている。
(後に調べたら、2丁目と3丁目の境界線変更の時期は1968年1月1日のようだ)

ということで、昭和戦前期の新宿遊廓の所在地について、だいぶ認識を改めることができた。
後は、御苑通りの開通の時期を確定できれば、かなりはっきりすると思う。

ちなみに、今から13年前、私が初めて行った新宿のお店「梨沙」は、新宿3丁目7番地にあった。
戦前の地図と合わせてみると、新宿遊廓の西南端に当たり「第一不二川」という妓楼の跡地に相当する。
なんだかとても感慨深い。

2005年01月30日 新宿遊廓の場所比定 [性社会史研究(遊廓)]

2005年01月30日  新宿遊廓の場所比定

1月30日(日) 曇り 寒い

土曜日に新宿歴史資料館で購入してきた「新宿盛り場地図」を眺め、手持ちの昭和30年代、及び現代の地図と対比してみる。

昭和10年段階の新宿遊廓の場所は、私が今まで考えていた場所より、西寄りであることが判明。

このあたりは、単に戦災(空襲)で丸焼けになっただけでなく、道路改正、特に現在、新田裏で明治通りから分岐して新宿御苑に突き当たっている中央分離帯のある大きな通り(御苑大通り)の開通で、街割りが大きく変わり、新宿2丁目と3丁目の境界も移動しているので、比定が難しい。

どうも現在の要通り(御苑通りの1本西の道路)が、新宿遊廓の中央を南北に通っていた「大門通り」に相当するようだ。

もう少し調べてみようと思う。

2005年09月26日 遊廓・赤線踏査のメモ作り [性社会史研究(遊廓)]

2005年09月26日 遊廓・赤線踏査のメモ作り

遊廓・赤線踏査のメモを作る。
2000年11月の東京洲崎から、2005年9月の京都中書島・橋本まで12カ所になっていた。

自分としてはメインテーマではなく、サブテーマのひとつという位置付けなので、計画的に歩いているわけではない。
出張先で時間があるときに立ち寄ったり、気が向いて出掛けたりなのに、いつも間にか、ずいぶん写真が溜まっていた。

中にはすでに失われてしまった建物の写真もある。
今まであまり整理もしていなかったので、この機会に少しちゃんと整理しておこうと思う。

私が遊廓や赤線があった場所を歩いて当時の建物などの写真を撮るのは、主に三つの理由がある。
第一は、原色のタイルに彩られた怪しいデザインの建物に不思議な魅力を感じるから。
第二は、かってその場所で、さまざまな理由から売春という行為をしなければならなかった「女たちがいた」こと、あるいは、一時の快楽のために女たちを買った男たちがいたことを、忘れたくないから。
第三は、なぜか研究が手薄な戦後の買売春の歴史の今に残る生の資料を収集したいから。

こう書くと、性社会史研究者らしいすごく真っ当な理由に見える。
だけど、ほんとうの理由はもっと深いところにあるのかもしれない。

なぜか、私は遊廓や赤線のあった場所に惹かれるのだ。
そして、その場所に立つと、妙に懐かしい思いが浮かんでくる。
その場所にいたであろう女たちにシンパシィというか、親和感を感じている自分に気が付く。

最初は、私が旧青線地区(1946~58年の非合法売春地区)である新宿花園街とその近辺で「女」としての青春時代を過ごしたからかなと思った。
でも、それだけではない気がする。

これから先の話は読み流していただきたい。
2001年1月に初めて新吉原を歩いた。
今はソープランド街になっている街を、赤線時代の建物を探して歩き回った。
小さな公園になっている場所で足が止まった。
なぜかすごく懐かしい気持ちになった。
ずっと以前にいた場所に帰ってきたような・・・・。

そこは、明治~大正期に有名な大店があった場所だった。
私は何回か前の前世で、ここにいたのではないだろうか?
そんな思いが心に浮かんできた不思議な体験だった。

妄想かもしれない、妄想だろう。
でも、今でも心の奥に、その思いはある。

就寝4時。

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