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2008年06月12日 再び「ラスト・フレンズ」考 [現代の性(性別越境・性別移行)]

2008年06月12日 再び「ラスト・フレンズ」考

6月12日(木) 雨のち曇り 東京 21.8度 湿度 78%(15時)

12時、起床。
久しぶりによく眠って、溜まっていた疲れがとれた感じ。
朝食は、ソーセージパンとコーヒー。

シャワーを浴びて、髪をアップにまとめる。
仲良し姐さんのブログを見て、ちょっと真似してみたけども、髪の長さも量も足りなかった(シクシク)。
まあ、あちらは、夜中に髪がシュルシュル伸びる人だから(笑)

今日は、自宅で静養のつもり。
「日記(11日分)」を書く。
新聞記事(切り抜き)をファイルに整理。
昼食は、ほやの酢醤油漬けと烏賊の塩辛で、ご飯を1膳。

その後、崩れそうになっている週刊誌の山を整理。
ああ、重いもの運ぶと、腰が痛い(老化)。
古いものから中身をチェックして、必要な記事を収集。
なかなか進まない。
やっと30冊ほど。

夕食の支度。
冷蔵庫の整理を兼ねて、ビーフストロガノフ(もどき)を作る。
2時間ほど煮込む。

20時、夕食。
ビーフストロガノフ、昨夜の残りの回鍋肉、それに白菜キムチ。
ぜんぜん統一感なし。

洗い物をした後、フジテレビのドラマ「ラスト・フレンズ」を見る。
DV男の似たような手口の罠に何度もはまる美知留(長澤まさみ)って、有り得ないほど学習能力に乏しいと思う。
前回も似たような感想を書いたが、このドラマでは、DVもストーキングも、そして暴行も、犯罪行為という認識が乏しい。
どれひとつ取っても、間違いなく警察沙汰なのに。

また、先週「いったいどう結末をつけるつもりだろう?」と書いたが、実にあっさりテレビドラマらしく、結末がついてしまった。
DV男宗佑(錦戸亮)の自殺という形で・・・・。
あまりのあっけなさに、口あんぐり。
あれだけの執念・執着をみせた男が、こんな簡単に命を断つものだろうか?
まあ、当たり前だけど、ストーリーの都合ということだろう。

それにしても、瑠可(上野樹里)は、最後まで、レズビアン(女性同性愛)と性同一性障害(FtM)だか、よくわからなかった。
父親へのカミングアウトが「男の子を好きになれない」では、どう考えたってレズビアンだろう。
性同一性障害だったら「(自分を)女の子だと思えない」になるはず。
それに対する父親の述懐が「子供の頃から、男の子に混じって元気に遊ぶ子だった」というのもちぐはぐ。
男の子が好きになれない子は、男の子に混じって元気に遊ぶ子なのだろうか?

性同一性障害は性自認の問題(自分が男か、女かということ)、レズビアンは性的指向(男が好きか、女が好きか)の問題。
性自認と性的指向は、基本的に独立の系で連動しない。

それを連動させて、「女が好きだから自分は男なのだ」という論理は間違い。
もし、そうなら、レズビアンは皆、男に転性しないといけなくなる。

このドラマは、どうもそこらへんがごっちゃになっている。

たぶん脚本家が、そこらへんの違いをわかっていないのだろう。

夜中、メールのお返事を書く。
明日の講義の準備。
「日記(12日分)」を書く。
就寝、4時。

(追記)
『ラスト・フレンズ』の脚本家・浅野妙子さんのインタビューを読んだ。
http://www.tokyowrestling.com/articles/2008/06/last_friends_1.html

私がこのドラマに感じていたもどかしさの理由がやっとわかった。
脚本家は、最初から、「FtMとレズビアンの間にグレーゾーン」があるとして、「瑠可をそのゾーンに入れている」のだそうだ。
また「私の中では瑠可はFtMとレズビアンの間なんです」と言い切っている。
つまり、瑠可がレズビアンなのかFtMのGIDなのかよくわからない、という私の見方は、脚本家の意図したものだったということ。
ではなぜ、レズビアンという言葉を使わずに、「性同一性障害」とか「性別違和症候群」という言葉を多用したのか?
それについては、
「今回は性同一性障害という設定が(プロデューサーの意向で)最初に決まっていた」こと、
「ドラマ『3年B 組金八先生』で、上戸彩が性同一性障害を演じてクローズアップされたので、その言葉のほうが日本では認知度が高い」ので、「どっちともはっきりは言えないけれど、まずは「性同一性障害」にしておこう、と考え」たこと。

また、脚本を事前に閲覧したFtMの方に「これってレズビアンじゃん(笑)。レズビアンだと何でいけないの?」というしごく最もな指摘をされたのに対して、
「でもなんかやっぱり一般の人によりアピールするときにはこの言葉が必要だと感じたので、言葉として「性同一性障害」という単語を残したいという意図で」実質、無視したとのこと。

つまり、番組制作上の「ご都合」で、現実の当事者の有り様や深い思慮に基づいたものではないということ。
こんな姿勢では、私のような一般視聴者(非当事者)が違和感をもつだけでなく、FtMGIDの当事者が強い違和感、さらには怒りを持つのは、当然だろう。
それに、ここまで存在を軽視・あいまい化されたレズビアンの人たちは、怒らないのだろうか?

まあ、しょせんはドラマ、と言えばそれまでなのだけど、高視聴率のドラマだからこそ、視聴者の認識に与える影響は大きく、それによって当事者がいろいろな形で社会から作用(誤解、偏見、差別)を受ける。
そこらへんのことを、この脚本家は、ほとんど認識していないようだ。
期待が大きかっただけに、落胆も大きいドラマだった。

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