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2007年08月12日 進駐軍と戦後日本のゲイ/トランスジェンダー文化 [性社会史研究(性別越境・全般)]

2007年08月12日  進駐軍と戦後日本のゲイ/トランスジェンダー文化

16時、化粧を直して、身支度。青地に白の大きな撫子柄の浴衣。
変り織の生地が張りがあって、肌にくっつかず、今日のような暑い日にはうってつけ。
吸い上げ暈しの黄色の半襟をつけた半襦袢。
黄の博多帯を下に巻き、黒と赤の半幅帯を上に巻いて、角出しに結ぶ。
吸い上げ暈しの草色の帯締(ゑり正)を掛ける。
紫の地に秋草の柄の横長の手提げ袋。
赤白の市松柄の鼻緒をすげた白木の高右近の下駄。

髪はいつものお団子+尻尾(付け毛)。

17時、仕事場を出て、恵比寿経由で品川駅へ。
普段ほとんど用がない港南口に出て、その変貌にびっくり。

今夜は、2年前の夏にバンコクのアジア・クィア学会でお会いしたトッド・ヘンリー氏(アメリカ:コロラド大学準教授)と会食。
戦後日本トランスジェンダー研究会の仲間の石田仁さん(明治学院大学非常勤講師)、杉浦郁子さん(中央大学非常勤講師)の4人で、石田さんが予約した居酒屋へ。

トッドさん、まったくの菜食主義者で、オーダーに苦心する。
欧米の肉食文化圏出身のトッドさんが完全な菜食で、明治になるまでほとんど肉食をしなかった(魚食はしたが)日本人の私が平気でお肉を食べる。
食文化の変遷の不思議。

トッドさん、私の論文「戦後東京における『男色文化』の歴史地理的変遷-『盛り場』の片隅で-」(『現代風俗学研究』12号 2006年3月)をとても高く評価してくださる。
日本の学界では、まったく黙殺されているので、とてもうれしい。

その上で、占領期(1945年9月~1952年3月)の日本のゲイ/トランスジェンダーの状況分析について意見を交換する。
この時期の日本は、政治(GHQ:日本政府)、経済(統制:闇)、文化(進駐軍キャンプ:一般社会)という二重構造だった。

性的なものも含めて、文化的には、進駐軍キャンプの中で何が行われていたかは、日本人は基本的にアンタッチャブルだった。
しかし、進駐軍キャンプで醸成されたさまざまな文化が、戦後日本の文化・芸能に大きく影響を与えたことは、音楽の分野(ジャズ)などでは、よく知られている。

同様に、進駐軍の軍人・関係者の中に多数含まれていた男性同性愛者が、戦後日本のゲイ/トランスジェンダーのあり様に大きな影響を与えたことは、容易に推測できる。
戦前からの日本伝統の(土俗的な)「男色文化」と、進駐軍キャンプ起源のゲイ文化が合体したものが、戦後日本のゲイ/トランスジェンダー文化なのではないか?というのが私の仮説。

仮説としてほぼ正しいという自信はあるものの、証明する史料が決定的に欠けている。
この時期の進駐軍キャンプの中で何が行われていたか、具体的には、進駐軍の慰安・娯楽関係施設に関しては、史料的(文献的)にはまったく、ブラックボックスなのだ。

たとえば、進駐軍慰問演芸団には、3人の女装ダンサー(日本人)がいたことがわかっているが、「彼女」たちがどういう経緯で、そこにいたのかはまったく明らかではない。

どうもこうした占領下の日本の特異な社会状況について、占領した側(アメリカ)の研究者はあまり関心がないようだ。
日本の研究者も、この時代の実相にまったく無知な人が増えている気がする。

トッドさん曰く、アメリカで公開されつつある戦後日本関係の公文書の中にも、それらに関するものは、今のところ見当たらないとのこと。

20時過ぎ、お開き。
短い時間だったが、有益な意見交換だった。

男(トッドさん&石田さん)、女(杉浦さん&私)に分かれて、お茶。

杉浦さんに、進駐軍には女性軍人や女性職員もかなりいたので、そうした中に含まれるレズビアン女性が、戦後日本のレズビアン文化に影響を与えた可能性が十分あることを語る。
しかし、こちらは、もっと資料がないだろう。

22時、仕事場に戻る。
帰路、軽い吐き気。
暑さと寝不足で、かなり心身が疲労していることを実感。

23時半、4日ぶりに帰宅。

なんとかお風呂に入り、髪を洗う。
そこまでで、電池が切れる。

就寝、2時。

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