2006年04月02日 「女装芸者」の事例2つ [性社会史研究(女装芸者)]
2006年04月02日 「女装芸者」の事例2つ
4月2日(日) 曇りのち雨
11時、起床(仕事場)。
10時に目覚ましをかけておいたのに寝坊。
でも、これが限界。
朝食は、コンビニのサンドイッチとコーヒー。
シャワーを浴びて、無理やり身体を起こす。
12時、身支度。
着物は、午後から雨の予報なので、薄紅色の滝縞の会津木綿。
帯は、黒と銀の鱗。
緋色の長襦袢、帯揚は緑)、帯締は山吹
13時半、家を出て、15分ほど歩いて満開の桜が池に映る碑文谷公園へ。
14時少し前、行きつけの居酒屋「一善」のお花見に参加。
私は、大幅に遅刻なので、すでに宴も半ば過ぎの状態。
14時半過ぎ、雨が落ち始めたので撤収のお手伝い。
15時過ぎ、場所をお店に移して二次会。
常連さんとおしゃべりしながら2時間ほど飲み食いしたところで、右の上腹部、ちょうど帯の上辺あたりに刺すような痛みを感じる。
最初、胃痙攣かと思ったがどうも痛みが違う。
落ち着いて確かめると、痛みの場所は胃よりも右で、肝臓より上。
痛みは間歇的なので我慢はできる。
とりあえず、飲み食いを控えて、ウーロン茶を少しずつ飲むだけにする。
常連のお客さんS氏(男性、60歳代前半 国会議員秘書)から、耳寄りな話を聞く。
S氏が、まだ若いころ(20歳代半ば)の1969年12月、中央の「本社」から4人の後輩を連れて福島県に出張した。
地元の「支社」の人が、お宿を飯坂温泉の有名ホテル「J」に取ってくれて、宴席には5人の芸者さんをつけてくれた。
宴も果てて、芸者を「お持ち帰り」することになった。
S氏は5人の芸者の中で一番の美人で「小股の切れ上がった良い女」に目を付けていた。
しかし、くじ引きの結果、残念ながら、彼女は一番若い同僚に当たってしまった。
S氏は悔しいと思ったが、こんなことで先輩権限を振るうのもどうかと思い、あまり好みでない芸者で我慢した。
その夜、S氏があまりきれいでない芸者と同衾していると、部屋の戸を必死に叩く者がいる。
「無粋な奴だ」と思いながら出て見ると、一番の美人芸者をお持ち帰りした若い同僚。
「どうした?」と問うと、「先輩、助けてください。彼女、男です!」
このことから、1960年代末に、福島の飯坂温泉に女装芸者がいたことがわかる。
しかも、若くてとびきり美人の。
「女装芸者」とは、男姿でお座敷で芸を披露する幇間(たいこもち、「男芸者」とも呼ばれる)とは異なり、女性の芸者さんと同じような姿でお座敷に出て、芸を披露し接客をする人(男性)。
数こそ少ないが、明治期から1970年代まで、日本各地の温泉地などにいたらしい。
私が確認している限りでは、明治40年(1907)朝鮮半島の鎮南鋪から平壌に進出したことが『読売新聞』に報じられている「桃太郎」という女装芸者が初見(『読売新聞』1907年2月1日号)。
大正末期には大洗温泉(茨城)の磯節の名手「兼ちゃん」、昭和初期には、塩原温泉(栃木)の「おいらん清ちゃん」が知られる。
戦後になると、伊東温泉(静岡)の「チャコ」、雄琴温泉(滋賀)の「よし幸」(後に女性に転換)、熱海温泉(静岡)の「お雪」などがマスコミで紹介された。
S氏の貴重な話をメモしていたら、今度は「一善」のマスター(70歳代)がこんなことを教えてくれた。
1962~63年頃、洋品店業界の慰安旅行で熱海温泉に行った時、お座敷に女装芸者が来た。
50歳前後(推定)の年配の大柄な芸者さんで、日本髪を結い黒の出の衣装(芸者のお座敷着)を着ていた。
たしか「〇(ナントカ)太郎」という名前だったと思う。
有名な人らしく、周囲の若い(女性の)芸者が立てていた。
熱海温泉の「女装芸者」として知られたお雪姐さんは、1969年のデビューだから、マスターが見た「女装芸者」とは別人で、もう一人、いたことになる。
一晩に2つも「女装芸者」の事例を聞くことができて、私はびっくりするとともに、大歓び。
2000年度に、中央大学の講義で「女装芸者」についてちょっと話をしたところ、山口県の湯田温泉出身の学生が「母に聞いた話ですが、湯田にもそういう人がいたそうです」と教えてくれたことがある。
現在では、東京向島検番の真紗緒姐さんが、たぶん唯一人の現役の「女装芸者」になってしまったが、どうも1970年代くらいまでは、絶対数こそ少ないものの、けっこうあちこちの花街(温泉地)に「女装芸者」がいて、地域社会でそれなりに受け入れられ、遊興客の人気を集めていたらしい。
「女装芸者」について何かご存知の方、断片的でもけっこうですから、ぜひ教えてください。
ところで、「女装芸者」には、お客さんも「女装芸者」であることを知って座敷に呼んで遊んでる場合と、置屋や温泉地の主だった人は「女装芸者」であることを知ってにも、お客さんには知らせずにおく場合の2つのタイプがある。
「女装芸者」のほとんどは、前者のタイプだが、稀に後者のタイプもいる。
1959年頃、鬼怒川温泉(栃木)で若くて美人、踊りも三味線も巧みで人気だった「きぬ栄」が、本名を市左衛門という立派な名前をもつ男性だったことが『週刊文春』に報道されている。
「きぬ栄」の場合は、置屋の女将の計らいで、女性の芸者として検番に登録されていた。
先ほどの飯坂温泉の美人「女装芸者」は、あきらかに後者の珍しい事例になる。
女性の芸者として通すならば、彼女としては たとえ男性と同衾して性行為に及んだとしても、バレないようにしなければならない。
たぶん彼女はその自信があったからこそ、敢えて「お持ち帰り」されたのだと思う。
なのになぜ失敗したのか?
相手が性体験の少ない若い男性だったので、油断したのだろうか?。
「弘法にも筆の誤り」「猿も木から落ちる」という言葉が思い浮かぶ。
20時過ぎ、お開き。
仕事場に戻り、急いで着替え。
この時、先ほどの痛みは、どうやら肋間神経痛であることに気づく。
連日のお花見で冷えたせいかなと思う。
(まだ帯状疱疹ということは頭に浮かんでない)
22時、帰宅。
お風呂に入る。
さすがにクタクタで、胸の痛みのこともあり、何もしないでベッドへ。
就寝、2時。
4月2日(日) 曇りのち雨
11時、起床(仕事場)。
10時に目覚ましをかけておいたのに寝坊。
でも、これが限界。
朝食は、コンビニのサンドイッチとコーヒー。
シャワーを浴びて、無理やり身体を起こす。
12時、身支度。
着物は、午後から雨の予報なので、薄紅色の滝縞の会津木綿。
帯は、黒と銀の鱗。
緋色の長襦袢、帯揚は緑)、帯締は山吹
13時半、家を出て、15分ほど歩いて満開の桜が池に映る碑文谷公園へ。
14時少し前、行きつけの居酒屋「一善」のお花見に参加。
私は、大幅に遅刻なので、すでに宴も半ば過ぎの状態。
14時半過ぎ、雨が落ち始めたので撤収のお手伝い。
15時過ぎ、場所をお店に移して二次会。
常連さんとおしゃべりしながら2時間ほど飲み食いしたところで、右の上腹部、ちょうど帯の上辺あたりに刺すような痛みを感じる。
最初、胃痙攣かと思ったがどうも痛みが違う。
落ち着いて確かめると、痛みの場所は胃よりも右で、肝臓より上。
痛みは間歇的なので我慢はできる。
とりあえず、飲み食いを控えて、ウーロン茶を少しずつ飲むだけにする。
常連のお客さんS氏(男性、60歳代前半 国会議員秘書)から、耳寄りな話を聞く。
S氏が、まだ若いころ(20歳代半ば)の1969年12月、中央の「本社」から4人の後輩を連れて福島県に出張した。
地元の「支社」の人が、お宿を飯坂温泉の有名ホテル「J」に取ってくれて、宴席には5人の芸者さんをつけてくれた。
宴も果てて、芸者を「お持ち帰り」することになった。
S氏は5人の芸者の中で一番の美人で「小股の切れ上がった良い女」に目を付けていた。
しかし、くじ引きの結果、残念ながら、彼女は一番若い同僚に当たってしまった。
S氏は悔しいと思ったが、こんなことで先輩権限を振るうのもどうかと思い、あまり好みでない芸者で我慢した。
その夜、S氏があまりきれいでない芸者と同衾していると、部屋の戸を必死に叩く者がいる。
「無粋な奴だ」と思いながら出て見ると、一番の美人芸者をお持ち帰りした若い同僚。
「どうした?」と問うと、「先輩、助けてください。彼女、男です!」
このことから、1960年代末に、福島の飯坂温泉に女装芸者がいたことがわかる。
しかも、若くてとびきり美人の。
「女装芸者」とは、男姿でお座敷で芸を披露する幇間(たいこもち、「男芸者」とも呼ばれる)とは異なり、女性の芸者さんと同じような姿でお座敷に出て、芸を披露し接客をする人(男性)。
数こそ少ないが、明治期から1970年代まで、日本各地の温泉地などにいたらしい。
私が確認している限りでは、明治40年(1907)朝鮮半島の鎮南鋪から平壌に進出したことが『読売新聞』に報じられている「桃太郎」という女装芸者が初見(『読売新聞』1907年2月1日号)。
大正末期には大洗温泉(茨城)の磯節の名手「兼ちゃん」、昭和初期には、塩原温泉(栃木)の「おいらん清ちゃん」が知られる。
戦後になると、伊東温泉(静岡)の「チャコ」、雄琴温泉(滋賀)の「よし幸」(後に女性に転換)、熱海温泉(静岡)の「お雪」などがマスコミで紹介された。
S氏の貴重な話をメモしていたら、今度は「一善」のマスター(70歳代)がこんなことを教えてくれた。
1962~63年頃、洋品店業界の慰安旅行で熱海温泉に行った時、お座敷に女装芸者が来た。
50歳前後(推定)の年配の大柄な芸者さんで、日本髪を結い黒の出の衣装(芸者のお座敷着)を着ていた。
たしか「〇(ナントカ)太郎」という名前だったと思う。
有名な人らしく、周囲の若い(女性の)芸者が立てていた。
熱海温泉の「女装芸者」として知られたお雪姐さんは、1969年のデビューだから、マスターが見た「女装芸者」とは別人で、もう一人、いたことになる。
一晩に2つも「女装芸者」の事例を聞くことができて、私はびっくりするとともに、大歓び。
2000年度に、中央大学の講義で「女装芸者」についてちょっと話をしたところ、山口県の湯田温泉出身の学生が「母に聞いた話ですが、湯田にもそういう人がいたそうです」と教えてくれたことがある。
現在では、東京向島検番の真紗緒姐さんが、たぶん唯一人の現役の「女装芸者」になってしまったが、どうも1970年代くらいまでは、絶対数こそ少ないものの、けっこうあちこちの花街(温泉地)に「女装芸者」がいて、地域社会でそれなりに受け入れられ、遊興客の人気を集めていたらしい。
「女装芸者」について何かご存知の方、断片的でもけっこうですから、ぜひ教えてください。
ところで、「女装芸者」には、お客さんも「女装芸者」であることを知って座敷に呼んで遊んでる場合と、置屋や温泉地の主だった人は「女装芸者」であることを知ってにも、お客さんには知らせずにおく場合の2つのタイプがある。
「女装芸者」のほとんどは、前者のタイプだが、稀に後者のタイプもいる。
1959年頃、鬼怒川温泉(栃木)で若くて美人、踊りも三味線も巧みで人気だった「きぬ栄」が、本名を市左衛門という立派な名前をもつ男性だったことが『週刊文春』に報道されている。
「きぬ栄」の場合は、置屋の女将の計らいで、女性の芸者として検番に登録されていた。
先ほどの飯坂温泉の美人「女装芸者」は、あきらかに後者の珍しい事例になる。
女性の芸者として通すならば、彼女としては たとえ男性と同衾して性行為に及んだとしても、バレないようにしなければならない。
たぶん彼女はその自信があったからこそ、敢えて「お持ち帰り」されたのだと思う。
なのになぜ失敗したのか?
相手が性体験の少ない若い男性だったので、油断したのだろうか?。
「弘法にも筆の誤り」「猿も木から落ちる」という言葉が思い浮かぶ。
20時過ぎ、お開き。
仕事場に戻り、急いで着替え。
この時、先ほどの痛みは、どうやら肋間神経痛であることに気づく。
連日のお花見で冷えたせいかなと思う。
(まだ帯状疱疹ということは頭に浮かんでない)
22時、帰宅。
お風呂に入る。
さすがにクタクタで、胸の痛みのこともあり、何もしないでベッドへ。
就寝、2時。
2012-10-01 02:02
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