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【資料紹介⑥】「男芸者ナンバー・ワンになるまで」 [性社会史研究(性別越境・全般)]

2013年2月9日(土)
【資料紹介⑥】佐藤ひふみ「男芸者ナンバー・ワンになるまで」(『100万人のよる』1959年9月号)
「足を洗った夜の特殊技術者たち」という特集の中の「佐藤ひふみ」という「女装芸者」(実態は女装男娼)の手記。

出身地(徳島県)、「千万億(ちまお)」という本名、経歴、容貌、「ひふみ」という女性名などから、1961年秋に「性転換ストリッパー」として有名になる「吉本一二三(ひふみ)」と同一人物であることは確定的。
吉本一二三の「性転換」以前の経歴がわかる興味深い資料。

なお、吉本一二三の「性転換」以前の写真としては、広岡敬一『昭和色街美人帖』(自由国民社、2001年6月)掲載の写真が知られている。
このうち洋装の写真を『100万人の夜』の「佐藤ひふみ」の写真と比べると、V字模様のワンピースが同一であることがわかる。
資料6-7.jpg資料6-8.jpg
(左)芸者姿の吉本一二三 (右)洋装の吉本一二三(いずれも1952年頃)
 広岡敬一『昭和色街美人帖』(自由国民社、2001年6月)より
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(長い手記の書き起こしをしてくださった谷屋正子さんに、感謝いたします)
資料6-1.JPG
足を洗った夜の特殊技術者たち 第1の手記 佐藤ひふみ
男芸者ナンバー・ワンになるまで
 (『100 万人のよる』 1959年9月号)

女以上の女となれ  転性手術を断られて発奮しました
私が東京に出てきて、はやいもので、もう六年にもなります。
永井明子さんとかいう人でしたが、男性から女性へと転性手術をして成功、キャバレーでシャンソン歌手として第二の人生に出発したことを、新聞記事で読みました。それが住みなれた大阪の街をあとにする原因になつたのです。そのとき、まだ十八歳になつたばかりでした。
いま考えて見ればお笑いグサですが、東京にいつて永井さんが手術を受けた病院にいけば、私も完全な女性として生れ変ることができるのだ……、いちずにそう思い込んでいたのでした。
私は吉原でバーを経営していたお清姐さんをたよつて上京したした。大阪は私たちの仲間は大ぜいいましたが、東京にはまだそれほど多くはありませんでした。だからお清姐さんは私がきたことを心づよいといつて喜んでくれました。
けれども上京した理由を聞くと、
「そんなことができるのかしら、できるのだつたら私だつてとうの昔にチョン切つているよ」
と笑われてしまいました。そして、
「女形というものは体のつくりは男であつても、女以上に女らしいことがひとつのプライドにもなつているのだよ」
と、お説教されました。
資料6-3.JPG資料6-2.JPG
しかし、姐さんの注意もそこそこに場所を教えられて四谷の慶応病院にいきました。そこで永井さんが手術した、と聞いていたからです。
名前は忘れましたが、エラそうな先生の診断をうけました。さいしよ「そんなことはウチではやつていないのだから」と断わられましたが、たのみかたが熱心だつたのと、男だか女だかわからないのが、東京では珍らしい関西弁でまくしたてるので、受付で閉口したせいかもしれません。とにかく診察してくれました。
ところが結果は、がつかりでした。
その先生からは、「立派な男性です」と太コ判をおされてしまつたのです。
転性手術というものは、両陰陽の持ち主で、男か女かどちらかの傾向の強いほうにきめることはできても、完全な性の持ち主をその反対の性に変えることはできない、ということを聞かされました。
私は、ジャマな物をチョン切ってもらつて穴をあけてもらえばそれですむのだ、と簡単に考えていたのでしたが……。
私は期待をうらぎられてガッカリしてしまいました。これでは恥ずかしくて大阪にもかえれない。「東京にいつて、体も女になつて帰つて来ます……」と。勇んで出発したからでした。
でも仕方がありません。それならしばらく東京で働くことにしようと、浅草の国際劇
場の横にあるアパートに部屋を借りました。
「体を女にすることができなかつたかわり東京の女形のナンバーワンになつてやろう」
と決心したからです。

「やーい、オトコオンナ!」 小学校を中退ドサ廻りの女形になりました
ところで、「わて女なのに、なんでこない男の子みたいなモンついてんやろ」と、私が不思議に考えるようになつたのは小学校にあがる前からでした。
生れたのは四国の徳島県。家は商人で、私は六人兄姉の末つ子でした。
そこで祖母の溺愛をうけて育ちました。それが現在の自分というものを運命づける結果になつたものかどうか、とにかく髪も長くさせられ、赤いきものを着せられて育てられました。男二人、女四人の兄姉のなかで私は女の末つ子のようにされながら大きくなつたのです。
自然、小学校でも女の子ばかりと親しくしていました。祖母が芸事を好きだつたこともあり、幼いころから日本舞踊をみつちり習わせられました。小学校時代、そんな私が同性たちにうけるはずがありません。
「オトコオンナ、オトコオンナ」
と呼ばれていつも仲間からはずされていました。
そんなことで、いつか学校にいくのがたまらなく嫌になりました。「どうして男の子なんかに生れたのだろう」と考えだしたのは、そのころからです。親からもらつた千万億(ちまお)という名前にさえ憎悪を感じはじめた私でした。
小学校を卒業するとすぐ私は、役者になるといつて旅廻りの一座にはいりました。東京大歌舞伎「中村芝歌大一座」という十五人ばかりの劇団で、四国を巡業していました。十三歳でしたか、あのときは。これが私の運命を決定的にしました。
子供から女形、そして座長の芝歌に私は“女”にされたのです。
さいしよから私はそれがイヤではありませんでした。さいしよのとき恥かしかつたことだけをおぼえているだけで、あとは、むしろ快い思い出がのこつています。
商売のさいしよは大阪の釜ケ崎でした。――飛田の遊郭に近いこのあたりは男娼で全国的に有名なところですが、一座が大阪でゴナンを喰つて解散したとき、私はここへ飛びこんだのです。故郷にはかえる気がありませんでした。
こんな私を受け入れてくれるところではないと考えましたし、同性を恋しがる私の生きていけるところでもないと知つていたからでした……。
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バレないために先制攻撃  長ジュバンだけは決して脱ぎませんでした
さて、東京に出てきた私はたちまち流行つ児になりました。
日本舞踊と舞台できたえたことはムダではなかつたし、そのころの女形のなかでは、いちばんの若手だつたことも強かつたのでしようか。
どうせかせぐのなら、というわけで新橋と銀座を職場にえらびました。衣装には金がかかるが、それなりに収入もよいです。
私たちのかせぐ区域は自然ときめられていました。新橋と田村町の中間から西銀座の一帯がそうです。不思議にほかの場所にいつても、思うように客がつかないのです。
客はいろいろです。キモノ姿に、たまには日本髪のカツラをつけて出かけるので、ことに珍らしがられました。女形だと知つて誘うもの、それと知らずに誘うものとは半々くらいでした。
知らずに誘う客にはさいごまで女形とはわからさずに満足させてかえす。それが私たちの腕というものなのです。客の求めるモノ、それを与えてかえすのだから、決してサギ行為ではないと思いますが……。
「この客は私のことを女形だとは思っていないな」
そう感じると部屋に入るなり、いきなり体当りをくらわせるのです。
くらわせる、といつても何も乱暴をするわけではありません。一年間も想いあつていながらめぐりあうチャンスのなかつた恋人同士が、お互の情熱をぶちまけるように……といつたようで、いきなりサービスを始めることなのです。つまり、先制攻撃をかけるわけです。
ほとんどの客が面喰つてしまいます。「ちよ、ちよつと待つてくれよ」とあわてるが。こちらはおかまいなしだ。マゴマゴしていて、さぐられたりして女形であることがバレては面倒になります。日本の楽器の名になぞらえた行為、これは普通のパン助はよほどのことがなければやつてくれはしませんが、それで客はいいかげん変な気持になつてくる。
その行為だけで満足してしまう客もおおいのです。
「あらもう駄目なの、だらしがないわね」
だが、それ以上求められたばあい、電気を消して私は長ジュ袢一枚になるのです。決してハダカにはなりません。バレてしまうからです。
あとは私の手も足も全身で彼にサービスします。男性と女性の場合の感じは、じゆうぶんにそれで与えられるものです。
ナジミになつて私のところに通つてくる客のうち、いまだに女形であることを知らないものが五人くらいはいます。ほんとうです。
あとからバレたことはあつても、プレイがすむ以前にバレてモメたことは、まだ一度もありません。それが私の誇りでもあるわけなのです。

オイオイ泣きだした旦那 「浮気だけはしないでくれ」と懇願するのでした
ところで旦那をもつたことは一度だけあります。
Yというその旦那は、六十歳をすぎていました。さいしよ新橋であい、女形と承知のうえでつきあいました。そして彼から毎月五万円のお手当をもらう身分になつたわけですが、これは半年もつづきませんでした。
浅草橋の問屋の旦那であるYはすべての道楽をしつくした男でした。もつとも女形にこる男のほとんどがそれなのですが。
一ヵ月のかせぎが十万円をくだらなかつた私にとつて、五万円のお手当では不足でしたが、街に立つことにくたびれていたし、Yを多少なりとも愛していたことが世話になる決心をつけさせたのです。Yは毎日、私のアパートに通つてきました。
「お前のような美人はいない」
それが彼の私に対するコロシ文句でした。
男と男とが愛し合うことに不思議さを感じる人もすくなくないようですが、女としての器官にかけていたとしても、愛しあうことは出来るのです。たぶんに精神的なものが先行はしますが……。
キッスを交し、お互いに愛撫しあつて、そのあとは前からうしろからの相違があるだけのものなのではありますまいか。
私がエクスタシーにおちいるとき、そのときの現象は女形とはいえ男性となんら変つたところはありません。
余談はさておき私は浮気者なのでしようか。やがてYにだけ独占されることにあきたらなさを感じはじめました。
Yの目をゴマ化して、ときどき銀座に現われましたが、それはすぐYの目についてしまいました。Yは怒りました。
「じや旦那、奥さんと別れるのだつたら私も浮気を止める」
私がそういうと彼はそうするといつて、泣きながら私に浮気だけはしないでくれ、と哀願したものです。
けれども一軒の店をかまえて大きな息子さんまでいるYが、私が本当の女だつたらまだしも、女形であるだけに世間態もあることだし、そんなことの可能なはずはありません。
泣く泣くその人は別れました。もつともYはいまでも客として通つてくれていますが……。
資料6-6.JPG
目の前には奥さんがいて  「レクリェーションですね」と笑うのでした
長い間やつていると不思議な客にもよくぶつつかります。
去年の春のこと、ある日、りつぱな中年の紳士に声をかけられて連れていかれたのは世田谷のほうでした。しかもそれは彼の自宅なのです。車のなかでその男は、不愉快かもしれないがいうことをきいてくれといいながら私に一万円を前払いしてくれました。
気前のよさと、引導をわたされたことにかすかに不安を感じさせられましたが、ケセラセラ、とかまえこんでさて玄関を入ると、その奥に向って「お客さんを連れて来たぞ」と怒鳴りました。
するとあらわれたのはやはり中年で、ちよつと病的な感じのする奥さんでしたが、奥に通され、洋酒を出されました。奥さんもいつしよでした。やがて
「今夜はうちに泊つていきなさい」
といわれて寝室に通され、そこでやつと彼が車のなかでいつた「不愉快だろうが」の意味がのみこめました。つまり奥さんの前で紳士と私は実演させられたわけなのです。
奥さんは首のところまで布団をあげて、そのフチをにぎりしめて私たちを見つめていました。そして、つぎに彼と奥さんとの……
「これがレクリエーションでね」
つぎの朝、その男は照れたような表情で私に申しました。ふと見ると奥さんも朝食の御給仕をしながら、恥じらいをおさえているような風情でした。

オカマで悪かつたわね  十年間で一千万円ためた仲間もいますが
ところで私は人にあうと、よく、ずいぶん金を貯めただろうといわれますが、着物は残つても金はなかなか残らないものです。女形の仲間で財産家はEちやんでしよう。彼女は関西の女形ではなく、東京の女形です。
女形は関西が本場とされているのに場違いにお株をとられてはシャクですが、情にもろいから関西の女形はもうけられない、ということになれば、シャクにさわりかたもすくなくなるというものです。
Eちやんの商売は荒つぽいことで有名です。私たちがさいごまで女であることに努めるのに反して、彼女は客を連れ込んでしまえばそれまでなのです。
時によつてはかえつて客にバレることを望んでいるようですらあります。
「何だオカマじやないか」
とでも客にいわれればシメたもので、
「何さ、オカマで悪かつたわね」
大アグラでタンカをきりだす。
女形のタンカというものは不気味なものらしいですね。しかも中味は二十二、三の若者。たいていの客はタジタジとなります。
「約束どおりのお金はもらうわよ」
アソベ、といわれも客のほうではすでに戦意を失つてしまつている。二千円なり三千円の金がまきあげられる。これが本当のヤラズブッタクリというものでしよう。
彼女は一昨年、麻布に四百万円かけてアパートをつくりました。そのほか銀行預金もあり、十年間ほどのかせぎは千万円をくだらないだろう、とウワサされています。
しかしそういうカセギかたは、やはり邪道だと私は思つております。

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