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2009年12月01日 「化粧男子」か「女装男子」か [現代の性(性別越境・性別移行)]

2009年12月01日 「化粧男子」か「女装男子」か

12月1日(火)
11月26日の「第1回 東京化粧男子宣言!」について、「結果的に女装コンテストになってしまった」という批判があるらしい。

「化粧男子」か「女装男子」かということについては、会場でショーを見て、審査しながら、ずっと考えていた。
そのときに考えてみたことを整理して、まとめてみたい。

男性が、女性の化粧テクニックやファッション・アイテムを身に付けていく、つまり女性のジェンダー記号を重ねていけば、女性の性別表現に近づいていくのは当然のことだ。

「化粧男子」と「女装男子」の関係で言えば、「化粧男子」が女性の化粧テクニックやファッション・アイテムを流用する以上、見かけ上「女装男子」になっていくのは、ほとんど避けられない、必然的なことだと思う。
それを避ける、つまり女装にならないようにするのは、かなり難しい。

敢えて方法を考えれば、重ねた女性ジェンダー記号を打ち消す(中和する)ような決定的な男性ジェンダー記号(髭とか)を付けることだろうか。

しかし、そうした男女のジェンダー記号が対抗しているような自己表現を、どういう視点で「美」として評価するかは、かなりは難しいだろう。

あるいは、そもそも女性の化粧テクニックやファッション・アイテムを使わないということも考えられる。
つまり、男性が男性のジェンダー・イメージのまま、化粧と衣装により美しさを競うということ。

理念としてはわからないわけではない。
しかし、衣装はともかく、女性の化粧テクニックを流用しない化粧というものが、現実の問題として、果たして成り立つだろうか?
私の頭に浮かぶのは、歌舞伎の立役の隅どりくらいだ。
「化粧男子」が見かけ上「女装男子」にならない可能性を否定するわけではないが、かなり難しい細い道筋のように思う。

逆に言えば、「化粧男子」から「女装」の要素を取り去ってしまったら、自己表現の幅はずいぶん狭くなってしまうだろう。
今回のような多様な自己表現になったかは疑問だ。

また、「化粧男子」から「女装」の要素を抜いた時、多くの観衆がそれに魅力を感じるかも疑問に思う。
つまり、「女装」という要素抜きでは、「化粧男子」は成り立たないとは言わないが、多様性も魅力も大きく減じてしまうだろう。

どうしても「女装男子」では嫌だというのなら、たとえ、外見上、女装に見えたとしても、あくまでも「『女装男子』ではない。『化粧男子』です」と開き直って言い張ることだ。

つまり、性他認的には「女装男子」であっても、性自認的には「化粧男子」だということ。
結局、「化粧男子」か「女装男子」かは、突き詰めればアイデンティティ(自己認識)の問題だと思う。

次に、それをどう評価するかだ。

女性の化粧テクニックやファッション・アイテムを使っていれば、それらをどうこなして自己表現をしているか、あるいは身体との適合度やバランスを見ることになるのは、やはり当然の観点だと思う。

「それでは『女装男子』の審査基準であって『化粧男子』の審査基準ではない」
と言われれば、正直、私は困ってしまう。

「女装男子」の価値基準を持ち込むな、と言われるのなら、私は審査員の任ではない。

「化粧男子」の審査基準とは、いったいなんなのか?
ぜひ、ご教示いただきたい。

ちなみに、「女装男子」の評価は、必ずしも女性への成り切り度だけではない。
それに加えて、女性では表現できない、「女装男子」特有の美があることが望ましい。
というか、そうでなければ「女装」の意味がない。

今回、「グランプリ」をとられた方には、そうした女装特有の美の片鱗が感じられたから、私は高く評価した。

こうした審査に、異論があるのは仕方がないことだ。
たしかに「結果的に女装コンテストになってしまった」という側面があることは私も認める。

では、なぜ「女装コンテスト」ではいけないのか?
たとえ「女装コンテスト」であっても、今回、新しい自己表現の可能性が、いろいろ芽ぶいていたと思う。
それでは、いけないのだろうか?

私は、長年「女装」の世界で生きてきた私の審美基準に従って審査した。
ただ、それだけだ。


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